1月に支払った8,888円。ゾロ目を狙ったわけではなく、たまたま。店員さんに「大当たりですね」と言われた。1月のはじめだったこともあり、ことしはなんか運がいいかもと思った。しかし、とくにこれといったこともなくすでに9月。ジャパネットたかたがおせちの宣伝を始める時期だ。調べたら8月から予約販売を開始しているらしい。気が早いなぁといつも思うけれど、ぼーっと過ごしていたらいまにそこらじゅうでクリスマスソングが鳴り出すのだろう。徐々に年末が視野に入る。9月ってもうそういう時期か。初旬にハロウィンの準備も見かけた。 この、8,888円の出来事を書こうと思っていたら半年以上過ぎてしまった。やろうやろうと思いながら果たせていないことが、日に日に増えていく。自分が生きているうちにやれることは、とてもすくないと思う。あまり元気がない。疲れている。とくにできることもないんだけど。 「大当たりですね」と言われてなんとなくうれしかったが、想定よりお金を使ってしまったので微妙な気分でもあった(お米の値段が高い時期だった)。大当たりだからって景品がでるわけでもない。粛々と支払うのみである。 とはいえ、「ぴったりの魔力」みたいなものはある。すべての選択が間違っていなかった。そんな気にもなる。ふだん買わないニンニクの芽も、買ってよかったなーと。購入品がすこしでもずれていたら、「8888」にはならなかったのだから。「ぴったり」によって過去の行いがまるっと正当化される。そんな一瞬がたまにある。きれいな着地の重要性がわかる。 過去、ロールス・ロイスから出てくるたけしを偶然に見かけたときにもまったく同じことを思った( 日記1020 )。なんかピタッと交差する出来事に遭遇すると、いままでの時間がぜんぶそこめがけて整序されるような。過去の行動がすこしでもずれていたら、その瞬間は訪れなかったと。でもほんとうは、すべての時間がそんな途方もない偶然のうえにあるのだと思う。 あたまが悪そうな発言なので誰にも言わないけれど、地球が丸くて宙に浮いてるってヤバすぎる事実ではないか。あと母親の身体からにょきにょき分化してにゅるにゅる人間が再生産される仕組みもヤバすぎる。これは前にも書いた。この世界の成り立ちは根本的に奇妙だ。いくら説明されてもぜんぜん理解できない。空から水滴が落ちてくることさえ、幼いころからずっと不思議に思う...
ハン・ジョンウォン『詩と散策』に、こんな書き出しのエッセイがある。 “今年になって初めて蟬の声を聞く。まだ力を出しきっていないようだが、鳴き声はしだいに熱を帯び、耳をつんざく。蟬は自分が短命であることを知っているがゆえに焦っているのだろうか。それとも知らないから一生懸命なのだろうか。 成虫になるまで土の中にいた時間に比べたら、ひと月に満たない寿命はあまりに虚しい。だから人間の耳には不快でやかましくても、下手に文句は言えない。いちばんつらいのは、ほかでもない蟬なのだから。 八月がいちばん熱い月である理由は、このような絶頂も衰退も持ち合わせているからだろう。”(p.51) ここを読んで疑問が浮かんだ。蝉は自分のことを、どこまで知っているのだろうか。 蝉の個体がどこまで自分の命運を知っているのか、それは知りようがない。知りようがないだけに、どんな解釈でも勝手な投影にならざるを得ない。ハン・ジョンウォン氏も、なんだかんだ蝉の生に自身の尺度を重ねているように思う。 わからないけれど、蝉は土のなかで過ごしているとき、自分がいずれ地上に這い出して空を飛ぶようになるだなんて、夢にも思っていないのではないか。あいつらは何もわかっていない気がする。 蝉はたぶん、数年のあいだ土中で過ごしたのち、急にわけのわからない情熱に駆られ地上へ這い出すことになる。なんだか知らんがここから出ないといけない。もうほんとうにわけがわからない。でも行かなくちゃ。そうして地上へ這い出したと思ったら、そこからさらに上を目指す。ここがゴールちゃうんかえ!? 自分でもぜんぜん意味不明だけど、満足できない。もっと登んなくちゃいけないらしい。どこでもいい。そのへんの登れそうなもんにつかまって登るしかねえ。とにかくやるんだ。地上の環境は謎すぎるし、デカくてヤバそうな生き物がたくさんいるが、もうしょうがない。すげー嫌だけど、いまさら戻ることもできん。どうしてこんなことに。マジで最悪だ。などと内心で愚痴りながらも登りつづけ、その途上でさらなる謎の出来事に見舞われる。あれ、なんか背中割れそうなんですけど? どうしよう。我慢できない。これなに? なんなの? やだ、漏れちゃう! グエー死んだンゴ。と思いきや、どっこい生きてる! ハネ生えてるし! やば。飛べそう。っていうか飛べる。でも飛ぶの怖い! どこ行くかわかんねーし。どこ...