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日記517


黒澤明の『天国と地獄』が路上に落ちている。箱だけ。ここは日本だなーという感じがします。どんな観光地よりもこの光景。たぶん黒澤明の作品がふつうにゴミみたいに落ちているのは、世界でも日本くらいだろう。これぞ日本のストリートである。

フランスだったら、ゴダールの作品なんかがポイ捨てされているのだろうか。イタリアだったらフェリーニとか。アメリカだったら……スピルバーグ?ちとあたらしいかな。じゃあ『市民ケーン』とか落ちてそう。ロシアだったら、おそらくこれしかないな。『戦艦ポチョムキン』。自販機の下に一定の確率で『戦艦ポチョムキン』が捨ててあるだろう。日本ほど自販機はたくさんないか。でもロシアなら、だいたいどこにでも『戦艦ポチョムキン』は落ちているよ。ウォッカの空き瓶か、でなけりゃ『戦艦ポチョムキン』か、くらいのポイ捨て率だと思う。

そういえば何年か前に、チャットで日本が好きなロシア人と会話していたとき、「俺の町ではさいきん、自動販売機が初めて設置されたんだ。すげえ盛り上がってるぜ!」と、そんなようなことを言っていたなー。こころが和む話。

わたしはロシア語も英語もままならないため、カタコトの日本語でつきあってくれた。じつを言うと、日本語もままならないのに。しかし日本語のままならなさは、がんばれば隠せる。バレないように、ものすごくがんばりました。いまここでもがんばっている。

ほんとうは日本人じゃないって、油断するとバレてしまう。じゃあ、なにじんなの。うーん。国どころか、星からしてちがうと思う。たぶん。ニコちゃん星人かな。だって顔から足が生えてる。あたまにお尻がついてるし。そのお尻から触覚のような鼻も。

でもがんばっているからバレていない。わたしはいつもがんばって日本人みたいにしてる。がんばれば、なんでも隠せる。けど、地球のことはどうしても、チタマと呼んでしまう。危ない。だからチタマの話は避けるか、漢字が読めないふりをします。がんばってる。


こういうサインのような落書きって、あらゆる場所にあふれていますが、なんかの縄張りなのでしょうか。マーキングでしょうか。示威行為。なにか別の社会圏というか、別の生態系が存在しているようです。日本の社会にも、まるでちがう価値意識の族がたくさん入り乱れているのです。それも日本人として。これはよいことです。

4月4日(水)。ふらっと立ち寄った図書館の入り口に、こどもの手紙がいくつか掲示されていて、好きな本についてあれこれ書かれていたのかな。突っ立ってまじまじと読んでしまいました。こどもの文章ってほんとうに愛おしい。

「ぼくが好きな本はワンピースが好きです」みたいなの。これは、わたしなら赤を入れて「ぼくが好きな本はワンピースです」とすっきりさせてしまう。でも、そうではないのだね。無骨にも「好き」をくりかえしちゃって、直しもせず提出することができるのは、いまのあなただけだから、そう、わたしはいましかないあなたの表現を全力で守りたいって思う。

ことばも写真のように、いまここの一瞬を切り取るような側面がある。すっきりと読める文章なんか、ひとまずいいんだ。「ぼくが好きな本はワンピースが好きです」。これがいまのあなたの、何にも代えがたい一瞬のことば。紙に書いて残さないと、危うく永遠に喪われるところだった。それはきっと、とてもとても計り知れない喪失なのです。書いてくれて、ありがとう。受けとることができて、うれしい。

わたしがもし作文の先生だったら、こんなふうにほめまくるだけで、まったくちゃんと指導しないから、なんにも上達しないのだろうな。しかし意欲を削ぐことはないと思う。だからたぶん、書きつづけてくれる。「書きつづける」。文章はそれだけで、ある程度までは勝手に上達すると信じています。あなたの文章はすごくいい、ここが好き、ここがすごい、いいね、もっと書いてね、と言い続けるだけで十分。それがわたしの文章教室です。

