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4月, 2018の投稿を表示しています

日記531

この写真は名古屋の小学校の壁です。4月24日に撮影。日記を更新していないあいだ、ちょっと旅行しておりました。わたしが2年生まで通っていた小学校です。名古屋から福岡へ転居して、いまは東京。行ってもおぼえていないかなーと思ったけれど、校庭の遊具なんか、変わっていなくて、なつかしすぎて自然と笑みがこぼれるほどでした。あそこぶらさがったなーみたいな。その中でふつうに、体育の授業が行われていた。 名古屋の地下鉄の匂いも、電車が出発するときに鳴る独特の音も、すごくなつかしい。うまく言えませんが、うわーってなる。20年以上も触れ得なかった記憶の領域が、どこにしまわれていたのか、ふっとあおられて静かに浮かぶ。そんな感覚。まだあるんだ。もう戻れないと思っていたけれど、戻れるんだ。なくなっていないんだ。場所も、記憶も。すごい。じぶんのどこにこんな記憶がしまってあるんだろう。脳味噌のふしぎ。人体のふしぎ。 姉に小学校の門の写真を送ったら、「ぜんぜんおぼえてない、や」という返信がきて、いっつもそう、わたしだけがぜんぶおぼえていて、おいてけぼりなんだと、また思った。みんな通りすぎて、忘れる。わたしだけが、異様なまでに細かいことをおぼえている。記憶とふたりぼっちで。取り残される。 それだけ過去から成長していないんだろうな。じぶんも忘れっぽいところは多々あるけれど。わたしもたぶん、なにかをおいてけぼりにしている側でもある。忘れたものは、わからない。なんたって忘れてしまうのだから。確かにあったが、もうじぶんの中には存在しない消えた過去も、数多あるのだろう。 甥がこの4月、小学校に入学したので、姉におめでとうを伝えた。 「成長は喪失をはらむね」と、そんなことばも添えて。 この写真はむかし遊んでいた名古屋の公園。背伸びして飲んでいた水。大きなナメクジがよく這っていて、素手でつかんで遊んでいたっけ。いまの目線だとこんなに低い。すべてがちいさく見える。住んでいた場所から、小学校への距離も遠く遠く感じていたけれど、いま歩いてみると、とても短い。 ここでいつも口をつけて水を飲んでいたら、知らないお兄さんに怒られた。でも口をつけないとわたしは飲めなくて、背も低かったし、不器用でそれ以外のやり方がわからずに、ここで水を飲むことはやめてしまった。記憶の細部がよみがえる。 い

日記530

4月21日(土) この写真は東京、表参道。パッカリ飛び出ている配電盤のようなもの。表参道らしさはゼロ。街の個性ってなんだろう。これ見よがしな「らしい」場所はあるけれど……しゃらくせえと思ってしまいます。「ほらこれが表参道だよ!見ろや!ほれほれ!」みたいな。うるさい。そんなヨガシをされるとむしろ疑問符をつけたくなる。ひねくれている……。 そびえ立つ真新しいビル群など、白々しい空間演出にしか見えない。街はまずもって路地が重要だ。ビルは副次的なもの。まず足をつけるところ、1階にあたる路地の魅力こそが、その街の魅力ではないか。その上にビルがある。なんて思います。 表参道を歩くうら若きひとびとは、いい匂いがします。男女問わず、すれ違いざまにふわっと、いい感じの空気が香る……。どいつもこいつもいい匂いさせやがって!くそが!恋しちゃうじゃないか!みんなに桃色の片想いだよ!だめだ!よ、寄るな!やめろ、やめてくれ!ああいい匂い!ああ!胸がキュルルンとしちゃうじゃない!来ないで!この甘く危険な香り!ひっつかないで!この国じゃ無理、一夫多妻制!キエーッ!ハアハア……。 斯様にして表参道のいい匂いを浴びると正気ではいられなくなるため、5分にいちど世界一くさい食べ物と言われるシュールストレミングを嗅いで理性を保たねばならない。スウェーデンのニシンの缶詰を片手に自己防衛をしなければ。表参道はそういう場所です。おしゃれな磁場に染まらないよう、シュールストレミングを用意しましょう。 いや、でも、なんか名前がおしゃれだな、シュールストレミングも。意外とおしゃれな香りなのではないか。嗅いだことがないから判断がつかない。おしゃれな悪臭がしそう。どんなだ。スウェディッシュ・バッド・スメル。こう片仮名にすると俄然おしゃれだが、悪臭にはちがいない。 かくいうわたしはNIVEA MENを顔や首にぬりたくっておりました。ニベアだメーン。ちゃっかりスキンケアをしている。ひげを剃るとヒリヒリするのです。お前もそっち側か!いや、ちがうんだ!表参道に対抗するには、ほんらいはシュールストレミングを顔面にぬりこめるくらいの武装をしないといけない。NIVEAではどうにもならない。そのことを忘れて、油断していたのです。無防備だった。襲いくるいい匂いどものおかげで、あたまがおかしくなりそうでした。

