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1045 ふたつの思考様式について

哲学者・東浩紀の著書『平和と愚かさ』にある、自然科学と人文学のちがいに関する話から連想したことを雑駁に書きたい。両者は異なる役割を分担しているのだという。東氏はそれをリゾート運営におけるクレーム対応の比喩で簡明に書いている。  “ぼくたちはリゾートを運営している。そこで客がサービスに不満を訴えたとしよう。たとえば、プールの水が冷たいとかスタッフがいくら呼んでも来ないとか、クレームをつけてきたとする。  そのとき自然科学者や社会科学者が行うのは、客のクレームが正しいかどうか、水温を計測したり監視カメラを確認したりして客観的に検証する作業である。たしかにそれは絶対に必要な作業ではある。それで問題が解決することもある。けれども残念ながら、たいていの場合はそうはいかない。たとえ運営にいっさい非がなかったとしても、いきなり水温やカメラの画像を示したら、客の態度はますます硬化するだけである。  そこで人文学者の出番となる。人文学は客観的証拠(エビデンス)を突きつけたりしない。少なくともそれに頼らない。かわりに、冷たいとはどういうことか、スタッフが来ないとはどういうことか、まずは客の期待=幻想に耳を傾けたうえで、その幻想のほうを「訂正」しようと試みる。訂正がうまくいけば、クレームも消滅する。” 『平和と愚かさ』(ゲンロン、2025、pp.471-472) 自然科学や社会科学はおもに世界の客観的な現実を扱い、人文学はおもに人間の抱く幻想を扱うのだと。引用したのは入り組んだ文脈の一部なので、ここだけ切り抜くと捉え損なうものがあることには留意しつつ、支脈を広げるようになんとなく思い出したものを連ねようと思う。 わたしが『平和と愚かさ』を読んでいたのは今年の三月。そのとき並行して読んでいた本があった。 精神科医・江口重幸の論文集『病いは物語である 文化精神医学という問い』と『病いのリアリティ 臨床民族誌の系譜』の二冊。正確には読んだり読まなかったりして、長いあいだ傍らに積んでいた二冊。 江口氏の論集では、上記の「自然科学と人文学のちがい」みたいな話がさまざまに変奏され、何度も繰り返されている。それは精神医学という分野がこのふたつの思考様式の境界域に位置するからだろう。基本的なところでは、医療人類学者のアーサー・クラインマンによる「疾患」と「病い」の二分類が挙げられる。かんたんにエッセンス...
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日記1044

1月に支払った8,888円。ゾロ目を狙ったわけではなく、たまたま。店員さんに「大当たりですね」と言われた。1月のはじめだったこともあり、ことしはなんか運がいいかもと思った。しかし、とくにこれといったこともなくすでに9月。ジャパネットたかたがおせちの宣伝を始める時期だ。調べたら8月から予約販売を開始しているらしい。気が早いなぁといつも思うけれど、ぼーっと過ごしていたらいまにそこらじゅうでクリスマスソングが鳴り出すのだろう。徐々に年末が視野に入る。9月ってもうそういう時期か。初旬にハロウィンの準備も見かけた。 この、8,888円の出来事を書こうと思っていたら半年以上過ぎてしまった。やろうやろうと思いながら果たせていないことが、日に日に増えていく。自分が生きているうちにやれることは、とてもすくないと思う。あまり元気がない。疲れている。とくにできることもないんだけど。 「大当たりですね」と言われてなんとなくうれしかったが、想定よりお金を使ってしまったので微妙な気分でもあった(お米の値段が高い時期だった)。大当たりだからって景品がでるわけでもない。粛々と支払うのみである。 とはいえ、「ぴったりの魔力」みたいなものはある。すべての選択が間違っていなかった。そんな気にもなる。ふだん買わないニンニクの芽も、買ってよかったなーと。購入品がすこしでもずれていたら、「8888」にはならなかったのだから。「ぴったり」によって過去の行いがまるっと正当化される。そんな一瞬がたまにある。きれいな着地の重要性がわかる。 過去、ロールス・ロイスから出てくるたけしを偶然に見かけたときにもまったく同じことを思った( 日記1020 )。なんかピタッと交差する出来事に遭遇すると、いままでの時間がぜんぶそこめがけて整序されるような。過去の行動がすこしでもずれていたら、その瞬間は訪れなかったと。でもほんとうは、すべての時間がそんな途方もない偶然のうえにあるのだと思う。 あたまが悪そうな発言なので誰にも言わないけれど、地球が丸くて宙に浮いてるってヤバすぎる事実ではないか。あと母親の身体からにょきにょき分化してにゅるにゅる人間が再生産される仕組みもヤバすぎる。これは前にも書いた。この世界の成り立ちは根本的に奇妙だ。いくら説明されてもぜんぜん理解できない。空から水滴が落ちてくることさえ、幼いころからずっと不思議に思う...

