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6月, 2021の投稿を表示しています

日記811

わかっている部分がないと、「わからない」も見えてこない。どこまでがわかっていて、どこからがわからないのか。「わかる」と「わからない」はつねに隣り合わせが望ましい。わかった瞬間に、次の疑問が芽生えるような。魔法がとけたと思った瞬間、べつの魔法にかかってしまうような。 「わかんないことがわかんないくらい好きみたいです」と、かつて松浦亜弥は歌った。世に名高い「桃色片想い」の一節である。「わかんないことがわかんない」状態はつまり、一方通行の片想いなのだ。桃色の。あやや曰く、「夢にだって出ちゃって来ちゃいます」。なるほど、なんかこう、漏れ出しちゃう感じのイメージなのかもしれん。「わかんない」が異常に昂ぶると、思考が滲出してしまう。出ちゃって来ちゃう。お漏らしである。 で、おそらく「わかる」もボルテージが上がると漏れる。溢れかえる。この真実をみんなに知らせなきゃいけない!と。こっちもやはり、出ちゃって来ちゃいます。つまり両方とも、行き過ぎると覚醒作用がある。目覚めてしまう。平常心はそのあわいの、「わかるようなわかんないような気分」なんだと思う。 世の中、わからない。しかし、まったくわからないわけでもない。わかるようなわかんないような感覚でとりあえずゆらゆら生きている。すくなくともわたしはそう。あんまりわかっちゃうのも、あんまりわかんなくなっちゃうのもよくない。なぜなら、出ちゃって来ちゃうから。 「わかる/わからない」の調整弁として人は、神さまみたいな何かを必要としてきたんじゃないか。神さまでなくてもいい。究極的にわかっていて、究極的にわかんない何か。意味の限界点というか。そういう外っかわがあるおかげで、わたしたちはひとつの輪郭を保っていられる。 「漏れる」ってのは、輪郭のゆらぎだと思います。輪郭はつねにゆらいでいて、人はいつも何かを漏らしている。でもぜんぶは漏れない。漏れ出す明るい部分と、漏れない暗い部分がある。見える部分と、見えていない部分。 ぜんぶ漏れると、わたしのかたちがなくなってしまう。だから、出ちゃって来ちゃう状態は危険だ。輪郭がガバガバになっている。恋は人をガバガバにしがち。わかり過ぎるし、わからな過ぎる。それもたまにはいいけれど。 勢いでだーっと書いた。読み直すと抽象的すぎて意味不明だ。これこそ出ちゃって来ちゃってる文章かもしれない。お漏らしである。一行でまとめる

日記810

ひとつ前に書いた、「悪いヤツ捕まえてこい!」と警官に怒鳴る男性についてぼんやり考えていた。早い話が狂人なのだけど、理性的な狂い方というか、なんか時代を反映している気がする。正しい立場を堅持しながら狂っている。警官に向かって正々堂々と。おかしいけど、反社会的ではない。そこそこ社会性にかなった狂い方。現代の空気が個人のなかで煮詰まると、ああなるんじゃないか。「悪いヤツ捕まえてこい!」とお怒りの方は、ネット上ならたくさんいる。    「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」とG.K.チェスタトンは『正統とは何か』(春秋社、p.23)に書いている。なるほど、そうかもしれない。   狂人はたった一つの観念のとりことなっている。その牢獄は清潔無比、理性によってあかあかと照明されてはいるけれども、それが牢獄であることには変わりがない。彼の意識は痛ましくも鋭敏にとぎすまされている。健康人の持つ躊躇も、健康人の持つ曖昧さも、彼にはまったく欠けているのだ。p.29 彼は曖昧にたたずむ警官を許せなかった。わたしにも曖昧さを嫌う心性はある。曖昧なものを放っておける、適度ないい加減さが精神的な安定性には不可欠なんだろう。なんでも明確にすればよいというものではないのだ。チェスタトンは曖昧さを擁護して、神秘主義の必要を説いている。 現実の人間の歴史を通じて、人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を破壊する時、すなわち狂気が創られる。平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである。薄明の存在の余地を認めたからである。一方の足を大地に置き、一方の足をおとぎの国に置いてきたからである。p.39 さいきん、似たようなことをずっと書いてる気がする。さいきんでもないか。「わからない」ということ。世界をわからないものに育てること。わかっている領域よりも、わからない領域のほうがずっと広くて、おもしろい。 狂気に陥りかかった精神を相手にする場合、われわれの努めねばならぬのは、相手の論理の穴を突くことではなくて、空気抜きの穴を開けてやることなのである。同じ一つの論理に固執しつづければ窒息してしまう。だから、この論理の密室の一歩外には、晴れ渡ったすが