日記529

今週はあまり書く時間がとれないため、更新がとどこおります。 わたしがたいせつに思うものは、すべて等しくたいせつですが、どうしたって優先順位は必要になってきちゃいますね。からだはひとつしかない。まずは、いま目の前にいるひととの時間が第一だと思っています。物理的に目で見えるだけの、狭い範囲。だから、人前でメールやLINEを打つことはなるべくしない。SNSも見ない。他人といっしょのときは極力、スマホはいじらない主義です。地図を見るくらい。ぐるぐる迷っちゃうから。 そんなわけで、2日か3日くらい更新しませんが、どっかで生きていますから!前に更新が途絶えたときには骨折していたせいか、あるいは「消えたい」とか「無になりたい」とかよく言っているせいか、見てくださる方にご心配をおかけしがちですね。 いなくなっても「あのひとならどこかでなんとかやってるさー」と軽く思ってもらえるようなおとなになりたいと思うよ。たとえ死んだって「あいつならどっかでのんきにヘラヘラしてんじゃないの?」と思ってもらえるような人物になれれば理想です。 姿が見えないだけなのです。いる。死んだ人間も、「ここにはいない」というだけなんです。ほんとうに「どこにもいない」のかは、わからない。目で確認できる「いまここ」以外は、わたしにはわからないから、判断しないよ。みずからの五感へ直接、伝わっていないことについては、軽々に判断できないと思う。直接べたべた触れていたって、わからないこともたくさんある。なにも知らない。しかし、わからないのなら存在しないのではない。わからないけれど、確かに在る。見えないけれど、あのひとはいる。 どこかに。だれもが、きっと。

日記528

家で過ごしているときと、外へ出たときのじぶんの意識レベルのちがいが気になります。その差を第三の意識で意識する。みずからの行動や周囲のものごとに注意を向けるための意識の感覚が変化するのです。だれでもそうかな。 わたしの場合、家での行動はほとんど無意識にちかい。家だと意識がうしなわれます。だから、ものをどこに置いたのかわからなくなったり、無意識に変なオリジナルソングを歌っていたり、気づいたらぴょんぴょん跳ねていたり、そういう事象が発生します。 とくに無意識が顕著になるのは、お風呂場です。なにひとつ意識していない。我に返ったとき、「あれ?もうあたま洗ったっけ?」とわからなくなる。機械のように自動的に動いています。じぶんがなにをしているのか、じぶんの目による監視が完全に外れる。睡眠時と変わらないくらいのリラックス状態。 こういった意識レベルのメリハリがあるのは、たぶん良いことで、「動くときは動く/休むときは休む」という切り替えが鮮明だと、日々を気持ちよく終えて気持ちよく始められるのです。しかし、これは状況によって変わります。仕事やその他の人間関係など、外で追い回されている問題を家に宿題として持ち込まなければならないときは、家でも殺気立って緊張してしまいます。不健康だと思う。なので、なるべく外で正当だとされる論理を家に持ち帰りたくはないのです。 このブログを書いているとき、わたしは家の論理で語っています。最低限の緊張感は保ちつつ。家にいるときにしか書けないから。それがわかりやすく物語っている……。外だと余裕が消えちゃう部分もあって。細かなメモはとるけれど、それを形にするあたまがまわらない。家でもまわりに人間がいると、そっちへ気を向けるから、書けるのは絶対的にひとりでいるときなのです。ほぼまいにち1000字以上も多弁につづっていて、さぞおしゃべりな野郎かと思われそうですが、まったくそんなことはない。ひとりの時間がとれなくなると、このブログの更新は終わると思う。 外での緊張を家にもちこむことはよくあるけれど、家での弛緩した顔を外にもちこむことはできません。もうすこし外でも、家の中でそばに人間がいても、リラックスできればよいと思うのですが、肩に力が入って、こわばっちゃう。人間は例外なくぜんいん敵だと思っているから。いや、それは冗談です(身近な友人も見てくだ