日記1043 蝉観の違い

ハン・ジョンウォン『詩と散策』に、こんな書き出しのエッセイがある。  “今年になって初めて蟬の声を聞く。まだ力を出しきっていないようだが、鳴き声はしだいに熱を帯び、耳をつんざく。蟬は自分が短命であることを知っているがゆえに焦っているのだろうか。それとも知らないから一生懸命なのだろうか。  成虫になるまで土の中にいた時間に比べたら、ひと月に満たない寿命はあまりに虚しい。だから人間の耳には不快でやかましくても、下手に文句は言えない。いちばんつらいのは、ほかでもない蟬なのだから。  八月がいちばん熱い月である理由は、このような絶頂も衰退も持ち合わせているからだろう。”(p.51) ここを読んで疑問が浮かんだ。蝉は自分のことを、どこまで知っているのだろうか。 蝉の個体がどこまで自分の命運を知っているのか、それは知りようがない。知りようがないだけに、どんな解釈でも勝手な投影にならざるを得ない。ハン・ジョンウォン氏も、なんだかんだ蝉の生に自身の尺度を重ねているように思う。 わからないけれど、蝉は土のなかで過ごしているとき、自分がいずれ地上に這い出して空を飛ぶようになるだなんて、夢にも思っていないのではないか。あいつらは何もわかっていない気がする。 蝉はたぶん、数年のあいだ土中で過ごしたのち、急にわけのわからない情熱に駆られ地上へ這い出すことになる。なんだか知らんがここから出ないといけない。もうほんとうにわけがわからない。でも行かなくちゃ。そうして地上へ這い出したと思ったら、そこからさらに上を目指す。ここがゴールちゃうんかえ!? 自分でもぜんぜん意味不明だけど、満足できない。もっと登んなくちゃいけないらしい。どこでもいい。そのへんの登れそうなもんにつかまって登るしかねえ。とにかくやるんだ。地上の環境は謎すぎるし、デカくてヤバそうな生き物がたくさんいるが、もうしょうがない。すげー嫌だけど、いまさら戻ることもできん。どうしてこんなことに。マジで最悪だ。などと内心で愚痴りながらも登りつづけ、その途上でさらなる謎の出来事に見舞われる。あれ、なんか背中割れそうなんですけど? どうしよう。我慢できない。これなに? なんなの? やだ、漏れちゃう! グエー死んだンゴ。と思いきや、どっこい生きてる! ハネ生えてるし! やば。飛べそう。っていうか飛べる。でも飛ぶの怖い! どこ行くかわかんねーし。どこ...