日記809

  「ロマンチック」について、「遠くて遅くてまわりくどくてうざくて見方によってはイライラしてしょうがない」そういうたぐいのもんではないかと、きのう書いた。きょうになってあらためて考えると、これはお年寄りのことではないかと思い至る。歳を重ねるにしたがって、なにか人は、ロマンを純化させていく傾向にあるんじゃないか。良くも悪くも……。 耳が遠くなった祖母は、「聞こえないとさびしい」とたびたび口にする。文字通り、遠くにいるような感覚なのだと思う。そばにいるはずなのに、自分だけが遠く置き去りにされてしまう。ただ聞こえないだけではない。「耳が遠い」というすこし詩的な慣用句の核には、「さびしさ」がある。 聴覚以外でも、感覚の鈍麻と「さびしさ」はセットで訪れるのだろう。そして「さびしさ」とは、まさに「遠くて遅くてまわりくどくてうざくて見方によってはイライラしてしょうがない」種類の気持ちなのだ。みなまで言えない、だけど気づいてほしい。それはすなわち、ロマンチックの素となる感情でもある。 個人的には「かわいい」と思う気持ちにも、「さびしさ」がふくまれている。「かわいいね」と「さびしいね」は、ほとんど同義といってもいい。さびしいと感じたときはだから、ロマンチックにかわいくなれるチャンスなんです。 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻、小泉節子の「 思い出の記 」が頭に浮かんだ。青空文庫で読める。この手記から漂う情緒がわたしは好きだ。たとえば、こんなところ。    熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します。ある晩ヘルンは散歩から帰りまして『大層面白いところを見つけました、明晩散歩致しましょう』との事です。月のない夜でした。宅を二人で出まして、淋しい路を歩きまして、山の麓に参りますと、この上だと云うのです。草の茫々生えた小笹などの足にさわる小径を上りますと、墓場でした。薄暗い星光りに沢山の墓がまばらに立って居るのが見えます、淋しいところだと思いました。するとヘルンは『あなた、あの蛙の声聞いて下さい』と云うのです。  又熊本に居る頃でした。夜散歩から帰った時の事です。『今夜、私淋しい田舎道を歩いていました。暗いやみの中から、小さい優しい声で、あなたが呼びました。私あっと云って進みますとただやみです。誰もいませんでした』など申した事もございます。 どうだろう。「大層面白いと

日記808

  神田橋  僕は言葉は子どものときから自由自在に使えていたの。 浅見  そうでしょうねえ。ご本を読むとわかります。 神田橋  だから言葉は信用しないの。 浅見  わかります。 神田橋  便利な道具として、どうにでも使えるということがわかっているからね。 『発達障害は治りますか?』(花風社、pp.267-268)。精神科医の神田橋條治先生を囲む、座談会の本。引用のような、ちょっとした横道のお話が興味深い。「信用しない」は言い換えると、支配されないということだろう。ことばはとらえどころがない、ともいえる。「道具に過ぎない」という見限りもあるかしら。とはいえ、まったくの自由もありえない。 上記の引用は、体と心のつながりを問う文脈から出てきたお話。ことばにとらわれなくなると体が見えてくる、とも解釈できるかな。言語的な分析はほどほどにして、体に着目する流れ。僭越ながら、自分も似たような考え方の経過をたどっている。ただわたしの場合、おとなになってから。 ことばは信用ならない。だからスリリングでおもしろい、とも思う。うそかまことか、わからない。うそもまこともないのかもしれない。あなたの、そのいい加減さが好き。 自分のことばでも、「自分のもの」とは言い切れない。「あなた」なのよね。外に出した瞬間に、もうよそよそしい。ことばはそもそも後天的に他者からゆずりうけたものであり、自他の区別をあいまいにする性質がある。こだわり過ぎると自分を見失ってしまう。 体に着目すると、肥大しがちなことばが削がれる。   『発達障害は治りますか?』を読んで、あらためて思った。神田橋條治はおもしろい。「プラシーボ効果だっていいんだ。プラシーボ効果ほどいいものはない。一番いい治療法だ。(前掲書、p.288)」というご発言なんか、これも僭越ながら、わたしもそう思ってた。しかし、これをはっきり「一番いい」と言うお医者さんがこの世に存在するとは思っていなかった。 こういう身も蓋もないことをスパーンと言える人に惹かれてしまう。どんな分野にもひとりはいる、なんか超越してる人。ちょっと極端で危うさも感じる、でも誠実そうな人。 6月19日(土) 雨降りの土曜日。介護施設にいる祖母と面会した。窓ガラス越しに、電話。コロナ対策。この方法はでも、すこしロマンチックな感興をもよおさなくもない。わざわざ遠回りする感じ。 遠