音楽家の大友良英さんと作家の高橋源一郎さんの対談で、ご両人がお話されていたことを思い出しました。大友さんが音楽をプロデュースするときも、高橋さんが大学で文章を教えるときも、ネガティブなことは指摘しないのだといいます。良くない方向を示しても仕方がない。

「日本でいちばん優秀な文章教室」と高橋さんが豪語する大学の授業では、添削は一切せず「これおもしろいよね、ここ最高だよね」と言って、ふたたびべつの文章を書かせるのだそうです。間違いや、下手なところを指摘するのは、いまそこにある状態に執着させてしまうことで、逆効果。目標はいまのそこじゃない、その先のさらに良いところだから。そんな感じのお話をされていました。

これ、わたしの考えと似ていますが、ちょっとちがう。わたしの場合、未熟でどうしようもない「いまのそこ」が本気で好きだというところ。方便のほめことばではない。「さらに良い」ものは求めていません。べつにずっとそれでいいよ。ははは。ここがあなたの最高到達点。いまが大好き。これ以上、良くはならない!!

やさしいようで、ひどい考えだな……。ひとにものを教えるのは向かない。 教育現場では、どうしても成長や進歩が目指されるから。社会の提示するひとつの成長モデルが学校教育の念頭にある。そんなもん、くそどうでもいいと思う。

時間はどうやっても止まらんのだから、成長なんかみんな勝手にするだろうと無責任にも思っています。勝手にやればいい。わたしがもし学校の教師なら、とにかく肯定だけをする。とにかくパーティーをつづけよう。

いまのここがゴールです。そこへ座り込め!
甲本ヒロトが語っていたロックに近い考えかもしれない。

ロックバンドが向かうところは、無いんだよ。小学校でもいい中学校でもいい高校でもいい。ギターがなくてホウキだっていいんだ。教室の隅でワーっとなる。すごい楽しいんだ。そこがゴールなんです。
東京ドームになっても教室の隅でもなにも変わらない。どこにも行かないよ。ロックバンドは結成したところがゴールなんだ。目的達成だよ。

わたしは教師には向かないが、ロックバンドには向いているのだろうか。わかんないけど。このブログはたぶん、わたしの実践している思想としてのロックです。ここがゴール。目的はとっくに達成したぜ!ここで籠城してやる。一歩も動いてやんねえかんな!いぇーい。




コメント

匿名 さんのコメント…
こっち初めてですが、ここに書いたらいいのかなあ。高校生の時、よその高校の学園祭で映画を上映してて戦艦ポチョムキンを見ました。階段をベビーカーが落ちていく場面は記憶にありますが、内容はあんまり覚えてないです。むしろ、そのあとなぜか会場に流れた「下駄を鳴らして奴がくる~」ってかまやつひろしの「我が良き友よ」って歌の印象が強くて妙に記憶に残りました。anna
nagata_tetsurou さんの投稿…
あ、どうも。

「Anonymous」の文字を見たとき、なんかこわいと思いましたが、さいごに「anna」とあり安心しました。名前を入れるところ、ないかな。PCだったら「コメントの記入者」という欄から「名前/URL」を選択すれば入力できると思います。URLは空欄でも。たぶんですね。誰でもコメントできるようにしてあるので。スマホでも同じかな。

『戦艦ポチョムキン』は、ベビーカーの階段落ちもそうですが、わたしは始めの蛆虫が映るところが衝撃でした。予期せぬグロ。なんとなく心構えができていればグロテスクな表現も大丈夫なのですが、いきなり蛆を見せられると、びっくりしてしまいます。モンタージュ技法より先に、蛆虫の出演を教えてほしかった。そんなキャスト聞いてないよ、エイゼンシュテイン。

『戦艦ポチョムキン』のあと、かまやつひろしですか。脈絡がなさすぎておもしろいです。過去の記憶の視点が立ち代わりモンタージュされる。それもまた、モンタージュ技法の効果なのです。もちろん、こじつけです。