日記527

数日前、TBSでやっていた「マツコの知らない世界」というテレビ番組に松任谷由実さんが出演して、うろおぼえですが「道を歩くときも、わたしはどかない」みたいなお話をマツコ・デラックスさんとされていました。 ぼーっと道を歩いていたら、こっちがどかないといけなくなるじゃない?みたいな。向かいから来る相手を全員どかすくらいの気を張って歩く。モーゼ的なやつ。マツコも「あたしはどかない!!と思って歩いたら相手がどくのよ」という感じのことを話していて、マツコもユーミンもすごいなーと思いました。いや、マツコ・デラックスが向かいから歩いてきたら、多くのひとは、どく確率が高い。日本の歩道、たいてい狭いし。マツコをどかすのは物理的に困難だろう。 しかしマツコではなくても、わたしはどきます。だれでも。すべてをかわして歩く。30mくらい先から来るひとの最短歩行ルートもいち早く読んで、気づかれないうちにわたしがずれておく。あなたはまんまと最短で歩き、わたしのことなど視界に入れもせずストレスフリーで道を行くだろう。ふふふ。これはこれで優越的な気分。 たぶん、わたしは通常のひとより挙動不審にきょろきょろ歩いていると思う。その理由としては、いろいろありますが、ひとつはなにが来ても身をかわすためなのです。忍者の末裔だから。どこから弾が飛んでくるかわからない。来るものをひたすらに回避しながら、こちらも見えない銃を撃ちまくる。見えない自由が欲しくて。ともかく、相手をどかすのではなく、じぶんがかわす。ユーミンとは逆の、回避のベクトルに気を張っています。向き合うのもいやだ。エンカウントしたくない。 おそらく道で向かいから来る相手に対して、ひとがとる態度は大きく3つあってそれは、相手をどかす、じぶんがどく、ぼーっと進む、という大雑把にこの3つくらい。ぼーっと歩いていたら、どくもどかすもないんです。ぶつかります。ぼーっと歩くひとは、どかすひとの気迫と、かわすひとの察知のおかげでぶつからずにいられるのです。 ぼーっと同士が向かい合うと、見事にぶつかってしまいます。そしてぼーっとしているため、すぐさま恋に落ちます。ぶつかってハッと我に返ったとき、最初に目に入った生き物に恋をしてしまう。まるでカルガモのヒナのように。親だと思ってついていっちゃうパターンもあります。わたしもたまに、ぼーっと歩い

日記526

穴はすべて覗きたくなる。穴の向こう側を知りたい。行き止まりでも、筒抜けでも。穴を通すだけで風景は変わります。狭い点になる。視野を限るのもおもしろい。いつも使っている広範囲の視力をうしなってみる。自然に得ているものを手放してみる。すこし世界のようすが変わる。視野だけではなく、たとえば衣服を身につけずに外出してみれば、きっと感じる世界がガラッと変わりますね。それだけで。同じ場所にいても、まるでちがう環境になる。やったことないし、やる予定もないし、やれば通報されたり逮捕されたりしますが……。 そこまでせずとも、家でお風呂に入る直前すでに全裸になってから、なんとなくトイレに行きたくなって、そのまま素っ裸で用を足そうと便座に腰掛けるときの「なんか足りなくて落ち着かない!!」という感覚、これだけでもすごく新鮮。ふだん衣服を身に着けて生活しているひとならわかると思います。ズボンを下ろす動作をしないと「よ~しパパ、いまから排泄するぞ~」という気分が盛り上がらないのです。ふわふわと心の置きどころが定まらない感じ。いつもの排泄のはずが、あれ?これでいいんだっけ……と不安になる。 排泄に至るまでの過程も、ひとつひとつ分解してみて、あらかじめいつもやっていることをちょっと取り除いたり、横道に逸れてみたりすると、あたらしい感覚というか、新鮮な違和感が得られるのです。日常生活のあらゆる場面でこういったズラしを実践してみると、退屈なことなんかなにひとつなくなるんじゃないか。飽きない。たぶん。 もちろん、そうやって脱臼させた日常は、たいていふたたび元に戻します。だけど、たまにはベースとなる日常に戻れなくなることもあるかもしれない。トイレには素っ裸で入るのがいちばん心地よいと思う自己と遭遇してしまったら。未知の自己との遭遇。いつまでも幼少期に受けたトイレトレーニングに従順でいることもないのです。もうこどもではない。なんでも考えられる。考えていい。行動は自制しても、思考は自制しない。実行についても、じぶんでじぶんを審判する。 そのためには、しっかりとした基準となる日常を構築することが、まずはたいせつかな。常識を意識する。世間的に「常識」や「ふつう」が語られる文脈はほとんど、その標準を他人に押し付けているように読めるけれど、わたしはその準拠点からのズレを楽しみたいときに意識します。

日記525

近所のささやかな森みたいな公園をたまーに散歩します。森ボーイです。昼間でも暗くて、じめじめしている。きょうは夕方、半袖で外へ出たら肌寒かった。家を出た瞬間、半袖は早まったなと思うが引き返さない。引き返したら、ふたたび外出を決意するまでに5時間くらいかかる。 カメラを片手に歩く。薄暗い公園。白人の親子がハイテンションで遊んでいて、ほかはだれもいない。ちいさな女の子と、お父さんかな。ヒゲをたくわえた白人男性。ふたりのわーきゃー騒ぐ声がおもしろい。わたしが横切ると、お父さんらしき男性はすこし恥ずかしそうに声のトーンを落としていた。女の子はふしぎそうに目を丸くして、それを見つめる。すみません、いんですよ気にしないで。ほら遊んで遊んで!と、あたまの中で思いながら、黙って通り過ぎる。 4月16日(月)。3月にすべりこみで締切ギリギリに応募した「チャーハン大賞」という企画の結果が出ました。わたしはかなり好き勝手に、いい湯加減であたまが沸いているなーと思われる内容を書き飛ばしたため、じぶんがどうこうなる期待はそんなになく、その通り、順当な結果でよかったです。じぶんがおもしろいと思えることをできれば、それ以上はいい。でもこういうものに参加すると、宝くじを買ったときみたいに、すこしだけわくわくしてしまいます。当たらないのにね。皮算用。 なんでも期待値は低めで絶望しておくことがモットーなのだけど、それでも味の素冷凍食品のホームページをたどりながら、わくわくしているじぶんは否めなかった。わたしの名がそこにないことを確認し、ひと息つく。なんだかんだいって、希望にまみれている。すこしだけ、不潔な気がする。かといって期待しないことが清潔でもないけれど。生きている以上、汚れているのは仕方がない。 理想は、「ぜんぶどうでもええやん」と思って生きていたいな。賞レースに参加しようがしまいが。30万円もらおうが、もらえなかろうが。なにが起こっても。ひとが死のうが。家が燃えようが。近々わたしが死ぬことになろうが。落ち込むこともなければ、喜ぶこともない。超然と腰を据えて、無でいたい。それが理想だけど、そんなやつがいたら完全にサイコパスです。狂っている。むりです。ちゃんとうろたえよう。おどおど。おずおず。チャーハン大賞は、結果発表の2日前まで応募したこと自体、忘れていたけど。ははは。