日記807

  6月18日(金) 今朝は比較的、調子がよかった。スキップしながら職場へ向かうほど。焼酎風呂のおかげだろうか。知らんけど。疲労が溜まるとわたしの場合、肌が荒れるためすぐわかる。人から「感情がすぐ顔に出る」とも言われる。ごまかしがきかない呪いにかかっている。 帰路。道端で年配のおじさんがワンマンショーを繰り広げていた。陰謀論の大演説。自然災害が起こった過去の日付を足したり引いたりしながら悪魔の数字がどーのこーのおっしゃる。事件や事故もぜんぶ悪魔の数字が絡んどるんやと。信じないまでも、聞いてるとしょうじきおもしろい。「な、なんだってー!!」と叫びたくなる。陰謀論は楽しい。 一方で、むかーし別冊宝島の文庫で読んだ山形浩生氏の文章を思い出す。    やはり、まず書いておくべきでしょう。ぼくはあなたの理屈がさっぱりわからない。いや、わかんないというわけではない。逆にわかりすぎるくらいわかる、というのが正確だな。ぼくだけじゃない。世間一般から見ても同じでしょう。あなたの展開なさっているような議論を、通常は「我田引水」ともうします。 『愛の奇蹟』に見るインターネット情報「受信」不全症 (別冊宝島356 『実録! サイコさんからの手紙』 1998年1月)   陰謀論とだいたい似たような思考を繰り広げる人に対して、こうお書きになっている。「我田引水」と。ほんとうに、この四字熟語に尽きると思う。陰謀論的な話は、吸引力が半端ない。自分の思い通りに出来事を関連づけてくって、気持ちがいいから。 山形氏はこうした問題の背景に、「受信」の不在を見る。    つまりインターネットが(学ぶつもりのある人には)教えてくれることは、コミュニケーションの双方向性という、本当はあたりまえであるべきことなのです。情報「発信」は、簡単なことです。むずかしいのは、それを受信してもらうことなのです。そしてそのためには、発信する価値のある情報生産力を持つと同時に、自分もまた受信する能力をもっていなくてはならないのです。 同上より   相手に受信してもらい、さらに自分も受信すること。このブログもかなり一方的なノリなので、耳の痛いご指摘。ただ、読者は漠然と想定する。先生に見てもらうような気持ちにちかい。半ば試験だと思ってる。具体的な知人のときもある。「あの人が読んでくれたらいいな」という理想に寄せるときもある。コメ

