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12月, 2020の投稿を表示しています

日記752

ひさしぶりに、くら寿司へ行った。あのシステマチックな回転寿司チェーン。以前よりシステム化がすすんでいたような。むろん食事目的なんだけど、それよりなにより個人的には「体感なんだ!」と思った。アトラクション的。こどもがはしゃぐのもうなずける。なんか新鮮な発見をした気分。 これはしかし、とくに目新しい視点ではないのだろう。「くら寿司 アトラクション」で検索してみると、おなじことを書いている人がちらほら見つかった。そうそう。乱暴に言い切ってしまえば、食事がメインの場所ではない。 遊園地のアトラクションとほとんどいっしょ。ラインのうえをガチャガチャ動いて、ワーキャー言って、はいお会計。完全にシステムの一部となる。寿司もさることながら、人間のほうも露骨にまわされている。このシステムに乗れない人間は、ぜんぜん楽しめないのだと思う。これも遊園地と似ている。 ポジティブに表現するなら「アトラクション」。いっぽうで、もうひとつ連想したのは家畜の管理システムだった。まるで養鶏場のニワトリ気分。しょうじき、こっちの印象のほうが強く、わたしはどちらかといえば「家畜ごっこ」と思って楽しんだ。くら寿司へ行けば、エサをついばむ鳥になれる。ブタでもウシでもなんでもいい。人間に疲れたら、くら寿司へ行こう。 ネガティブで皮肉っぽい言い草だけれど、システムにすっぽりハマって匿名的な存在になると気持ちがやすらぐような面は確実にある。ことしは余裕がなくて「刑務所に入ったほうがラクなんじゃないか」と思っていた時期がすくなからずあった。番号で呼ばれ、なにもかも管理されて、ある意味では無責任になれる……。しかしそんなものは夢想に過ぎない。刑務所はたぶん、もっとつらい。 ただ自由よりもずっと、不自由がほしかった。さっさと耄碌して、馬鹿になってしまいたい。これが正確か。刑務所には入りたくない。それにしても、なんて希望のない人間なのだろう。いや、うーん、そうだな……。 「不自由がほしかった」は言い換えると、「修行が足りなかった」ってことなのだ。不自由を得る自由の行使が修行。そう解釈すれば希望の光がちらつく。わたしにとっての「修行」は、正しいおこないのことではない。自分の愚かしさを知悉することだ。   自分はいかなる馬鹿であるか、 自分はいかなる馬鹿になるか、 いかなる馬鹿として自分を見るかが、 多様な人生観のわかれめとな

日記751

ひとりでいるときは広くありたい。誰かといるときは狭く。人と人が出会える領域はとても狭い。広いところではすれちがってしまう。人間関係においては狭さをだいじにする。固有の姿を見失わないように。ひとりであれば、スケールのおおきな領域にいてもいい。宇宙やべーみたいな。そのバランスで呼吸がととのう。 つまり、「わからない」と「わかる」のバランス。わからない領域は気が遠くなるほど広大で、わかる領域は切ないほどごくわずかだ。「わからない」の沃野を歩く人はだれでも孤独になる。孤独なばかりでは頭がおかしくなってしまうから、「わかる」へ戻ることも忘れてはいけない。 しかしごくまれに、だだっ広い空間で人影を見つけることもある。遠くのほうに、ぽつんとたたずむ。人なのか、ほんとうのところかたちもよくわからない。だけどもしかしたら、あっちのほうに人がいるのかもしれない。あの人には、なにかがわかるのかもしれない。わたしにとって文章を読むことは、そんな淡い期待にちかい。 記号はつねに、そうであるかもしれない度合いをもたらす。すべての文字列は「そうであるかもしれない」ものだと思う。というか、わたしたちの存在自体が「そうであるかもしれない」ものだ。端的にいえば、蓋然的なもの。きっと。すくなくともわたしは、そうであるかもしれない度合いを読んで、そうであるかもしれない度合いを書いている。 またなんかよくわかんない話をしてる。 はじめはもっとゆるふわな日記だったと思う。もはや日記ではない。それに、なぜかどんどん思索的になっている。といっても思いつきの域を出ないし、あまり真面目でもない。自分では、自分のふざけた態度を信用している。半身でふざけているから「真面目さ」を疑える。ぜんぶ大真面目な人はこわい。話が通じそうもない。「ふざけた態度」は言い換えると、話が通じそうな余白。劇の世界に埋没しきらない道化役が観客と舞台をつなぐ。内側の秩序を乱す道化は、外側へのパイプ役を果たしている。みたいな、シェイクスピア劇の構造を思い出す。 ことしは体をよく動かした。そこそこ体型がカッチリして、関節の可動域も広がった。三十路を過ぎれば、一般的にはたるんでくるのだろう。わたしの場合、三十路を過ぎて気合の重要さがわかってきた。つまり、アニマル浜口の重要さがわかってきた。結局、気合だ。気合なんだ。気合に生き、気合に死ぬ。理屈は二の次。