日記524

立派なたけのこをもらったので、あく抜き。 ぬかと鷹の爪につけて1時間半くらい煮る。弱火にかけながら本を読んでいたら、うとうとしてしまって、危ない。マルレーン・ハウスホーファー集。文学ムック『たべるのがおそい Vol.4』に入っている。さいきんVol.5がでたのかな、まだかな。「完成したよ」という報告だけSNSで見ました。もうすぐでるのかな。書肆侃侃房から。好きなムックです。 これほど恥じ入り、これほど幸せだったことは、これまでになかった。 マルレーン・ハウスホーファーの短編「さくらんぼ」から一行。こどもの頃にじぶんも感じたことがあるような予期不安の思い込みを、こどもらしくも切実なことばで繰り返しながら、繰り返しながら、ひらりとそれが軽くなった場面。重い不安が裏返り、少女は幸福にみずからを省みる。それは人生に一回限りの、福音だった。まるで知らない作家でしたが、好きだなーいいなーと思いながら寝ていた。 Vol.1から買っていて個人的に信頼感のあるムックなので、知らない作家の名前が並んでいても、むしろ知らない作家の文章をたのしみに読みたいくらいの感覚で手に取ります。種々雑多なのは、ムックや雑誌のいいところ。もちろん知っている作家さんのものも、たのしみに読む。 わたしは、なかなか他人の語りに入り込めないタイプなので、どんなに評判のよい小説も読み始めは退屈で「はやくみんな大型トラックに轢かれて、ドガーンってならないかなー」と漫☆画太郎先生の描くようなむちゃくちゃなオチを期待してしまうのだけど、ちょっと我慢すれば「ドガーン」と同じくらいの面白味と出会えるので、我慢しています。読書は我慢です。好きではない。我慢して読んでいます。 しかしやっぱりさいごには、大型トラックに登場人物がぜんいん轢かれて「ドガーン」とか「ちゅどーん」とか、そういうオチを期待してしまうわたしがいます。それは否めません。あるいは「くそしてねろ!!!!!」でもいい。さいごに添えてくれると、どんなにつまらない文章でも漫画でも、すべてがどうでもよくなる。オールオッケーになる。画太郎先生による偉大な発明です。これはありとあらゆる作家を救済する発明なのです。言うなれば画太郎先生はメシアです。漫☆画太郎こそが漫画の神様なのです。わたしが我慢せずに安心して読める書物は、漫☆画太郎の

日記523

ずっと思うのだけど、なにかをひとつ選択したら、それ以外のものを否定したことにされるのは心外。そんなに輪郭のはっきりした人間ではない。しょうがないけどね。逆もまた。スーパーめんどくさいひとです。 人間は同時に否定も肯定もあれこれ表現できないし、「ある/ない」をまったく同時に認識することもできない。それを同時に言う術がないから。「ある/ない」とことばを分けなきゃいけない時点でもうわたしの感じていることとはちがうものにされる。表現力でカバーできる問題でもないと思う。だから言っても仕方のないこと。時間の構造とか、ことばの構造とかに人間の思考は規定されているから。抵抗しても無駄。 すべてのものごとには、「そうであるところ/ないところ」の両面、ほかにも捕捉できていない「それ以外」や「わからない」や「どっちでもいい」などが入り混じっているけど、んなこといちいちぜんぶ言ってるヒマはないし、聞いているヒマも考えているヒマもない。時間の都合上。あたりまえですが、あたりまえ過ぎてだれも見直さないようなところを洗い直したい。 たとえば、「あ」と「め」を同時に言おうとしてもできない。「あ」と発語したら、それは「め」ではない。のだけど、わたしは「め」を否定しているつもりもない。しかし、わたしの「あ」を聞いたひとは、こいつが言いたいのは他ならぬ「あ」なのだ!と思うだろう。わたしは「あ」と言ったが、べつに「め」でもいい。たまたま直感で「あ」を先に発音しちゃったから、それが「あ」になったまでであって、「あ」がわたしではない。「め」も言いたいし、「さ」とか「に」とかでもかまわない。だけど「あ」と先に言った以上、「こいつはまず『め』ではなく『あ』の人間だ!」とされてしまう。たしかにそう言ったし、その通りなんだけど、そうではなくてもいいのに……みたいな、そんな不本意なもやもやした気持ちがいつまでも残される。 つまり、わたしとしては、なんでもよいのだ。日常会話で「なんでもいいよ」とわたしはよく言ってしまうが、それはこのレベルからなんでもいい、という意味なのです。あなたが思うよりずっと過激に「なんでもいい」のです。でも、この世に存在している時点で、そんな「なんでもいい」は通用しなくなる。ほんとうは「なんでもいい」すらどうでもいい。なにも言いたくない。わたしの存在など無きものにしてかまわな

