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日記518


謎のピンク汁が落ちていました。
略してピン汁。「ぴんじゅう」と読みます。

なんか思い返すと、幼少期からこういう道端に落ちているものをいちいち親に報告したり、拾ったりしていたような……。お母さーん、なんかへんなピンク汁が落ちてるよ!

だからなんだっていう。だから?えっと、おもしろいよね。ピン汁が道に落ちてるなんて、すごくおもしろい。なにがおもしろいの?ピン汁が。だってこんなにピンク。桜と色味は同じじゃん。みんな桜は写真に撮るくせに、なんでピン汁は撮らないんだ。ピン汁のほうが、よほどめずらしくておもしろいよ。もったいないことをしている。これを撮らないのは、多大な損失ですよ。いまを生きていない。桜なんか、まいとし見放題なのに。ピン汁は、あしたになれば、もう二度と見れないかもしれない。

こんな屁理屈ならえんえん書けてしまう。理屈はわからない。わたしはずっと少年のまま、変わっていないのかな。変わっていないどころか、こじらせて写真に収めるまでになってしまった。さらにはブログから世界へ発信するという暴挙。だってお母さん、ハナから相手にしてくれないもの。こうして不特定多数へ発信しつづければ、ひとりくらいは相手にしてくれるだろう。このピン汁の貴重さに気がつくだろう。ひとりくらいは。

インターネットがなければ、誰にもわたしのあふれ出すピン汁への想いを伝えられずに死ぬところだった。ネットがあって救われます。いい時代になりました。

炎上とか誹謗中傷とか威力業務妨害とか情報漏洩とか、どうしたってニュースではネットの悪いところが多く取り沙汰されてしまうけれど、ひとの命を救っていることのほうが圧倒的に多いと思う。すくなくともわたしは、ネット上にある知らない名もなき人々のことばで、ずいぶん救われたよ。発信することも。ささやかな救い。しかしそんなぼんやりした「救い」はニュースになる価値がない。なくていい。ないほうがいい。

わたしにとってのインターネットは、よく知らないひとの、どうでもいい話をたくさん聞ける場所。それが好きで、そこに価値を見ている。いまのところ。知り合いの内輪でのみつながっていても、つまらない。

「どうでもいい」とわたしが思っても、当の発信者にとってはとても価値を置いている話であったりするのも、おもしろい。そのどうでもよくない切実さを共有できるときもある。ピン汁のことだって、わたしとしては切実なのだ。どうでもいいなんて聞き捨てならない。このピンク色の謎めいた汁を、写真で自慢したいのだ。ほら見てこれ、すごいよね。

幼い頃は、写真撮影というと人間を撮るもので、人間しか撮ってはいけないのだと思っていました。デジタルカメラがなかったこともあり。いまだって、デジカメより撮影枚数が限定的なフィルムカメラを持てば、こんなようなもの、撮らないのかな。いや、たぶん撮るけど、厳選はするはず。無節操に撮りまくることはない。このピン汁の場合は、ふだんなかなか道に落ちていないレア物だから、おそらくフィルムカメラでも撮影したはずです。いまここにしかないピン汁の写真なのです。特別天然記念物です。法的な保護の対象にすべき。

路上のピン汁をネタにするには、たとえばいまどきのユーチューバーだったら、飲んでみたりするのかな。下手したら死ぬだろう。そうでもしないとネタにならないと思うのは、発想が貧弱です。そんなことしなくても、じゅうぶんピン汁はおもしろいよ。いるだけでおもしろいのがピン汁だから。わたしがおもしろいと言えばおもしろいのです。わかりやすく伝える必要もない。体を張る必要もない。とにかく言い張って押し切る。

それでもまったくかまわない、ゆるい物言いをてきとうに吐ける媒体がインターネットなのです。これこそが個人の発信力なのでした。ああ素晴らしきかな、インターネット。ピン汁は最高におもしろい。めでたしめでたし。


メカジキのガーリックソテー、和風ハンバーグ、レンコンと小松菜の醤油バター焼、ポテトサラダ。週に2日くらい、家族が揃う日はふるって料理をします。うちの家族は、みんな暮らしぶりがバラバラです。勝手だ。個人主義者が4人もなぜかひとつの家に住んでいる。なぜいっしょにいるのか。わたしはお金がないからです。祖母はもう満身創痍で体力がないから。父と母は、惰性100%。

このところカメラを完全に切り替えました。父のものをずっと借りている。貸借というより、共有。いままでのLEICAとちがって洗練されており、アプリ経由でスマートフォンに写真を落とせる機能がないから、有線でPCにつないで取り込みしなきゃならんのはすこしだけ不便ですが、やっぱり画質がぜんぜんちがうなーと思う。



お彼岸に供えられたお花も、枯れるころ。



そして木香薔薇が咲き始めるころ。

3ヶ月間、平日は越路吹雪物語をお昼に祖母と観ていました。3月30日で終わり。越路さんはもういない。最終回が始まる前、祖母が「死んじゃうんだよ、やだね」とつぶやいていた。わかっていても、なんかかなしい。やだね。

越路吹雪を演じていたのは、青年期が瀧本美織さん。宝塚を卒業して、すこし経つと大地真央さんに交代。同じ役柄のキャストが途中で変わると、大地さんは越路吹雪そのひとを演じるのはもちろんのこと、瀧本美織さんが演じた若いころの越路吹雪までトレースせねばならず、かなりがんばっておられたと思う。

瀧本美織さんは好きなんですけど、ちょっとクセのある話し方をされるので、それが彼女のかわいらしいところでもあるのだが、大地真央さんの端正な話し方と比べると、いかんともしがたいズレがあったような。

対して、越路吹雪のマネージャーで作詞家の岩谷時子を演じていたのは青年期だと木南晴夏さん。後半は市毛良枝さんに交代。このおふたりは完全に噛み合っていたと思う。ぱっと見ではすぐわからないくらい姿も似ていたし、ことばの抑揚の付け方も、市毛さんは木南さんに似せていた。感動的なほど。すごく自然な入れ替わりでした。

もうひとり、越路吹雪の夫でピアニストの内藤法美の役も入れ替わっていた。長谷川純さんから吉田栄作さんへ。ここもあまり違和感はありませんでした。ただ、さいごのほうはめっちゃ吉田栄作だった。長谷川純の要素は死んだ。吉田栄作100%。

最終回、祖母と鼻をすする。ひとが死ぬのは知っているけど、わたしもみんな死ぬけど、なんか刷り込みもあるんだろうとは思うけど、こんなにかなしいのはなんなんだろう。わかっているはずなのに。信じていないのだろうか。死ぬんだよ。



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