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8月, 2019の投稿を表示しています

日記701

ことばは模造です。実体とはちがう。複製のにせものとしてあり、疑いをさしはさむことによってドライブする。なんとでも言えてしまう。文章はいつも疑いの明滅とともにある。疑えぬ内実に付け加えるものはない。 「信じる」ではなく「疑えない」と感じてしまう、その瞬間が重要かもしれない。なんとでも言えるはずなのに。あきらめてひれ伏すような。どうにも沈黙するほかなくなるような。はっとする。あるいは、うっかり喉に滑り込むような。 それはきっと日常のさまざまな場面に潜在している。書物の中で触れた一節に、身近な人の何気ないひとことに、街でふいに入り込んでくる音楽に、壁の落書きに、ネットの書き込みに、美術館の隅に置かれた作品に、眠りを待つあいだのひらめきに。 ひとときことばが止む。声を失う。ひとときだけ。時間が経てばまた湧き上がる。永遠にひれ伏した状態ではいられない。そんなにうっかりしちゃいられない。疑念の停止は持続しない。揺らいでいる。確固たる信にはたどりつけず、きょうにはきょうのおしゃべりが始まる。まるできのうの沈黙をあがなうように。 疑いを入れずに措く時間は、ちょっとした、罪深い愉しみなのかもしれない。そこに文字を通過する愉しみがある。ことばに耽溺する愉しみ。「ここにほんとうがある」と、つかの間ふと思う。ひとりきりの罪深い沈黙に浴す。紙の切れ端に一切を感じる。いっときの信を足がかりにして、ふたたび尽きることのない疑問へ踏み入る。信念と疑念の狭間で息を継ぐ。そんないとなみの階梯が人の生活を賦活する。 図書館のちかくで、若い男女が向かい合っていた。小雨のなか。ただならぬ雰囲気。階段の半ばにふたりとも突っ立っている。傘はさしていない。赤い髪色の女性と、マッシュヘアの長身男性。赤が泣きじゃくる。何か言いたげに下を向くマッシュ。通りがかるわたしに気づいてか、押し黙ったままのふたり。 急に雨足が強くなる。マッシュが無言で傘をひらいて、赤の上にそっとかざす。ほほえむマッシュ。赤はしかめっつら。その横をごきげんなスキップでぴょんぴょん通過するわたし。ふたりの人生の1ページに刻みつけてやるつもりで無駄なステップを踏みまくりながら階段をのぼった。これから喧嘩するたび、階段でノリノリだったおじさんを思い出してほしい。喧嘩だか別れ話だか知らんけど。わたしのことなんかハ

日記700

8月14日(水) 朝、鏡を見ると左目の下に涙ぼくろができていました。以前にも書きましたが、ほくろが増えます。なにかの呪いでしょうか。虫を殺した数だけ増えるとか、他人に不義理をはたらいたぶんだけ増えるとか……。 さいきん不義理したおぼえはないけれど、コバエはじゃんじゃん殺しているので原因が虫殺しである可能性は残ります。いや気づかぬうちの不義理も多そうです。そういえばこの暑いのに暑中を見舞っていませんでした。だれひとりとして。2名からハガキが届いていた。暑中の舞いを部屋の中でひそやかに踊っておきますから、それでご勘弁ください。 できうるかぎり義理堅くありたいと念じながらがんばって踊ります。汗だくで。ほくろを増やさないためにも。義理は重視しておこう。しかし「義理」というと悪く思われがちです。「心のこもらない行為」みたいな意味が前に出過ぎている。「心」はうしろからついてくればめっけもんです。あくまでめっけもん。おまけ。心よ、出しゃばるな。 わたしの「義理」イメージは、容器です。カラの容れ物を関係のあいだにぴょいと据えつける。それが義理立てだと思っています。余裕があればそこに「心」を加えるもよし。からっぽでもよし。「心」よりも義理という形式をまず立てる。 お互いを受け入れるための共通の器が最初になければ、いきなり心をこめられてもどうすればよいものやら戸惑ってしまいます。渡された「心」の保存方法がわからない。べたべたしてやだなにこれキモいと思う。事前に義理を立てておけば、とりあえずそこに突っ込んどけばいい。義理立てとは、心の容れ物づくりです。 というかそもそも「心」とはなんでしょうか……。ひとつの側面として「出過ぎた意識のつんのめり」みたいなものかと、自分の感覚では思います。とにかく出過ぎな野郎です。意識よりも先にとりあえず目に見える部分をととのえたい。かたちだけでいい。たとえば、とりあえず身体を鍛える。筋トレの習慣も何らかの義理です。 話をほくろに戻します。 左目の涙ぼくろ以外にも知らぬ間にたくさん増えすぎて、しばらく会っていない人はもはやわたしを前と同じ人間だと認識できないかもしれません。双子の弟だとうそを言っても通用しそうなほどです。兄のことを問われたら「あいつは死んだよ……」と目を伏せてつぶやきます。 双子のタレン

日記699

認知能力は時間の感じ方から狂いが生じてくるのかなと思う。少しずつ。夏もどんどんみじかくなる。としをとればみんな狂う。もし全員そうなら「狂い」ではなくて、ふつうのことか。そうね、「ふつうのこと」として考えたい。しかし誰もが同じわけはない。 「時間」という共通の容れ物が日を追うごとに、自分ひとりの容れ物へと変化してしまう。そうやって物覚えが悪くなる。記憶には、外からあらたな時間をとりこむような側面もある。それがままならなくなる。他人の話を聞くこともそう。あたらしい時間を感受できない。 若い時分はいくつもの時間の輻輳をみずからの内にとりこむことができる。多くの時を汲み取り、また編み出せる。齢を重ねると時は一本に収斂する。外れ道を、長い長い単線列車がゆっくり行き来するような。べつの時へとつながる乗り入れの経路が徐々に閉じてしまう。それはきっと、老い先の孤独であると同時に人生を賭けてちいさな自由を手に入れた状態でもある。残りの時間は、閉じた記憶に揺られるだけでいい。 人間の関係は連続的にできていないと、なんとなく感じる。これは老若問わず。その都度、その都度、一回かぎりで構築される個別的なものだと思う。顔を合わせるたびあたらしく立ち上がる。「つづき」なんてあると思ってはいけない。つぎに会う時間は、同じ人でもちがう人間。そのくらいの距離感と緊張感を保っていたい。 ほんとうは何でも一回かぎりで、断片の連続なのだけれど、つねに前回があってさらにつづきまであるかのようなふりをしている。別れ際にはいつだって、まだまだつづきがあるかのようにふるまう。 あいさつとは、ちいさなうそだと思う。うそのお芝居から始まって、お芝居でまたつなぐ。このお約束のおかげで正気が保てる。ちいさなつくりごと。芝居の合図。それで接着する。断片の隙間を埋めるつなぎがフィクションの役割だろう。 分かたれた時を折り合いのいいことばで縫い合わせる。あたかもわたしたちのあいだには関係がある、かのようにふるまうため。「かのように」の維持には、相互のがんばりが必要となる。とくにわたしは芝居が下手くそで苦手だから、そうとうがんばらないといけない。 役を演じるより、幕間の評言にうつつを抜かしてしまう。外野で野次を飛ばす第三者なら気楽でいいと思う。暑い夏の日も、夢のうちに通り過ぎてしまいた