日記1042

1月のこと。twitter でつながりのある写真アカウントの方とお会いした。人と会うのは、たとえ慣れ親しんだ相手でも緊張する。かならず直前にめんどくさい気持ちが湧き上がってくる。これは100%、わたしの気質的な問題で相手にはなんの問題もない。お風呂に入るのがめんどくさい気持ちと似ている。とかく、なにかとめんどくさがりで引きこもりがちな人間である。「風呂キャンセル界隈」ならぬ、「人間キャンセル界隈」の人間といっても過言ではない。 でもいちおう風呂には入るし、人とも会う。人間と会って人間をやらないといけない。なぜなら、わたしは人間だから。しかし、めんどくさい気持ちはどうしても晴れない。人間めんどくさい。いつも動物に焦がれている。あるいは空とか海とか植物とか。果ては宇宙とか。自然界に心理的な活路を求めがちかもしれない。年を重ねるごとにそれが加速している。 人にまみれるため、自分の気持ちをがんばって焚きつける。「大丈夫」と言い聞かせる努力が必要となる。だから週に1〜2回、1時間ほどの筋トレを欠かさない。軽いジョギングは毎日やる。人間をやるための気合いが人一倍、必要なのだ。たぶん日々の読書や勉強のたぐいも単純に気の弱さを補填する意味が大きい。筋トレと変わらない「武装」なのだろう。 あと瑣末なことだが、昨年12月31日に買いものを済ませたあと suica の残金が 888円だった。なんか来年は運がよさそう、と思った。年明け1月のある日にはスーパーの買い物で偶然 8888円の支払いを叩き出し、店員さんと謎に盛り上がった(このどうでもいい話は別途記事にする)。2026年は何かがありそう。そんなことを思い出しながら、待ち合わせ場所まで向かった。景気づけに「Eye of the Tiger」でも聴きながら。生卵を5個ほどジョッキに割ってそのまま丸飲みしておけば完璧だったかもしれない。 語弊があるけれど、人と会うことは自分の意志ではない。自分の意志では誰にも会いたくない。もののみごとに語弊しかない言い草である。「自分の意志」なるものがあるとすれば、それは否定性(No)のうちにしかないと思う。誰かと会えるのは、「自分の意志」なんかを超えた、もっと大きな「流れ」みたいなもののおかげだ。わたしは極力そっちを信じるようにしている。自分ひとりでは知るすべもない、大きな時間のつらなりのほうを。Yes...

1041 東浩紀『平和と愚かさ』などのこと

考えなくとも自然にできること/やってしまうことって、ふしぎに思う。たとえば睡眠や排泄、歩行、姿勢の維持、呼吸、目で見ること、耳で聞くこと、さまざまな感情の表出、ふと他人の視線を追ったり、とっさに表情をつくったり、などなど……。どうやってる? と問われても答えられない。日々たくさんのことを、なんとなく自動的にやっている。 むろん、そうしたことができなくなるときもある。そもそも視覚や聴覚がない人もいる。べつの状況に触れて初めて考えることが必要になる。備わっていたもののふしぎさに、はたと気がつく。 わたしは不器用な人間で、「自然にできる」とされていることができないこともままある。だからたぶん、人よりふしぎを感じることが多い。考えてしまう。なにかと不安は大きい。でも案外、得な気質なんじゃないかとポジティブに捉えている。いつまでもこどもみたいに、なんでもふしぎだ。 さいきん、『平和と愚かさ』という本を読んだ。著者は哲学者・批評家の東浩紀氏。世界各地を旅しながら考えたこと、感じたことが綴られている。旅をすることは、「べつの状況に触れる」ひとつの方法だろう。本の分厚さにビビるが、開いてみると平易な筆致で読みやすい。紀行文が大半で写真も多い。それでいて複雑な含みも湛えている。 平和と愚かさはともに「考えないこと」の表現である点で共通している、という話から始まる。氏は「考えないこと」について揶揄するでもなく、必要以上に持ち上げるでもなく、人間の一側面として包括的に考えていく。 “多くのひとが平和だと感じる状況においては、ひとは戦争を戦っていないだけではない。そもそも戦争について考えていない。少なくとも考えないことが許されている。それが重要なのではないか。” 『平和と愚かさ』(p.22) 平和という概念もまた考えずとも「自然にできること/やってしまうこと」に近いのかなと思った。それだけに、ことばにしづらい。平和は、考えはじめた瞬間にぎこちなくなるようなたぐいの性質をもつのかもしれない。 『平和と愚かさ』の内容は多岐にわたるが、冒頭の着想からだけでも多くの連想が浮かぶ。人間の営みについての思考がみっちり詰まっている気がする。以下、ここから考えうる私的な連想をメモしておきたい。 まず思い出したのは、山形浩生がジョージ・エインズリー『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』を引き合いに...