日記522

電車内で座るときはなるべくまわりを見渡して、すきあらば譲るようにしています。親切は体にいいから。近年では科学的に根拠付けられていることらしい。『「親切」は驚くほど体にいい!』という本もあります。デイビッド・ハミルトンというひとが著した。驚くほど、らしいです。当事者だけではなく、他人の親切を見ていた第三者も気分がよくなるらしい。すごい。というわけでわたしは席を譲ります。 しかし先日、電車で座っているとき、一見とくに変わったところはない若い女性がわたしの前に立っていて、ようすをちらっと見たのですが、うーんべつに譲る必要はなさそうかなーと思い、そのままでいたところ、わたしのとなりに座っていた年配の女性が「妊婦さんですか?」と立っている若い女性に話しかけて席を譲っており、おどろきました。まじかよ。妊婦さんだったのです。 その鋭さ。おなかはまったく出ていなかったし、服装はすこしゆったりめだったけど、おそらく手がかりは服装くらいで、あとは妊婦らしく見える部分はなかったと思う……。わたしのようなボンクラ男には及びもつかない、女性としての人生経験でやしなわれた観察眼が働いたのでしょう。恐れ入ります。と同時にすばらしくも感じ、どんどんわたしも健康になっていく気がしたよ。親切の威力。むだに健康にされてしまう。そこまで健康じゃなくてもいいのに。個人的には、ちょっぴり不健康くらいがちょうどいいのに。期せずしてめっちゃ健康になってしまいました。 そのあと、わたしも子連れのお母さんに席を譲って、さらに健康になりました。健康が過ぎて死ぬんじゃないかというくらい。酸素がおいしすぎて過呼吸になりそうだった。子連れはわかりやすいからいい。譲るなら早いもの勝ちです。ちいさなかわいらしい赤ちゃんを抱いていて、見た感じ3ミリくらいのサイズだったから、油断すると見落とすところでしたが、初期の妊婦さんよりはわかりやすい。ベイビーが外に出ているからね。力士の千代丸みたいな赤ちゃんでした。ドリフのメンバーで例えるならいかりや長介あたり。クレイジーキャッツでいうと谷啓かな。たけし軍団だと、ダンカンさん。ダチョウ倶楽部でいうと、上島竜兵。とみせかけて肥後さん。みたいな赤ちゃん。 「体にいい」と言っても、電車で席を譲るのは、趣味とその場のノリですから、わたしも頑なに座っているときだってあるし、場合に

日記521

方向音痴のわたしは、歩きながら方向が変わっていることに気がつきません。90度カクッと方向転換すればさすがにわかりますが、ゆるやかなカーブなんかだと、ずっとまっすぐ歩いているつもりなのに、いつの間にかぜんぜんちがう方向だこれ、みたいなことになります。空間の捉え方が直線的というか。曲線を解する軸がひとつ抜けている感じがします。3次元じゃなくて、認識が2次元なのかな。2次元にも曲線はあるか。とにかく曲面全般が体感としてわからない。まっすぐな平面の上で生きている。 地球が丸いなんて信じられない。どう見ても平らです。こんなに平らなのに。みんなうそつきだ。よってたかってわたしを騙している。世界中のひとが手を組んだ壮大なドッキリにちがいありません。義務教育の時点からドッキリを仕掛けられていたのです。もうバレています。そんな無理してうそつかんでもいいんよ。いまさらプラカード持ってネタバラシに来ても遅いから。お見通しだから。「地球は丸い」なんて、バレバレのこども騙しにひっかかるわたしではありません。もうおとなだもんで!地球は平らです。 怒らないから、そろそろほんとうのことを教えてくれても、いいんですよ。うそつくの、疲れるでしょ。それがたのしいのなら、いいよ。わたしを騙してひとがよろこぶのなら、いくらでも騙してください。わたしもよろこんで騙されたフリをするよ。そうやってフリをつづけていると、フリのつもりが、やがて信じ込んでしまうのでしょうね。騙していたつもりのひとも、騙されていたつもりのひとも、いつしかみんな信じちゃって、それがほんとうの世界になる。 ひとの認識なんてそんなものだと思います。でもわたしは騙されない。地球は平らです。王様は裸。そして流れる風景はすべてカキワリ。精巧なカキワリ。山も、川も、道路も、街も、空も、太陽も、星も、夜も、朝も、季節も、風も。だれかが一生懸命つくってくれたカキワリであることを知っています。わたしを騙すためだけに。 この世界は、わたしが生まれる前に、「こいつの人生をそっくり騙してやろう」とみんなで画策して懸命につくってくださったものだし、壊しちゃうといけないから、近寄って触れることはなるべくしない。そうっと生きる。こんなに準備して、こんなにすべてを騙してくれて、すごい。みんな、すごい。すっかりわたしは騙されながら生まれて、騙されなが