日記806

「ぜんぜんなんも関係ないんやなー」とポッカリひらけた感覚、「ぜんぶ関係しとるんやなー」としがらみに閉じた感覚。このふたつのあいだをいったりきたりしている。ひらいたり閉じたり。 かたよりがあるとたぶん不健康で、どっちつかずに揺れているかぎり健康なのだろう。あまり揺れが激しいのも不健康か。ふわっと自分でも気がつかない程度に揺れる。微風でわさわさ。そのくらいが理想的。気がつく時点で、すこし不健康なのやも。 どちらかといえばいまのわたしは、「なんも関係ない」にかたよりがち。ふと失踪したくなる。失踪者の感覚がなんとなくわかる。なんとなく。決然たるものではない。ふわっと「すべてぶっちぎって、すこしだけどっかいこう」と。その「すこしだけ」がずるずる何年もつづいちゃう、みたいな。そんな発想は迷惑千万なのだけど、脳裏をよぎる。でも実行はしない。 「ぜんぶ関係しとる」はこどもっぽい世界観。あらゆるものが連続的で、なにひとつ切れない。ひとりになれない。強い因果に閉じた、ちいさな世界。「なんも関係ない」はおとなというか、変に悟った感じ。「死」にちかい。そういえば悟りって、ひらくのよね。「悟りを閉じる」とは言わない。 「なんも関係ない」をこじらせると「失踪」へ向かう。では「ぜんぶ関係しとる」のこじらせ形態は何か。「引きこもり」だろう。パーンといなくなる人、がんじがらめでずっといる人。正反対のようで、この両者はどこか似ている。 わたしには引きこもりの経験がある。なので、失踪も経験すれば両極をコンプリートできる。在から不在へ。そんな人生も悪くはない。でもたいへんなことだし、いまんとこしない。そこまでの沈黙を自分に許せない。せずに済めばありがたい。 ふつう人は、たゆたうように、いたりいなかったりを繰り返す。行ったら帰る、帰ったら行く。いるようでいない、いないようでいる。リズムよく「いる」と「いない」の波間を泳ぐ。これが健康的なふるまい。リズムを崩すと心配されてしまう。およそあらゆる心配の種は、リズムの失調から芽生える。   失踪と引きこもり、この極端な精神性をセットで捉えなおすと、自分のなかでなんか見えてくるかもしれないなーとぼんやり考えている。共通項は、ことばの不在。曖昧な喪失。そしてどちらも「親密さ」に対するリアクションとしてあらわれる。はた迷惑でも当事者にとってはおそらく、「再生」を希求する

日記805

    「わからんけど……」と言いつつわからんなりにも生と死について飄々と語り出す、森毅と河合隼雄のおふたかた。重いテーマを軽い雰囲気で、しかし正面からお話になる。聞きながら自分も、わからん話をわからんなりにできるこんなおとなでありたいと思った。 ぜんぜんわからんのやけど、わたしには世界がこんなふうに見える、あるいは、こうであるといい、こうだとおもしろい、とかとか。このブログでも、できるだけそういう話を展開したい。 「わからない」で止めるのではなく、その先をことばにする。それこそがおもしろい。ずっとそう感じている。荒俣宏がいつかラジオで話していた名言「0点をとる勇気」を忘れずにおこう。正解のないことばを紡ぐ勇気、ともいえる。 森毅と河合隼雄のあいだに割って入る男性アナウンサー氏は、その点で好対照をなしている。正解を求めることばづかい。終盤、まとめようとして「ん?ちがうかな……」と言いよどむ場面が顕著。しかしこれは、役回りで仕方がない。まとめる人、いわば「わかったことにする人」がいないと終われないのだから。 それもふくめておもしろく聞いた。「わからん」ということは、終わりがないことでもある。ケリがつかない。わかったことにするから終われる。日本語の生理としても、そうなっているのではないだろうか。然様なら(そういうことならば)と。わかったことにしないと、「さようなら」ができない。死別に関してもそんな側面は見受けられる。 森氏はそれに反して、「ちょっと納得いかんけど死ぬ。ってのがふつうちゃうか」と話す。これを受けて河合氏は「それいいですね。死に際のひとこと、俺はまだ納得しとらんで!」と笑う。「せやけどしゃーない」とアナウンサー氏がかぶせる。森・河合ご両人も「しゃーない」「しゃーない」と復唱する。 この18分過ぎからの流れがたまらなく楽しい。後半に魂の話が出てくるけれど、「納得しとらんで!」が魂ってやつとちがうんかなーなんて思った。納得したら、きれいに成仏してしまう。 魂はぴったりしていない。個人的な感覚では、“収まりの悪い何か”としてよく語られる気がする。「人間は有限なんだけど、無限の裏打ちをほしがる」と河合氏は話す。こうした矛盾の間隙にひそむものが魂なんではなかろうか。矛盾に引き裂かれてはじめてお目見えする人間のありよう……。などと考えたところで、きのう読んだ中野善夫氏の