日記1040 よいお年を

ある土曜日の夕方、散歩中、信号待ちの時間。どこからか森高千里の「渡良瀬橋」が響いていた。音の発生源は、派手な改造が施されたバイクだった。異様に長く反り立つ座席の背もたれ部分には「國士が集い惡を討つ」と筆文字で書いてあった。遠めにいたので乗っている人物の顔はわからなかったが、日章旗柄のヘルメットは確認できた。さらに紫色の特攻服みたいな衣装に身を包んでいた。「古き良き暴走族そのもの」といった完璧な風情。しかし、なぜ爆音の「渡良瀬橋」なのか。そこだけが腑に落ちなかった。「暴走」とはほど遠い。しみじみ黄昏れてしまうではないか。しかも場所は、ちょうど橋の上。夕日がきれいな時間だった。曲は終わりがけ。 “あなたが好きだと言った この街並みが 今日も暮れてゆきます 広い空と遠くの山々 二人で歩いた街 夕日がきれいな街” わたしのそばで信号を待っていたおばさまたちは、音に合わせ静かに揺れていた。信号の色が変わると、爆音の森高も静かに走り去っていった。見た目とは裏腹にエンジン音はかなり静かだった。森高だけが爆音で、この点も不可解に感じた。あれはなんだったのだろう。 とにかく森高を聴きたいし、聴かせたい人なのかもしれない。あるいは、そう、あのバイクは単独で走っていた。群れから離れひとり家路につく暴走族は、ああいうふうに丸くなるのかもしれない。わからない。いずれにしろ、よい信号待ちの時間を提供してもらえたと思う。いままで聴いた「渡良瀬橋」のなかでいちばんよかった。 けっして交わりそうにない人々が、森高千里の「渡良瀬橋」という共通項を介して一瞬だけ交わる。特攻服らしき衣装のパーフェクトヤンキーと、そこにたまたま居合わせたわたし、見知らぬおばさま方。あのときだけ心が通った気がする。わずかな時間、音楽が交差点として機能した。 人と人が出会えるのは、こうしたごくわずかな僥倖でしかないのだと思う。たまたま、タイミングが合えば。すれ違いつづけることが普通で、会えることは滅多にない。というより、会うことさえすれ違いの一形態なのだと思う。それでいい。 数日前、“sonder” という造語を教えていただいた。John Koenig『The Dictionary of Obscure Sorrows』という造語の辞典に載っている(邦訳はない)。ネット発の、まだ名前のない複雑で微妙な感情に名前をつけてみよう、...

日記1039

小野純一『井筒俊彦 世界と対話する哲学』(慶應義塾大学出版会、2023)を読んだ。この本で解説される井筒の哲学は、かねてより自分がそれと知らず関心を寄せてきた問題と呼応する。細かな分析は措くとして、大掴みな論点は「まさにそれ」と感じた。それは「言語の軛と、そこからの自由」。  “井筒が生涯にわたって格闘した「言語」は、自己を「何か」として規定する軛であると同時に、その軛を解き放ち、「世界」や「自己」を新たに解釈し、表現するための可能性でもあった。「意味の実体化」から解放され、自由に思考する可能性を極限まで追究する営みが、井筒哲学の全貌である。” (上掲書「はじめに」、p.ⅵ) 「意味の実体化」とは何か。  “人は言葉の持つ意味を「世界」として実体化していることに気づかない。「世界」とは、私たちがその時その場で一度だけ経験するかけがえのないものである。だがそれを「これは花である」「これは石である」と一義的な仕方で規定する時、私たちは生き生きとした経験から遠ざかっている。なぜなら、その「世界」は既に「意味」として、社会的に共有された表現によって規定されており、私たちはそれを繰り返しているだけだからだ。井筒は、そのような意味の実体化を超克する思索を生涯、貫徹した哲学者だった。” (同「はじめに」、p.ⅳ) わたしは2019年の 日記701 において「言葉は模造です。実体とはちがう」と書いている。だいたい似たような観測だと思う。でも人はしばしば、言葉を実体と取り違える。共有可能な「同じさ」のフィクションに包まれて生活をする。それはそれで不可欠な人間の知恵なのだ、とも思う。一回的な経験と同じく、繰り返しの日常もたいせつ。 「解放」や「超克」は、わたしとしてはあまり目指していない。「極限まで追究」なんて、頭がおかしくなりそうである(が、そこが井筒の魅力でもある)。ただ、多少は目指したほうがよいときもある。意味の規定性・実体化からの解放は、精神医学の知見とも親和的だと思うから。 1年前の 日記1028 でとりあげた斎藤環『イルカと否定神学』も、わたしから見ると「言語の軛と、そこからの自由」を取り扱った内容だ。膠着した文脈の解体と再構築が「開かれた対話」によって行われるのだとか。あるいは、方法はまったく異なるが 日記1031 でとりあげた幻覚剤による精神疾患の治療もそう。幻覚によっ...