考えなくとも自然にできること/やってしまうことって、ふしぎに思う。たとえば睡眠や排泄、歩行、姿勢の維持、呼吸、目で見ること、耳で聞くこと、さまざまな感情の表出、ふと他人の視線を追ったり、とっさに表情をつくったり、などなど……。どうやってる? と問われても答えられない。日々たくさんのことを、なんとなく自動的にやっている。 むろん、そうしたことができなくなるときもある。そもそも視覚や聴覚がない人もいる。べつの状況に触れて初めて考えることが必要になる。備わっていたもののふしぎさに、はたと気がつく。 わたしは不器用な人間で、「自然にできる」とされていることができないこともままある。だからたぶん、人よりふしぎを感じることが多い。考えてしまう。なにかと不安は大きい。でも案外、得な気質なんじゃないかとポジティブに捉えている。いつまでもこどもみたいに、なんでもふしぎだ。 さいきん、『平和と愚かさ』という本を読んだ。著者は哲学者・批評家の東浩紀氏。世界各地を旅しながら考えたこと、感じたことが綴られている。旅をすることは、「べつの状況に触れる」ひとつの方法だろう。本の分厚さにビビるが、開いてみると平易な筆致で読みやすい。紀行文が大半で写真も多い。それでいて複雑な含みも湛えている。 平和と愚かさはともに「考えないこと」の表現である点で共通している、という話から始まる。氏は「考えないこと」について揶揄するでもなく、必要以上に持ち上げるでもなく、人間の一側面として包括的に考えていく。 “多くのひとが平和だと感じる状況においては、ひとは戦争を戦っていないだけではない。そもそも戦争について考えていない。少なくとも考えないことが許されている。それが重要なのではないか。” 『平和と愚かさ』(p.22) 平和という概念もまた考えずとも「自然にできること/やってしまうこと」に近いのかなと思った。それだけに、ことばにしづらい。平和は、考えはじめた瞬間にぎこちなくなるようなたぐいの性質をもつのかもしれない。 『平和と愚かさ』の内容は多岐にわたるが、冒頭の着想からだけでも多くの連想が浮かぶ。人間の営みについての思考がみっちり詰まっている気がする。以下、ここから考えうる私的な連想をメモしておきたい。 まず思い出したのは、山形浩生がジョージ・エインズリー『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』を引き合いに...
ある土曜日の夕方、散歩中、信号待ちの時間。どこからか森高千里の「渡良瀬橋」が響いていた。音の発生源は、派手な改造が施されたバイクだった。異様に長く反り立つ座席の背もたれ部分には「國士が集い惡を討つ」と筆文字で書いてあった。遠めにいたので乗っている人物の顔はわからなかったが、日章旗柄のヘルメットは確認できた。さらに紫色の特攻服みたいな衣装に身を包んでいた。「古き良き暴走族そのもの」といった完璧な風情。しかし、なぜ爆音の「渡良瀬橋」なのか。そこだけが腑に落ちなかった。「暴走」とはほど遠い。しみじみ黄昏れてしまうではないか。しかも場所は、ちょうど橋の上。夕日がきれいな時間だった。曲は終わりがけ。 “あなたが好きだと言った この街並みが 今日も暮れてゆきます 広い空と遠くの山々 二人で歩いた街 夕日がきれいな街” わたしのそばで信号を待っていたおばさまたちは、音に合わせ静かに揺れていた。信号の色が変わると、爆音の森高も静かに走り去っていった。見た目とは裏腹にエンジン音はかなり静かだった。森高だけが爆音で、この点も不可解に感じた。あれはなんだったのだろう。 とにかく森高を聴きたいし、聴かせたい人なのかもしれない。あるいは、そう、あのバイクは単独で走っていた。群れから離れひとり家路につく暴走族は、ああいうふうに丸くなるのかもしれない。わからない。いずれにしろ、よい信号待ちの時間を提供してもらえたと思う。いままで聴いた「渡良瀬橋」のなかでいちばんよかった。 けっして交わりそうにない人々が、森高千里の「渡良瀬橋」という共通項を介して一瞬だけ交わる。特攻服らしき衣装のパーフェクトヤンキーと、そこにたまたま居合わせたわたし、見知らぬおばさま方。あのときだけ心が通った気がする。わずかな時間、音楽が交差点として機能した。 人と人が出会えるのは、こうしたごくわずかな僥倖でしかないのだと思う。たまたま、タイミングが合えば。すれ違いつづけることが普通で、会えることは滅多にない。というより、会うことさえすれ違いの一形態なのだと思う。それでいい。 数日前、“sonder” という造語を教えていただいた。John Koenig『The Dictionary of Obscure Sorrows』という造語の辞典に載っている(邦訳はない)。ネット発の、まだ名前のない複雑で微妙な感情に名前をつけてみよう、...