日記750

前回のつづき。 『声の文化と文字の文化』と自閉スペクトラム症(ASD)を絡めた仮説は、しょうじき微妙なところもあるかとは思う。しかし一方で、なにかをかすめている感触も確実にある。たぶんあると思う。あるんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておけ。いや、ある。射抜いてはいないけれど、なにがしかをかすめてはいるんじゃないか。 すくなくとも、これくらいはいえそう。いわゆる「ASD」とされる人の感覚入力は、遠い過去の人類と近縁的なのではあるまいか。社会規模がいまよりずっとちいさく、森閑としたなかで、どこまでも地続きな時間とともに人々が生きていた時代の身体感覚にちかいのでは。みたいな線から妄想をぶち上げてみたい。 以下は直観一発の試論(エッセイ)です。 正しいとは思いません。 ただ、ひとつの観点として考えるヒントになれば御の字。 現代社会はとにかく抽象的すぎる。それも、目の粗い抽象。人が多いのだから、仕方のない部分もあるにせよ。規模の大きな社会は、具体的な生活世界を置き去りにしがち。事実として、とても状況依存的で具体的なミクロの感覚入力で生きる人々は、置き去りにされてしまった。断片化された時間に、思考様式が馴染まない。いうなればカテゴリー依存的な思考様式と、状況依存的な思考様式の相克が起こっているのだと思う。 といっても、みなさんたぶんどちらの思考様式も兼ね備えていて、具体と抽象のグラデーション内で生活している。振れ幅がある。これが状況依存性に固着しすぎると、いわゆる「ASD」となる。カテゴリー依存性に固着しすぎる人は「差別主義者」と呼ばれるのかもしれない。現代社会の趨勢はカテゴリー依存的なので、その範囲からこぼれ落ちる人間には医学的な名称が与えられている(どこまでもカテゴライズされゆくさだめ)。 読み書き能力がまんべんなく人口に膾炙した社会は、おそらく公的義務教育が制度化されてからつくられたもので、人類史的にはあたらしい。これも勘に過ぎないし、確かめようのない話だけど、じつは読み書き能力のインストール義務化によってしらずしらず認知的な混乱状態に陥った人々が少数ながらいるのではないかしら。 伊藤亜沙さんの『記憶する体』(春秋社)にあった例を引用しよう。これがわかりやすかった。学習には抽象化がともなう、というお話。  かるたで遊んでいて、「この札」と〈あ〉という音が結びつくだけで

日記749

『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(新曜社)を読んだ。國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんによる連続講義の書き起こし。うすうす感づいていたけれど、わたしには自閉的な傾向がすこしあるのだよなーと、それを根本から問うこの本にふれてようやく理解できた気がする。と同時に、根っこをぶっ刺してくるような深度のことばでないとなにひとつ腑に落ちない自分の頑固さにも改めて気がつく……。わからず屋。 何年か前に、IQ検査をしてもらったことがある。IQにはざっくりふたつ、言語性IQと動作性IQってのがあって、わたしは言語性がミョーに高い。ほんで相対的に動作性が低い。このふたつの差が大きくひらくと自閉スペクトラム症(ASD)がうたがわれる。 検査結果について医師から聞いたお話をむちゃんこ乱暴にまとめると、わたしの場合は「どっちでもいい」らしい。IQだけを見るなら、かなり微妙な値。どちらとも言い切れない。ポジティブに言い換えるなら、ハイブリッド型人材なのだ。二刀流。野球でいえば大谷翔平、プロレスでいえば船木誠勝。ハイブリッド・ボディ。そういうことにしている。 とはいえ、半端に高いIQがいつでもいつでも邪魔になっている感は否めない。アウトプットが目に見えて遅いし、疲れやすい。それに関して、『〈責任〉の生成』のなかで「まとめ上げ」と「絞り込み」という観点から説明がなされていた。 これは、熊谷さんと綾屋紗月さんの共著『発達障害当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』(医学書院、2008)における分析をまとめる文脈で出てきた用語。綾屋さんはASDの当事者として、ご自身を研究されている方。 (熊谷) 私たちの意識のなかには、つねに大量に、かつさまざまな種類の感覚入力があるわけですが、私たちの多くはほとんど無意識のうちに、それらを一つのカテゴリーとしてまとめ上げたり、またそれらのなかから、今、私が注目するべきなのはこれであり、これではないのだ、と絞り込んでいます。このまとめ上げと絞り込みの困難が、綾屋さんのインペアメントとしてもっとも根本的、基底的なものとしてあるのではないか、というのがこの本において私たちが仮説として提示したものなのです。  『〈責任〉の生成』p.59 ひとことでいえば、知覚の抽象化・一般化・汎用化に時間がかかるのだと思う。ここでわたしが想起したのは、だいぶ前に図書館で借りて読ん