日記804

      きのうの記事のさいごに名前を出したジャン・アンビュルジェの息子は、シンガーソングライターのミシェル・ベルジェ。フレンチ・ポップスがお好きな方はご存知かもしれない。 そして、ミシェル・ベルジェの配偶者はフランス・ギャル。こちらも歌手で、代表曲は「 Poupée de cire, poupée de son 」。これなら、誰でも聴いたことがあるだろう。           邦題は「夢見るシャンソン人形」。 『科学者たちのポール・ヴァレリー』から「夢見るシャンソン人形」につながる。意外な抜け道があるものです。こんなふうに名前をたどる人はどのくらいいるのだろう。逆に、「夢見るシャンソン人形」からたどってジャン・アンビュルジェの論文に至る人もいるのかもしれない。いたら素敵。   「 Poupée de cire ~」のカバーは無数にある。わたしは、WIZOというドイツのバンドによるカバーが好き。     十代のころよく聴いてた。なつかしい。 元気になる。   「元気?」ってのは、こども部屋をノックするような問いかけなのかも。成人後も残る、心のこども部屋。おとなはそんなに元気がない。「元気のなさ」がおとなの定義といっても過言ではないくらい。 たとえるなら、ミュージックステーションのタモリ。あの感じ。あれが仕事をするおとなの姿。タモリ倶楽部では、すこしこどもっぽくなる。つまり、元気になる。元気な人は、こどもっぽい。 おとなになると、人は心のこども部屋に元気をしまいこむ。おとなだからね。中には、こども部屋ごと取っ払ってしまう人もいるかもしれない。その場合、元気はどこへいくのだろう。行き場を失って暴発する。そんなこともありそう。 元気をしまう、こども部屋を保っておきたい。遊ぶとき、自由に取り出せるように。 カバーを検索していたら、元気なおとなを見つけた。心のこども部屋から半裸で飛び出してきた格好のおじさん。いや、ほぼ全裸か。Opium Du Peupleというフランスのバンド。両サイドの女性もかっこいい。うん。なんてかっこいいんだ。こんなパフォーマンスに、こども心をくすぐられる。こども部屋同士がつながるような。めっけもんって感じ。  

日記803

  遺影。       人は思い上がりや勘違いによって生きる。誰でもそう。基礎代謝と似たようなものとして、基礎思い上がりや基礎勘違いがある。基礎プラセボ効果、みたいな。偽薬の効力でこの世をサバイヴしている。そいつが切れるとたちまち憂うつに苛まれる。 ではその思い上がりを担保する偽薬とは何か。すぐに思いつくのは貨幣と、ことばだ。わたしは気分が沈むとまず、お金に価値を感じられなくなる。しかしことばに価値を感じられなくなったことはない。マイナスであれプラスであれ。たぶん、それで適当に持ちこたえることができている。 元気は思い上がりの産物である。「元気ですか?」。この何気ないひとことはつまり、「思い上がっていますか?」と問うている。アントニオ猪木の「元気があればなんでもできる」は「思い上がっていればなんでもできる」と言っている。こう考えるとわかりやすい。ほかにも、さまざまなことがストンと腑に落ちる。 悟空の「オラに元気をわけてくれ!」は「オラに思い上がりをわけてくれ!」となる。元気玉、あれは思い上がり玉なのだ。地球人の思い上がりパワーを集め、敵を抹殺する。どおりで破壊力抜群なはずだ。人々は日々、思い上がりを分け合って生活している。思い上がりがなければきっと、思いやりも発揮できない。 この線でいくと、お金は思い上がりの数値化ということになる。そういう側面もなくはないだろう。5000兆円あったらどうする? みたいな問いは、思い上がり心を存分に刺激してくれる。たとえあり得ない勘定でも、思い上がるとたのしい。    ぼくたちは、この世界と「直接」関係を結ぶことはできない。ことばを通して、関係を結ぶのである。  それは、ちょうど、ぼくたちが、「貨幣」を通じて、物質的世界を手に入れるのに似ている。ことばと「貨幣」は、世界を手に入れるために、人間が作りだした最高の武器なのだ。 高橋源一郎『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』(文藝春秋、p.265)。わたしたちはことばと貨幣の、思い上がりのプリズムを通して世界と関係を結ぶ。「ことばで表現されたものは、現実そのものではない。似ているが異なるものだ。いま見たもの、触れたことはこういうものであってほしい。そんな夢と 期待 が、ことばとなって現れるのだ」と荒川洋治は著書『文学のことば』(岩波書店)の冒頭に書いていた。ことばも貨幣も期待を媒介する

