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4月, 2022の投稿を表示しています

日記899

4月29日(金) ふりかえると、2月23日の 日記886 で痛風のような症状について書いていた。がんばって対策したが、いま思えば痛風ではなかった。ここから、すこしずつ全身に痛みが走るようになる。4月1日には、メニエール病のような症状で耳鼻科へ行った旨を記した( 日記894 )。おそらくメニエールでもない。薬効はプラセボだろう。「エビデンス万歳」などと書いていたけれど、気のせいである可能性が高い。いや、なんらかの効き目があったのかもしれない。身体の機構は複雑でわからない。 先週は姿勢の悪さに原因をもとめて、整形外科に行った。頚椎症か脊柱菅狭窄症かそのあたりを疑っていたが、これもちがった。骨はむしろきれいだった。 整形でもらった薬を飲みはじめて一週間が過ぎる。症状はだんだんマシになってきた。崇め奉る勢いで飲んでいるため、プラセボも大いにあるだろう。効きゃいいんだ。とにかく。痛みがとれればなんでもいい。 そして二日前だったか、かかりつけの精神科医に雑談の延長で症状をつたえたところ、可能性として線維筋痛症が考えられると言われた。レディ・ガガとおなじ病だ。自分とはなんらの共通項もないと思っていたガガとの距離が急に縮まった。 5月の後半にもういちど整形に行くので、そこでも尋ねてみることにする。体はいまのところ回復傾向にある。先週は痛みでほとんど眠れなかった。さらに眠ったら眠ったで起き上がれなくなるひどい状態が3日ほどつづいた。いまは、ふつうに眠れる。7時間ほど。起床時は気怠いものの、先週ほどではない。日中の生活にもあまり支障はない。 一過性の症状だといい。この調子で落ち着いてほしい。そう願っているけれど、いまのところまだわからない。 むかーしむかし、こういうよくわからん症状は「憑き物」だったのかもしれない。いまもお祓いや霊媒師に頼る人はいる。頼りたい気持ちはわかる。もろもろの怪しい民間療法を信じてしまう気持ちも。騙されたっていい。必死なんだ。なんでもいいから、理由がほしい。こじつけだってかまわない。わかりたい。わかればせめてもの気休めになる。なーんだ、霊障のしわざだったのかー。めでたしめでたし。などと、そうかんたんにゃーいかないから困ってしまう。 あらゆることに、理由がある(かのような)世界観で生きている。だからいつも、理由を探してしまう。しかし、理由は探せば探すほどない。問い

日記898

    2ヶ月くらい前から、イス軸法を試している。体調が悪いこともあり、筋トレはしばらくしていない。ゆっくりした方法で体をととのえる、かんたんなやつを探していた。これならいくらでもできる。効果のほどはまだわからないけれど、年単位でつづけようと思う。弱っていても、じーさんになっても、いつでもどこでもできそうなところがいい。 「すぐ効く」といった甘言には惑わされぬよう。自戒を込めて書いておく。長くつづけること。イス軸法も「すぐ」を謳ってはいるが、それは宣伝用の文句だと思う。体とはじっくり付き合わないといけない。プレートテクトニクス理論のように、じわりじわりと深部から胎動していくイメージをもっている。奥深くに焦点を当てて考えたい。 なにごとも、自分の体に合わせて考えながら行う。方法はあれこれ借りながらも、自己流に改良していくことが肝要だろう。おなじ体はないのだから。他方で矛盾するようだけれど、頭ごなしに取り入れることも導入としてはだいじだと思う。まずは言われるがままやってみる。とりあえずの実践。最初は強制的に入る。そこから得られた経験を頼りに、すこしずつ縛りを解除していく。与えられた固い真四角の粘土を、捏ねて捏ねて徐々にかたちにしてゆくように。自分なりに角を取る。呼吸がしやすい型に変える。やらされているうちに、はみ出たくなるんだ。つまり、望みが湧く。そうなれば、その方向に舵を切る。ゆるやかに。これが学びのプロセスではないか。望みを殺すための強制ではなく、望みを得るための強制を自らに課したい。ずいぶん前から、あまりに意欲なく生きている気がする。 とはいえ、手放してもいないのだと感じた。死に臨める態度で生きているわけでもない。体がつらくて、悲愴にも「たすけてほしい」と願ってしまった。必要にとらわれている。もっと自分をいらないものとして、必要なくありたいものだ。そのほうが明るくなれる。悲愴感は「しがみつき」から漂うのだから。   4月22日(金) 耳鳴りがする。冷蔵庫の作動音みたいな。ぶーん。きのうの夜、大雨のなか傘の柄を背中に入れて歩くおじさんを見た。両手に荷物を抱えていた。高さの調節ができないため、虚無僧のような格好になっていた。「傘をさす」というより、「傘をかぶる」といった塩梅。前が見えているのか心配になった。 きょうは晴れ。気温も上がる。寒い日がつづいていたので、ほっと