日記520

撮った場所は恵比寿。 置き放されたサイゼリヤのワイン。 この写真は、あとから見たらピントがぼやっとしちゃっていて失敗でした。撮ってからすぐ確認しないようにしています。あんまり構えずなるべく一瞬でパッと撮りたい。「こんなんいつ撮ったの?」くらいの感じで。じぶんでも忘れるほどの早業が理想です。写真を撮ることが好きかもだけど、「このひとといると撮られる!」みたく思われるとちょっと。撮らないよ。撮りたいけど。撮影するときは透明人間になりたい。カメラを肩にかけていると、体感としてよくわかるけど、なんか特権性が生まれるんです。それによる加害性も意識する。ものすごく立場が非対称になる。 まなざすことは、暴力をふくむ。わたしはひとの視線がすこしこわい。友人でも、親類でも、どんなひとでも、すこし。目を合わせるのが苦手。ましてや、まなざしたものを固定化して切り取ることなんて、とても乱暴。ほんとうだったら絶えず流れてゆき、浮いたり、沈んだりして変わりゆく、忘却と隣り合わせの一場一場。それを写真として残すこと。笑顔や愛情にあふれたやさしい写真も、戦時中の写真や露骨に性的な写真も、ひとえに、すべて記録者の欲望でしかない。 写真家、荒木経惟さんのモデルをされていた方による、告白文を読みました。 その知識、本当に正しいですか? | KaoRi. | note 読んだあと、すぐになにか言いたくなって、ちゃんとしたタイトルをつけてから数行だけ書き出したのですが、タイトルが先に決まっている文章はわたしにとってよくありません。「言いたいこと」が先立ってしまっているから。一定の価値観に沿った主張が先走ってしまう。言いたいことをそのまま言う。そういうものは書いていて気持ちがいいけれど、読んでもつまらない。「はいはい、わかったわかった」と打ち切りたくなる。すぐに浮かぶ考えは、既存の価値にまみれている。そうしたことばはわかりやすいが、「わかる」ってじぶんにとってはリーダビリティが低い。「これはいったいなんなんだ……」みたいなものに好感をもつから、わたしもなるべくまっさらな丸腰でわからんことをやりたいと思う。どんな価値にも頼りたくない。「じぶんの価値判断」なんてものもない。透明になりたい。 なもんで読んでから時間を置いて寝かせました。でも日を追うごとに脱力感が増すだけでした。う

日記519

あらゆる場所に花束が……。 薄手の春っぽい、紺色のガウンをすこし前に買ったので、いい加減そろそろいけるのではないかとGUで買った大きめの白いフード付き半袖パーカーの上に合わせてみたのですが、なんかすごい魔法使いみたいになりました。 こんな格好でダウンタウンへ繰り出した日には、知らないひとから「あの、ハリー・ポッターに出演されてませんでしたか?」と聞かれてしまう。そしてわたしは恥ずかしさのあまりつい「エクスペクト・パトローナァム!!」と魔法の呪文を叫び、守護霊を呼び寄せてしまうだろう。どうかわたしを守ってください。 あるいは、ハリー・ポッターの世界観を信じ切っているひとに付きまとわれ「あなた、ホグワーツ魔法魔術学校の生徒さんですよね?」と決めつけ口調でかんちがいされてしまうかもしれない。「そうだとしたら、寮はスリザリンですよね?」と、寮まで当てられてしまう。そう、わたしは狡猾な者が集う寮、スリザリンに不本意ながらも組分けされてしまったのだ。スリザリンはいやだ。意地悪なマルフォイといっしょはいやだ。なんでだ。そんなに狡猾な人間ではないはずだ。ハッフルパフがよかったのに。心優しく勤勉でまっすぐな者が集う寮。まさにわたしのためにあるような寮である。わたしのいったいどこにスリザリンの資質があるのだ。マルフォイといっしょにするな。明光義塾に入ったほうがマシだ。代々木ゼミナールでもいい。東大を目指すんだ。東進ハイスクールで、あの黒々としたヒゲがセクシーなグラサン数学講師から教わりたい。数式はことばです。計算じゃない。でも、いまさら受験はしんどいな……。もういっそ、私立恵比寿中学に入りたい。アイドルになる、あたし。永遠の14歳。じゃなけりゃ、3年奇面組でもいいよ。それか区立友引高校で、宇宙からきた押しかけ女房に追いかけられたい。追いかけられたいんだっちゃ!うちはダーリンの妻だっちゃ!あれ、気づいたらわたしが追いかけている。でもいいんだっちゃ!ダーリン、大好きだっちゃ!と、そんな高校生活を過ごしたのち、卒業後は東京大学か、南河内大学に入りたい。南河内大学に入学できた場合、とうぜん応援団の親衛隊隊長になるのだろう。わたし、本名が青田赤道なんですよ。ほんで口癖は、役者やのう~。もう応援団に入るしかないわ……。困ったらとりあえず「ワシが親衛隊隊長、青田赤道である!!」と現

