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11月, 2019の投稿を表示しています

日記712

宇宙のはじまりはたぶんちょっとした嘘で、それが収集のつかないところまで拡大した結果として、現在の世界があるのだろう……。などと夜中にシャワーを浴びながらぼんやり思う。陳腐な由無しごと。いかようでもありうるお話。始原の嘘が拡大しつづける。これから先も。 〈わたし〉とは、何億年もつづく巨大な嘘のうえに浮かべられたちいさな嘘だった。卑小な裸の弁明。生きることで嘘を引き受け、嘘がまた増殖する。いいわけの片棒を担ぎあいながら世界は動く。誰だよ、こんな嘘ついたやつ。お互いさま。それもそうか。 嘘の前には、なんにもなかった。 ほんとうに、なんにも。 深い深い沈黙だけがほんとうだった。 しかしあるときふとした拍子に破れた。ぽろっと。うっかり。破れた沈黙の間隙を、そらごとが一気に掠め取る。すさまじい勢いの虚誕だった。文字通りの天然ボケ。そいつがまさかこんな大事に至ろうとは。この世はそう、億単位の年月でつづく出来心。酷薄さと茶目っ気に満ちたほんの出来心に、浮かされてまわる。 つまり最初から、根源的にボケている。地球が丸くて宙に浮いているなんて、アホか。ぬかせ。嘘こけ。そんな大ボケ振られてもおもしろすぎて困る。それでも地球は動くのだって。「ええかげんにせえ」と似非関西弁でつっこむほかない。現実はボケ散らかしている。 ニヒリズムのようで暗くはない。否定的な気分のかけらもない。想像力はいつもコミカルにはたらく。いずれ死ぬんだって、なかなかのボケではないか。かましてくれる。おもしろい。やってやるよ。いずれね。見とけ。みたいなこと、わりとまじめに思っている。 人間もじつは全員ボケボケなのだけれど、長ずるにあたってボケていないようなふりを身に着けてしまう。そのふりもまた一種のボケであることにたいていの人は気がつかない。多くの人がおなじようにボケているせいで。 というか、ケツが割れているだけでもいいボケ具合だと思う。なにこれ。頭だけやたらに毛が生えるのもおかしい。耳っていうのも変だ。なんかみんな顔の両サイドにいびつな半円がくっついている。わたしにもある。やだかわいい。 はじめに「嘘」と書き出してみたけれど、自分の感じているものをより正確に言語化すると「ボケ」にちかい。すこしつかめてきた。この世界は汲めども尽きぬボケによって構成されている。だ

日記711

11月19日(火) 奥渋谷の本屋さんSPBSへ。中田考さんの『13歳からの世界征服』(百万年書房)と、やけのはらさんの『文化水流探訪記』(青土社)と、おまもりを買う。 立場は問わず、超然とした態度の人に惹かれる。悠遠たる眼光。信仰がそれを可能にするような。すべてに信の篤さをもって対応できる。そんな人のことばは、すなおに聞かざるを得ない。疑う余地のない威力が背後に垣間見える。人間が信を置く対象はさまざまある。なんでもいい。時空をこえて勁くしなる感受性に触れていたいと思う。できるだけ。 SPBSでは今月いっぱい(追記:12/8まで延長になったそう)、お坊さんの選書が並んでいる。そのなかの一冊が『文化水流探訪記』。ふっくらしたおまもりも売っている。筆書きのポップもたのしい。 おもしろヤング坊主(OYB)、藤井兄弟と選ぶ読書の秋フェア。 彼らのインスタがSPBSスタッフのあいだで話題となり、こんかいの企画が立ち上がったそう。わたしもかねてより藤井兄弟のインスタを眺めていた。きっかけはキャサリン・ダン著『異形の愛』(柳下毅一郎訳、河出書房新社)。 96年にペヨトル工房から出た小説が河出書房新社より再刊されたころ。自分があちらのインスタに残したコメントを読み直すと、テンション高めのへんな慇懃さが気持ち悪いと思う。それはたぶん、画面越しで見るだけの相手ではなくなったせいでもあろう(美坊主との関係を匂わす男)。 哀調を湛えた、なんとなくブルージーな選書だった。人柄がにじむ(気がする)ので本を選んでもらうとおもしろい。やれる範囲で可能なかぎり広く世界を描こうとする誠実さを感じた。こういうコーナーを見るとつねづね、わたしにもし「好きなの選んでよ」と依頼がきたらどうしようと妄想してしまう。 いろいろ適当な本は浮かぶ。でも結論はいつも同じ。ぜんぶ漫☆画太郎だ。なぜならば、漫☆画太郎が好きだから。結局は画太郎先生に帰る。心のホームポジション。忘れがたきふるさと。お菓子の家みたいに、画太郎先生の漫画でできた本屋があればいいと思う。わたしの見るかぎり、どう考えてもこの世に流通する本は2種類しかない。漫☆画太郎のやつと、漫☆画太郎じゃないやつだ。 ごく狭く、極私的な誠実さで選ぶとしたら、そうなる。「いろいろ」はバッサリあきらめ、いかんともしがたい狭