日記897

なにかを発症したっぽい。なんだかわからん。自己診断は控える。3月24日の日記に、「ベースの慢性的な不調は姿勢の悪さからきているように思う」と書いていた。それもありそうだけれど、姿勢はそこまで悪くないんだ。わかりやすいところに原因を求めたくて誤った。現に整形外科でレントゲンを撮ってもらったが、なんともなかった。「ようすを見ましょう」とのことで神経に作用する薬を2種類もらって飲んでいる。効果が出るまでには時間がかかるという。 数日前、あまりにつらくて「たすけてほしい」と願った。祈りに近い。だれにともなく。ひとりセカチュー状態だった。こんなことは初めてだ。あまり援助を希求せずに生きてきたので……。もうすこし人に頼ることを学んだほうがいい。前にも書いたっけ。症状を詳しく説明して、どのような可能性が考えられるのか、複数の医者に聞いてみたいと思う。安静に過ごしていたら、ちょっと回復した。     くだらない話。でも、真率な話。信じられるものがほしい。どこのだれでもかまわない。うそでもいいから、「大丈夫」と言ってもらいたい。あなたにとってはうそだとしても、わたしはそれを本気にするから。たいせつにするから。バナナあげるから。

日記896

4月14日(木) 桜はあんがいしぶとい。鼻毛と似ている。うちの近所ではもうほとんど散ったが、まだまだ威勢のよい木もちらほらある。花がなくなり緑が茂ってくると、なんだか安心する。開花は異常事態なのだと思う。生きているこの事態が異常であるように。ふつう死んでる。みんな死んでる。いる人より、いない人のほうが圧倒的に多い。おそろしいほど圧倒的に。生者は少数派。     あまり書く気力がないため、とりあえず写真だけ貼っておきたい。 桜が季節外れになる前に。 「これを書こう」と思い浮かぶことは多い。でも、あとまわしにするとやる気がなくなる。思い立ったそのときに書き留めないといけない。行き当たりばったりに撮るスナップとおなじ感覚なのだと思う。二度目はない。 しかし、生活はめぐる。ことばもめぐる。そっくりおなじ二度目はないにせよ、おなじようなことは何度もある。おなじような写真を何枚も撮る。日常は、「おなじような感じ」に支えられている。「いちどきり」と並行しながら、螺旋のようにめぐる時間を生きてもいる。 すこし前に、『どちらであっても 臨床は反対言葉の群生地』(岩波書店)というエッセイを読んでいた。著者は内科医の徳永進さん。タイトルに惹かれて、図書館で借りた。生きたことばは、かならず矛盾を孕むものだと思う。なにごともかんたんに「どちらか」で割り切ることはできない。 著者が初心を語る最初の章に、こんな記述がある。    死のまわりにある〈ほんとう〉には引きつけられるものがあった。考えさせられ、興味深くもあり、ちょっと不謹慎に聞こえるかも知れないが、心揺さぶられ、そして面白さを覚えた。 死のまわりにある〈ほんとう〉。ここを読んでわたしは、長田弘のことばを思い出した。これとは真逆かに思えるお話。むろん、どちらが良い悪いではない。どちらも、それぞれの文脈においてその通りだと思う。 ホンモノというかんがえかたは本質的に誇示的であって、それが何かの具合で権力の論理にむすびつくとき、ひとを強いるものになってしまう。ホンモノの論じかたで出てくるのは、きまって「真の」「ねばならない」「そうであるべきで、そうでなければならない」という物言いですが、戦後と呼ばれた時代に年齢をかぞえてきて、わたしがおぼえたことは、ホンモノをではなく、ニセモノを愛することの大切さというか、明るさです。戦争というホンモノの時代