日記802

  6月6日(日)  横浜、野毛山動物園へ。長年、地元の人に愛される動物園。誰でも無料で入園できる。払いたければ募金もできる。個人的に500円払って、カメの写真ばかり撮っていた。    生きとし生けるものは、肥ることもあるし痩せるときもある。かめも痩せる。あんな固い甲羅で被われていて、どうして痩せることができるかと思われるだろうが、あれでやはり栄養状態がよくなければ痩せる。どこがしなびる? おなかのほうの甲羅が内側へ凹んでしまうのだそうだ。背中の甲羅はいくら体力減少しても、凹むに凹めないのだろうと察しられて哀れである。おなかのほうだってあんな固いものが窪むのは、よくよく中身が痩せ縮めばこそである。鎧の凹む痩せかたをするとはいたましい話だが、誰もかめが痩せることなど考えもつかないのである。  かめの痩せが知られていないと同様に、「かめのたてる音」を知っているかと問われて答えられる人は少ない。かめは音をたてて歩く。甲羅の突先が石なり床なりに当たるのだ。一ト足ごとに、ゴトン、ガタンというふうに音をたてる。兎との駆けっこで知られているように足はのろい。それが一ト足ごとにゴトン、ガタンとやるから、夜なかに襖をへだてて聞いたりすると、てっきり泥棒とおもう。  行ってみるとぴたりと音は止まって、人のいる気配はない。電気をつけて見れば異常はないから、かえってぞっと気味わるい。そしてものかげにかめがいて、――こいつおどろかしやがった、というのだそうな。ユーモアもあるが妖怪味もある。砂の上を歩けば大きなかめならはっきり足跡――ではない、甲羅のお尻あとが残っているという。   幸田文『動物のぞき』(新潮文庫、pp.87-88)。かめも痩せる。この短い言い切りがたまらない。かめも痩せる。ちょっと癖になってしまう。これ以上なく簡潔でありながら、著者自信の驚きが十全につたわる語り口。「なんと、かめも痩せるのだ!」などと野暮ったく書かない。かめも痩せる。これでじゅうぶん。なにより品があって心地よい。「かめ」と平仮名にひらくところもいい。かめ。 わたしは「かめも痩せる」と聞いても、とくに驚かない。そら痩せるでしょう、と思う。しかし幸田文は驚いている。それもたのしそうに。「かめのたてる音」もそうだ。ご指摘のとおり、知らなかった。「痩せる」についても、「どこがしなびる?」まで考えたことはない。 「知る

日記801

  6月4日(金) また頭痛。2日連続はめずらしい。また15時過ぎに治る。きっちりした体。率直な話、生きるべきか死ぬべきか、みたいなこっ恥ずかしい問いが生まれてこの方クリアにならないんだなーと感じた。雨をしのぎながら。手前の手前の手前の手前でえんえん迷っている。生きていることはあたりまえではない。動物園に行きたいと思った。 先月、緊急事態宣言で図書館が閉じていたとき、「図書館がなければとっくの昔に死んでたと思う」といういつかの誰かのtweetを思い出していた。本を借りるたびに、「これを返すまで死ねない」と思う。シオランのことばを地で行く自分がおかしい。「一冊の本は、延期された自殺だ」。生きることは、借りることに等しいのではないか。この世にわたしのものは、ひとつとしてない。  決着をつけないで、保留している生き方も、がらくたばかりたまってしまってうっとうしいけれど、ただ保留だけしてうじうじしていればいいというわけじゃないぞ。決着をつけようとしない覚悟、保留以外の何物にも手を出さない覚悟、これが必要で、そうでなければ、一つの態度にはなりえないということ――。 色川武大『私の旧約聖書』(中公文庫、p.161)。いま適当に手にした本の、適当にひらいたページから数行を借りた。いい話。これぞ腰の据わった人物。という気がする。決着をつけたくなる心性は、どうしようもなく弱い。何もかも保留にして、いまはただ、動物園に行こうと思う。