日記710

「笑うこと」についてよく考える。 自分にとって笑顔はディフェンシヴなものであり、オフェンシヴなものでもある。受動であり能動。隠蔽と曝露が通じ合う結節点として浮かぶ顔。写真と似ている。関係すると同時に線を引く。彼岸と此岸を截然と分ける。かすかな暴力と親しみをもってシャッターを切る。ひらいて、とじて、ひらいて、とじて。ラジオ体操ではない。網膜のはたらき。感情のうごき。筋肉の収縮。つまり「見る」という営為。それはまず、矛盾からはじまる運動なのだと思う。あいだにたたずむこと。よく笑うひと。よく撮るひと。よく矛盾をするひと。 林家パー子とだいたい同じだ。テレビにうつるパー子はいつも頓狂な笑い声をあげ、写真を撮りまくっている。夫の林家ペーいわく、彼女の過剰な愛嬌は人見知りの反動なのだという。ふだんは異常に寡黙なのだとか。 内向と外向が「笑い」を通じて反転する。あの甲高い声は浮上の合図なのだ。クジラが潮を吹くみたいに。時間をかけて呼吸する生きもの。テレビカメラの前で、あるいはステージの上でだけ吹き散らかす。なにもなければ静かな水底にうち沈んでいる。人前で笑うだけ笑って、呼吸を確かめて、また沈む。その繰り返し。 「人見知りだけど、けっして人間嫌いではない」とパー子本人は語る。そしてむやみにキャーキャー笑い、なんの必然性もなくシャッターを切る。だいたい同じ種類の人間だと思う。わたしもそう。だいたい。あそこまで過剰ではないだけで。 退屈なエドナおばたん 「たん」とする文脈上の必然性がないため、おそらく誤植。それにしてもかわいい誤植。リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる  脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(高橋洋訳、紀伊國屋書店)p.468より。 借りた本。とてもおもしろい。買うなら初刷のうちがよい。そこそこ売れそうな予感がする。増刷ぶんは「退屈なエドナおばたん」が訂正されているかもしれない。ただの「おばさん」に。かわいさポイントが減る。むろん、本の主旨とはまるで関係がない。 しかし「退屈なエドナおばさん」なんて、ほんとうに退屈ではないか。「おばたん」が彼女の唯一の美点ではなかったのか。どうか、エドナから「たん付け」を奪わないでほしい。エドナは「おばたん」だからこそ退屈と謗られようがそれを拠り所に生きてこ

日記709

「カマキリ、カマキリ」と指をさして。遭遇するたび、こどもみたいに。生きているやつから死んでいるやつまで。ハリガネムシの死骸もいた。得意げに「これはカマキリに寄生するハリガネムシだね」と話す。虫で足取りが弾む。小学生の時分と変わらない。でもいい。虫、おもしろいじゃん。 虫はどこにでもいる。自分の部屋にもいる。昆虫全般をおもしろがることができれば、いつでもどこでもおもしろく過ごせる。ディズニーランドをベタに楽しめなくても、ディズニーランドにどんな虫が発生しているかは、すこし気になる。もしも綺麗サッパリ殺虫されてなんにもいないとすれば、それはそれで「夢」の徹底ぶりに感服する。と同時に戦慄をおぼえるかもしれない。 なにが無いのかを見る。それもおもしろい。視覚情報は刺激が強くて、目にうつる存在に気を取られがちだけれど、不在に気がつく術も「見る」という技のうちなのだと思う。そこにないものを想像すること。除かれたもの。いなくなった人。 自室にハエトリグモが2匹いる。放し飼い。群れないからいい。害もない。1匹1匹でそれぞれに這う。飼育せずとも勝手に生きてくれる。気もつかわない。いっしょにいてこれ以上にラクな生きものはいない。ほとんど関係がない。ただ、おなじ空間にいる。いなくてもいい。 挙動を観察するとおもしろい。口元をくるくる動かして小刻みに歩くさまは、かわいいと思える。なにかを探すようなしぐさ。気まぐれにあいさつしてみたり。名前をつけてみたり。さみしさの表現として。ではなく。 「おもしろい」がいつからか口癖になっている。書きことばでくりかえすと、枕草子かよと思う。いまもクモがカーテンを這う。午前1時。夜風が弱く入る。窓は昼間からあけっぱなしだった。照明を落とした部屋にカーテンの隙間から街灯がさす。ぼんやり明るむ。また暗くなる。明るむたび、ちょっとさむい。鼻の奥がつんとする。初冬の空気。ひやりとする皮膚の感覚。指の先がつめたい。末端冷え性。虫の声がひびく。散発的に。 湖のほとりで、ご年配の方々が集合写真を撮っていた。和気あいあいとたのしそうに位置を確認している。しかしカメラを向けられ、「撮ります」となると全員が一気に静まりかえるのだった。息を殺すように。空気が張り詰めるの。それがまたおもしろかった。 なんてことのない習慣的な光