日記895

4月3日(日) 健康的な写真。みんながこぞって撮るやつ。「健康」は、「みんな」とほとんどイコールだと思う。健康な人。いるようで、じつはどこにもいない。「みんな」がまぼろしであるように。生きていれば、傷を負う。心身にゆがみを来たす。時代がまるごと病んでいる可能性さえある。でも健やかでいたいと願う。集団的な祈りの結晶みたいな概念。「ふつう」とも似ているかもしれない。 2022年4月号ユリイカに載っていた中原中也賞の選評で、荒川洋治がちらっと触れていた。「健康」について。荒川洋治らしい評価の仕方で、ウィリアム・サローヤンの『ヒューマン・コメディ』に関する、この人のエッセイを思い出した。たしかラジオ深夜便でも語っていた。YouTubeにあったはず。   2分30秒くらいから始まる。この語りがわたしは好きで、何度も聞いてしまう。善人しか出てこない健康的な作品だからといって、凡庸だとはかぎらない。うまくいけばそれは、祈りの結晶として広く伝わる。荒川さんは、『ヒューマン・コメディ』の世界を「みんなの故郷のよう」と話す。 多くの人がたぶん、「善きもの」を恐れる心象を抱えている。そんなにいい人ばかりいるはずがないと、つい疑ってしまう。「成功回避欲求」という心理学の用語もある。『ヒューマン・コメディ』は「善きもの」を疑わず、恐れず描いた作品だと思う。とはいえ、気持ちがよいだけでもない。物語のなかには戦争の影が色濃く存在する。それが「善きもの」たちのかたちを彫琢している。 わたしはなんだかんだで、あかるいものに惹かれる。暗いのは、あたりまえだから。一般に「悲観的」とされるものでも、勝手にあかるく読み解いているところがある。数日前、「心臓は、もしも考えることができたなら、停止するだろう」というフェルナンド・ペソアbotのツイートを読んで笑っていた。 きょうは終日、雨。明日も雨だという。桜はほとんど散るだろう。前を歩くおじさんの傘に、花びらが付着していた。それを見て、自分の傘にも付着していることに気がついた。この瞬間がハイライト。いつまでも寒い。ことしの春は寒暖差が激しくて、まいってしまう。まだ冬着が手放せない。

日記894

  さわ。    4月1日(金)  なんだかんだここに書いてはいるが、生活を送るうえではどうでもいい。だいたいの時間は「きょうなに食べよう」といった類のことを考えている。ただ靴底の微物みたいに、抽象的で大きな問いがちょっと気になってしまう。あるいは、首のうしろが洋服のタグでちくちくするように。気にならないときはまったく気にならない。だけど、いったん気にし始めると頭がおかしくなる。咀嚼音や耳鳴りにも似た性質があるかもしれない。早い話が自分の病巣なのだろう。神経症の底流にあるもの。 きょう、耳鼻科へ行った。症状はめまいと耳鳴り。メニエール病と診断され、2週間ぶんの薬物をもらう。飲んだらすこしよくなった。薬物は偉大だ。エビデンス万歳。とはいえ根本原因は生活全体のなかにあるため、薬に頼ってばかりもいられない。病は変化の要請だと思う。季節の変化とも同期していそうだけれど、いちばんは生活に心当たりがある。すこしずつでも、変わらないといけないんだろうな。変わりたくねー。めんどくせー。 ところでメニエールの薬、イソソルビドは味がまずいことで有名なのだそう。耳鼻科の先生がおっしゃっていた。「炭酸水で割ると飲みやすいです」とアドバイスされたが、まずはストレートに飲んでみた。最初から決めつけてはいけない。じっさい、そこまでまずくはなかった。がんばって空回りしちゃった感じの味だ。なんとかしようとがんばってる。だから、いちおう飲める。 「がんばってる」をもうすこし解剖すると、失敗気味の料理に味を足してごまかそうとしている感じ。わたしもよくやる。とりあえず塩胡椒を足したり、適当にマヨネーズをかけたり。イソソルビドもそのように、がんばってごまかそうとしてくれている。がんばりには感謝したい。ありがとう。キャッチコピー風に言えば、イソソルビドはごまかしの味。 「ごまかし」は病を考えるうえでも非常に重要で、おそらく誰もがごまかしごまかし体と付き合っている。だましだまし。程度によるけれど、悪いことではない。便意がわかりやすい。ある程度まではごまかせる。めっちゃうんこしたいけど、そんなようすはおくびにも出さずに振る舞える。しかし、臨界点がある。我慢しすぎると、くる。きっとくる。きっとくる。季節は白く。肛門から限りない輝きをあなたに贈るハメになる。 「発症」は基本的に、漏れちゃったんだと理解している。便意の