交差点。桜まつりの看板を尻目に、横断歩道を渡るこどもたち。5、6人みんな手をあげていた。たのしそう。「みんなで手をあげて横断歩道を渡る」という、ちょっとしたイベント。横断歩道にさしかかるたび、はしゃぎながら手をあげて駆け出す。バンザイする男の子もいた。すこし離れた後ろからぼんやり眺める。話し声が断片的にきこえる。「来週の月曜日から学校だよ」「月曜日ってなん曜日?」「月曜日だよ」。 3月さいごの週末は各地で桜まつりが開催されていた。うちの近所では、まだほとんど咲いていない。引き続き来週も開催するらしい。 2月のある日、とても寒い思いをした。手足の感覚がなくなるほど。その日の記憶を引きずってしまい、暖かくなっても用心深く厚着している。眠るときも。おかげで寝苦しくなる。臨機応変な加減はむずかしい。記憶がそれを阻害する。過去と現在はちがう。ことばのうえでは、わかっているつもり。でもいかんともしがたく、割り切れない過去が現在に食い込んでくる。たいていは無意識に。たくさん、たくさん。 小鳥が雪のくぼみで遊ぶ。そのちいさな足あと。もう溶けてなくなった。冬の記憶。凍った路面の歩き方も思い出せない。桜は「まだほとんど咲いていない」とはいえ、あっという間に満開になるのだろう。いまに暖かさにも慣れる。「寒い思い」も暑気にくるまれ、ふかふかな野良猫の毛も生え変わっていく。 ちゃんと忘れる。そしてまた知らない感情に触れる。でもその未知は、単に忘れたから未知なのかもしれない。じつは繰り返し。それでもいいか。「何度だって忘れよう/そしてまた新しく出逢えれば素晴らしい」って歌があったっけ。すべてが初めてのようであり、再会のようでもある。書かれた記憶を手中で見つめていたはずが、次の瞬間には記憶に眼差されている。わたしたちは循環する。 春に漂う花の香りは、訪ねた家の空気のようによそよそしい。きょうは4月1日。ちいさな男の子がちいさな公園の一角で「Bling-Bang-Bang-Born」を歌っていた。Creepy Nutsの「Bling-Bang-Bang-Born」を歌うこどもに、この1週間で2回遭遇。 雨がちな天気のなか歩く。明るい曇り空。資源ゴミとして紐で括られた受験参考書の山が濡れている。山をよく見ると、受験参考書のほかに保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』の単行本、城一夫『常識とし
為末大の『熟達論』(新潮社)を読んでいた。 以下の箇所が私的に示唆深かった。 “例えばごっこ遊びというものがある。子供たちが、砂場でおままごとをしていて「今日の晩御飯はカレーライスよ」と言いながら、おもちゃのお皿に土を乗せる。「わぁ今日は僕の大好きなカレーライスだ」と言いながらそれを食べるふりをする。 この他愛もないやりとりの中には二つの相反する姿勢が組み込まれている。例えばこんなのただの土じゃないかと馬鹿にすれば、ごっこ遊びは成立しない。一方で、カレーライスと言われたからといって本当にそのまま食べてしまえば、相手もびっくりするだろう。本気でそれを信じてもごっこ遊びは成立しない。 それが虚構であると知っていながら、本当のように振る舞うからこそごっこ遊びは成立する。遊びは微妙なバランスに立つ。スポーツは本気でやるからこそ面白いが、一方で試合の勝ち負けを引きずって、負けた相手をずっと恨むようなことがあれば、弊害が大きい。文化祭にクラスで演劇を上演する時に、こんなのお芝居だからとくすくす笑っていたら劇が成立しない。遊びが成立するのは、本当でありながら虚構でもあるという状態を、その場を形成する皆が暗黙に了承しているからだ。” (pp.61-62) 自分の感覚では、ここで例示されたごっこ遊びの「相反する姿勢」は「遊び」にとどまらない。もっと広く、社会性の話だと思う。たとえば何かしら書類と向き合うとき、「こんな紙っぺらになんの意味があるんだ」と疑いだすと、むなしくてやる気が起きない。かといって、「この書類を落としたら人生が終わる!」と気負い過ぎてもプレッシャーで作業に入りづらい。なんとなく信じながらも、まあまあ適当にやっつけはじめる。いい塩梅に信じる心をもって。 貨幣がいちばんわかりやすいか。「こんなものただの紙や金属だ」という姿勢では生きていけない。かといって、執心しすぎて使う余裕を失っても孤独になる。たいてい、付かず離れずの距離を保って生活している。 こうした、いわば「おままごとのジレンマ」は、あらゆる場面で生じうる。わたしは、さまざまな切り口からずーっと、この「信じ過ぎても疑い過ぎてもやってけまへんわな」という図式にこだわりつづけている気がする。ひいては「ふつう」ってなんだろうね、みたいな問いにもつながる(たぶん)。「リアリティ」ってなんだろうね、みたい