日記800

高橋  誰かがあなたがやったような隠喩としての癌や結核の研究を日本についてやらないといけませんね。あるいはあなたの説を批判するような形の研究が日本から出てくるかもしれません。 ソンタグ  研究じゃありません。思考と感受性の問題です。バルトだって、目と頭を精いっぱい使ってあの本を書いたので、あれは「研究」じゃないでしょう。一介の旅行者も、多くのことを発見できるものです。 高橋康也対談集『アリスの国の言葉たち』(新書館、pp.330-331)。『隠喩としての病い』は「研究」ではないと反発する、スーザン・ソンタグ。79年の対談。「思考と感受性」、わたしの理解で言い換えると「客観ではなく主観の問題」といっている。さらにいえば、魂の問題だと。彼女の文章を読むうえで、とても参考になる発言だ。本質的、とさえ感じる。すばらしい。 なんだかんだで、内側から滲むようなことばを吐く人に惹かれる。そこしか信頼していない。「私はどうしたって、血で書いたような文章を好む。そして魂の叫びがまったく聞こえない文章はただちに放り出したくなる」という哲学者、山口尚さんのことばに深く共感する。複雑に襞をなす内奥の論理が知りたい。 たとえば認知症のお年寄りを「認知症のお年寄り」とカテゴライズして終わり、ではなく。過去をもつひとりの個人として感覚したい。コンビニの店員さんも、電車で隣り合った人も、路肩でいつもストロングゼロを飲んでいる白人のおじさんも、誰一人としてただの背景ではない。そんなことをよく考える。われながら殊勝なこころがけ……。 自分もふくめ、誰もが「いずれ死にゆく者」だと思えばいとおしく感じられる。そうやって人間を見ているふしがある。いや、ごめん、それは大袈裟かもしれない。 こう書き直そう。誰もが何かをなくした人だと思っている。固有の喪失を経験して、なお生きている。長く生きれば生きるほど、なくしものは増える。なくしたものを掬いたい気持ちがある。ことばでしかなくなったものを。 6月3日(木) 父のかかりつけ医が反ワクチン論者みたいで、複雑な気分になった。むずかしい。陰謀論なんかも身近で耳にするけれど、むずかしい。これについても、相手の内側の論理を考えてしまう。何を知っているかではなく、何を生きているのか。目の前で息づく個別の「信」に訴えかけないことには、どんなに正しい「知」のことばも空疎に終わるだ

日記799

美恵子  ブック・ガイドってものは役に立ったことある? まあ、「文藝」のもそうだし、「マリ・クレール」のも同しだけど、すくなくとも、お金出して、「ブック・ガイド」とか「読書特集」なんて買わないよね。 久美子  うーん、やっぱり買わない。送ってもらえば読むけどね。あれは、誰がどういう本を選んでいるかってのを読んで、場合によっては嘲笑するものでもあるわけでしょう? 映画のベスト・テンと同じで(笑)。p.62 『文藝別冊 ブック・ガイド’89』(河出書房新社)より。金井久美子・金井美恵子姉妹の対談。ブックオフでこのページをちらっと読み、吹き出してしまった。まさにいま「ブック・ガイド」と名のつく本を手にとった人へ、この仕打ち。「買わないよね」「やっぱり買わない」って。思わず買ってしまう。安いし。200円。 88年に出版されたブック・ガイド。中身は多岐にわたって充実している。ただ、副題がすこし恥ずかしい。「美的現代へのライフ・マニュアル」。び、びてきげんだい!なにそれ。    音楽、幸福の陶酔、神話、時間の刻まれた顔、ある黄昏とある街。ボルヘスは、これらいまだ生みだされない啓示の緊迫性を「美的現実」という言葉で表現しています。私たちにとって現実とは、出会うことのできないものの比喩であるならば、美的現実とは、思い描かれるたびに出会いの不在を垣間見る、黄昏の時間ではないでしょうか。 「はじめに」。ボルヘスの「美的現実」からきているそうな。 ともあれ。わたしはブック・ガイドのたぐいがけっこう好き。他人の本棚を覗く感覚にちかい。もっと一般化すると、他人のスマホのホーム画面を覗く感覚にもちかい。へえ~こんなアプリがあるんだ~みたいな。同様に、へえ~こんな本があるんだ~と。そしてどちらも、持ち主のプライバシーに触れる。 覗き趣味みたいな側面が強く、タチが悪い。しかしSNSを長く使っていると、積極的に見せたい人も多いのだとわかる。このへんの心理的な機微は人によって差がある。わたしは本棚もスマホの画面も親しい人にしか見せない。 「親しみ」がキーワードかもしれない。ブック・ガイドには、それぞれの選ぶ「親しみ」が記されている。個人個人の体系がおもしろい。「こんなふうに並べるんだ~」という参考にもなる。これもスマホのホーム画面とおなじ。 パラパラと読んだなかでひとつ、ぐっとくる「親しみ」のかたちが