日記518

謎のピンク汁が落ちていました。 略してピン汁。「ぴんじゅう」と読みます。 なんか思い返すと、幼少期からこういう道端に落ちているものをいちいち親に報告したり、拾ったりしていたような……。お母さーん、なんかへんなピンク汁が落ちてるよ! だからなんだっていう。だから?えっと、おもしろいよね。ピン汁が道に落ちてるなんて、すごくおもしろい。なにがおもしろいの?ピン汁が。だってこんなにピンク。桜と色味は同じじゃん。みんな桜は写真に撮るくせに、なんでピン汁は撮らないんだ。ピン汁のほうが、よほどめずらしくておもしろいよ。もったいないことをしている。これを撮らないのは、多大な損失ですよ。いまを生きていない。桜なんか、まいとし見放題なのに。ピン汁は、あしたになれば、もう二度と見れないかもしれない。 こんな屁理屈ならえんえん書けてしまう。理屈はわからない。わたしはずっと少年のまま、変わっていないのかな。変わっていないどころか、こじらせて写真に収めるまでになってしまった。さらにはブログから世界へ発信するという暴挙。だってお母さん、ハナから相手にしてくれないもの。こうして不特定多数へ発信しつづければ、ひとりくらいは相手にしてくれるだろう。このピン汁の貴重さに気がつくだろう。ひとりくらいは。 インターネットがなければ、誰にもわたしのあふれ出すピン汁への想いを伝えられずに死ぬところだった。ネットがあって救われます。いい時代になりました。 炎上とか誹謗中傷とか威力業務妨害とか情報漏洩とか、どうしたってニュースではネットの悪いところが多く取り沙汰されてしまうけれど、ひとの命を救っていることのほうが圧倒的に多いと思う。すくなくともわたしは、ネット上にある知らない名もなき人々のことばで、ずいぶん救われたよ。発信することも。ささやかな救い。しかしそんなぼんやりした「救い」はニュースになる価値がない。なくていい。ないほうがいい。 わたしにとってのインターネットは、よく知らないひとの、どうでもいい話をたくさん聞ける場所。それが好きで、そこに価値を見ている。いまのところ。知り合いの内輪でのみつながっていても、つまらない。 「どうでもいい」とわたしが思っても、当の発信者にとってはとても価値を置いている話であったりするのも、おもしろい。そのどうでもよくない切実さを共有できるときも

日記517

黒澤明の『天国と地獄』が路上に落ちている。箱だけ。ここは日本だなーという感じがします。どんな観光地よりもこの光景。たぶん黒澤明の作品がふつうにゴミみたいに落ちているのは、世界でも日本くらいだろう。これぞ日本のストリートである。 フランスだったら、ゴダールの作品なんかがポイ捨てされているのだろうか。イタリアだったらフェリーニとか。アメリカだったら……スピルバーグ?ちとあたらしいかな。じゃあ『市民ケーン』とか落ちてそう。ロシアだったら、おそらくこれしかないな。『戦艦ポチョムキン』。自販機の下に一定の確率で『戦艦ポチョムキン』が捨ててあるだろう。日本ほど自販機はたくさんないか。でもロシアなら、だいたいどこにでも『戦艦ポチョムキン』は落ちているよ。ウォッカの空き瓶か、でなけりゃ『戦艦ポチョムキン』か、くらいのポイ捨て率だと思う。 そういえば何年か前に、チャットで日本が好きなロシア人と会話していたとき、「俺の町ではさいきん、自動販売機が初めて設置されたんだ。すげえ盛り上がってるぜ!」と、そんなようなことを言っていたなー。こころが和む話。 わたしはロシア語も英語もままならないため、カタコトの日本語でつきあってくれた。じつを言うと、日本語もままならないのに。しかし日本語のままならなさは、がんばれば隠せる。バレないように、ものすごくがんばりました。いまここでもがんばっている。 ほんとうは日本人じゃないって、油断するとバレてしまう。じゃあ、なにじんなの。うーん。国どころか、星からしてちがうと思う。たぶん。ニコちゃん星人かな。だって顔から足が生えてる。あたまにお尻がついてるし。そのお尻から触覚のような鼻も。 でもがんばっているからバレていない。わたしはいつもがんばって日本人みたいにしてる。がんばれば、なんでも隠せる。けど、地球のことはどうしても、チタマと呼んでしまう。危ない。だからチタマの話は避けるか、漢字が読めないふりをします。がんばってる。 こういうサインのような落書きって、あらゆる場所にあふれていますが、なんかの縄張りなのでしょうか。マーキングでしょうか。示威行為。なにか別の社会圏というか、別の生態系が存在しているようです。日本の社会にも、まるでちがう価値意識の族がたくさん入り乱れているのです。それも日本人として。これはよいことです。 4月

