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7月, 2023の投稿を表示しています

日記999

  7月16日(日) 介護施設の祖母と面会。同じ話を何度も聞く。自分とそう変わらないなと思う。ふしぎと気楽にやりとりができる。いつもある感覚。ふだんの会話の規則から逸脱できるためか。ある一定の規則に準じたやりとりが気詰まりでしょうがない。祖母との会話は、そこから、ちょっとはみ出せる。意味が薄く、グルーヴが前面に出る。以前も書いたけれど、音楽に近い。ことばを強いられる感覚がぜんぜんない。万事がノリだけでOK、みたいな世界観。介護のしごとをしていたとき、同僚と話すよりも認知症のお年寄りとわけのわからない話をするほうが気楽だった。万事ノリでOKだから。ふつうは逆なのかもしれない。同様に、幼いこどもとも話しやすい。 わたしはきっと、いわゆるところの「知能」が低い。いわゆるところの。胸を張って、プライドを持ってそう思う。諸君、わたしは「知能」が低い! もう「知能」が低い会話しかしたくない……。いちおうフォローすると、半ば皮肉。お年寄りも幼い子も「知能」が低いとは思わない。むしろ接していると学ぶところが多い。どんな人も知的だと思う。胎児から、死ぬ間際の人まで。「いわゆるところの」ではない別種の「知能」がある。秩序立った意味世界からは、ズレた「知能」。わたしは意味が苦手だ。 他方で、意味に人一倍こだわっている面もある。苦手だから。というか、意味に強いられているような感覚がずっとある。強迫的。だからこそ、「意味の薄さ」に焦がれてしまう。でもやはり意味を探している。どっちもある。ただ、いわゆる「知能」が低いのは確かだ! こう暑いと、むやみに断言したくなる。断言は一瞬の清涼感をもたらす。うちわを扇ぐような感じ。今日の最高気温は38℃。晴れ。上半身裸で、砂場に穴を掘る少年を見かけた。がらんとした公園のなか、ぽつんと。まわりに保護者も友人もおらず、彼はひとりだった。小学生時代の自分みたい。ひとり穴を掘ったり、側溝に砂を流したりして遊んでいた。それでなんの不満もなかった。いまだって、似たようなものだ。 駅前を歩いていると、知らないおじいさんが百円玉を落として気づかずに行ってしまった。走って届けてあげる。駅前なので人通りが多く、わたしとおじいさんのあいだに数人いたけれど、皆さんスルーだった。おじいさんは満面の笑みで百円を受け取ってくれた。「わかんなかったよ! だっはっはっは!」と。すこし耳が

日記998

変わらない(と信じられる)基盤があるからこそ、変わることができる。小坂井敏晶『矛盾と創造 自らの問いを解くための方法論』(祥伝社)に、こんな話があった。ユダヤ人に関して「ユダヤ性を手放し、居住地の文化に同化する条件がイスラエル誕生のおかげでやっと整った」と。以下、上掲書よりチュニジア生まれのユダヤ人作家アルベール・メンミの言を又引。    抑圧の真っ直中で同化はまず不可能だった。非ユダヤ人が同化を拒絶したからだけでない。同化の耐え難い不安のためにユダヤ人自身も拒否していたからだ。(……)今後はユダヤ人が固有の土地・国家・文化を持つおかげで、同化に向かうユダヤ人を大目に見ることができる。自由な人間となることで同時にユダヤ人はユダヤ性を放棄する自由を獲得する。だから今日では同化について話せるようになったのだ。(……)同化への憤慨・非難の気持ちがユダヤ人の意識においてすでに十分に和らいだからだ。 (……)同化を望むすべてのユダヤ人にとって同化が正当だと認めなければならない。自らの運命を選ぶ自由をユダヤ人にも返さなければならない。ユダヤ人共同体への所属を再確認するか、他の共同体を選択するかを単なる気分や利益から決められるべきだ。他のどの人間にも許される権利がユダヤ人にだけ認められないということがあろうか。イタリア人がフランスに同化したり、ドイツ人がアメリカに同化したりするのと同じでないか。だが、ここでも忘れてはならない。痛みを伴わずにユダヤ性の消失がついに可能になったのはユダヤ人国家が存在するおかげなのだ。(p.81)   「抑圧の真っ直中で同化はまず不可能だった」。この引用を読んだとき、「アフォーダンスの配置によって支えられる自己」という論文を思い出した。著者は自閉症スペクトラムの当事者である綾屋紗月さん。国家単位から個人単位へ話のスケールは変わるが、大雑把な機構は似ていると思う。つまり「自己感」が不安定だと、動こうにも動けない。「する」がかなわず、「させられる」になってしまう。  ソーシャルブレイン研究によれば、行為から知覚を予測する過程によって立ち上がる「私」のことを「自己感」と呼ぶ。この言葉を用いるならば、私の場合、ちょっとした環境の変化であっても知覚するため、同じように運動指令を出しているつもりでも、毎回予測と異なる結果が戻ってくるので混乱し、自己感の不安定化を招

日記997

  「やろうとすればするほどできない」という現象は、身に覚えがある人も多いと思う。たとえば、誰かに大切なことを伝えようとするとき。それがなかなか言えない。好きな人への告白なんか、よくネタにもなる。そういえば、R-1グランプリで見たっけ。       「結婚してください」がなかなか言えず、ギャグを連発する人。Yes! アキトさんのネタ。なんとなく、こういうことかなと思う(どういうこと?)。自分の性質がこのようなものだと。「企図の感覚がない」と前回の記事に書いたのは気取っているわけではなく、何かをやろうとすればするほどそのプレッシャーから身をかわそうとする力も強く働きおかしなことになるからです。「け、け、け、ケバブの肉は渡さんぞ~!」みたいな。「結婚してください」と言いたいだけなのに。 「企図振戦」と呼ばれる震えの症状がある。自分はそれっぽい症状が出やすい。といっても病的ではない。手指の軽いどもり、みたいなもの。吃音もある。言おうとすればするほど言えない。その都度、迂回ルートを探す。ことばの迂回路探しは、吃音者あるあるだと思う。 全身がどもりやすいらしい。誰でも緊張すれば体が不如意になるけれど、わたしの場合はその閾値が低い気がする。三十路過ぎてようやく気がついた。以前から、「やる気があってはいけないタイプ」と自分のことを規定していたものの、体のありようとは結びついていなかった。「やる気のなさ」は単なる思惟でも主義でもなく、もっと具体的なところからきている。体がやる気を受け付けていないのだ。「結婚してください」と言いたくても、「け、け、け、ケンタッキーフライドチキンをヒヨコに見せつけよ~!」みたいなことになるから。 とくに緊張する場面でなくとも、企図するとできない。いちいち体を騙す必要がある。それは朝、目覚めて起き上がる時点から始まる。「起き上がらないといけない」と思ったらもう、起き上がれない。体に知られないように、それをしようと悟られないようにそれをする、といった仕方ではじめて起き上がれる。知らんぷり。つまり「何も考えない」というか、「自然に」というか。 問題は意識なのか。意識が痙攣を起こしやすいのか。そうかもしれない。「体を騙す」ではなく、「意識を騙す」としたほうが、いや、どっちでもいいか。かんたんに腑分けできるものではない。要するに、意識と体とのフェイント合戦みたい