日記516

海の生き物感があります。 磯にいそう。駄洒落じゃなくて。磯にいそう。棘皮動物っぽい。ナマコとかヒトデとかの仲間。イソギンチャクっぽさも。じゃあ刺胞動物かな。たぶん刺されると死ぬ。ケルベロス的なおもむきもある。冥界の入り口で待ち構えている。この三つ首が。吸われたらさいご。地獄行きのダクト。 真下からカメラを構えて軽いイナバウアーみたいな反り返ったポーズで撮っていたら、ちいさな女の子を連れたお姉さんが通りがかり、なんとなく蔑むような一瞥を向けられた気がします。いや、わからんけど。「それは撮りたいよね~」という共感の視線だったかもしれない。そうにちがいない。これを撮りたくないひとはいないだろうから。 そうだよね~。 きのう「ひとが写っているものを勝手にweb上にアップしちゃうのは控えたほうがいいかな」と書きましたが、これくらいの距離があればよいかな……。ほんとうは、人間を撮りたい。そう、いつも思う。でもいちいち話しかけて、許可をとって、ということもしていられない。みなさん、お忙しいんだ。それに、なんの目的もないヤツに写真を撮られる筋合いはない。怪しすぎるだろう。わたしだってそんなやつに撮られたくないわ……。こわいわ。目的を言え。理由を言え。最低限の社会的信用がないとね。 個人にカメラを向けるには、短い時間でもそれなりに親しげな関係をつくらないといけないのだと思う。一瞬でもいい。そこに高い高いハードルがある。たんにレンズを向けてシャッターを切ればいいわけではない。「写真に収める」って、あんがい暴力的だったりもするから。角の立たないようにコミュニケイトしないと、わたしはだめだと思う。ひとを撮るすべも、いろいろあるとは思います。でもすくなくとも、わたしが撮りたい写真は、親しみのこもったものなのです。 身近なひとなら、できそうだけれど。 それですら二の足を踏みがち。 イケてる壁。めちゃイケ。そういえば3月で、いろんなテレビ番組、ラジオ番組が終わった。平成の終わりを象徴するような番組改変。なんでも「平成の終わり」と解釈して片付けるのも考えもんだけど、平成はもう終わりなんだなーと区切りを入れる感覚が、この国で平成を生きたひとびとの無意識にじわじわとすりこまれている気がする。いまごろは、終わりの季節。つぶやくことばは、さようなら。 外

日記515

春らしい。   父のカメラですが、借りてもいい許可をいただきました。写真なんかてきとうに感覚で撮ってりゃいちばんと思っていたけれど、ちょっと勉強して、カメラが泣かないように、宝の持ち腐れにならないように、つかいこなせますように、がんばろうと思います。 写真にこだわりなんかないつもりだった。 でも、カメラを手にすると、わくわくしてしまう。 なんでだろ。うれしい。 このカメラは、シンプルに機能が制限されていて、まだちょっとなにができてなにができないのか、きっちりわかっていないけれど、取扱説明書を熟読しておぼえる。ふだん取説なんか読まないタイプですが、直感だけではわからないことは、やはりあります。学んではじめて、知る。基礎をしっかり学ばないと、10年やってもうまくはならないよ、と加藤一二三さんがテレビでこどもに教えていました。将棋の世界の話だけど、なんだっておなじだと思う。無手勝流には限界がある。先を行く人から学ぶこと。取説だって、このカメラをわたしより先に手にした、先人の知恵。 4月1日(日)。近所の神社で、さくら祭り。 もっとお祭りっぽい写真も撮りましたが、ひとが写っているものを勝手にweb上にアップしちゃうのは、控えたほうがいいかな。極力、許可をとってからしたい。あ、許可をとったものもあります。でも恥ずかしがっていたんでinstagramにだけ上げる。スーパーボールを売っていたあのおじさん、おもしろかったな。 ブログ、ここではこれが初回。1年半くらい、JUGEMブログを使っていたけれど、不具合がけっこうあるし、とても使いづらいからここに移動しました。 見てくださる方は、変わらないかな。場所を変えても。なんにも。 タイトルの数字は、書いた記事の数。515日目の日記。なるべくストイックに数字で通そうと思います。タイトルとか、そういうのいいよ。つかれてしまうよ。禁欲主義。というか、そんなに欲がないのです。禁じているわけでもなく。ストイシズムとも無縁か。 なんとなくふら~と立ち寄っていただける場所になりたい。それがいい。大きく振りかぶらない。バント職人になる。わたしもふら~と書いたり、撮ったり。日々のささやかな進塁をする。いてもいなくてもいいのよ。 思うんだけど、「いてもいなくてもいい」は暴言ではない。わたしにとっては、この上な