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日記520


撮った場所は恵比寿。
置き放されたサイゼリヤのワイン。

この写真は、あとから見たらピントがぼやっとしちゃっていて失敗でした。撮ってからすぐ確認しないようにしています。あんまり構えずなるべく一瞬でパッと撮りたい。「こんなんいつ撮ったの?」くらいの感じで。じぶんでも忘れるほどの早業が理想です。写真を撮ることが好きかもだけど、「このひとといると撮られる!」みたく思われるとちょっと。撮らないよ。撮りたいけど。撮影するときは透明人間になりたい。カメラを肩にかけていると、体感としてよくわかるけど、なんか特権性が生まれるんです。それによる加害性も意識する。ものすごく立場が非対称になる。

まなざすことは、暴力をふくむ。わたしはひとの視線がすこしこわい。友人でも、親類でも、どんなひとでも、すこし。目を合わせるのが苦手。ましてや、まなざしたものを固定化して切り取ることなんて、とても乱暴。ほんとうだったら絶えず流れてゆき、浮いたり、沈んだりして変わりゆく、忘却と隣り合わせの一場一場。それを写真として残すこと。笑顔や愛情にあふれたやさしい写真も、戦時中の写真や露骨に性的な写真も、ひとえに、すべて記録者の欲望でしかない。

写真家、荒木経惟さんのモデルをされていた方による、告白文を読みました。


その知識、本当に正しいですか? | KaoRi. | note


読んだあと、すぐになにか言いたくなって、ちゃんとしたタイトルをつけてから数行だけ書き出したのですが、タイトルが先に決まっている文章はわたしにとってよくありません。「言いたいこと」が先立ってしまっているから。一定の価値観に沿った主張が先走ってしまう。言いたいことをそのまま言う。そういうものは書いていて気持ちがいいけれど、読んでもつまらない。「はいはい、わかったわかった」と打ち切りたくなる。すぐに浮かぶ考えは、既存の価値にまみれている。そうしたことばはわかりやすいが、「わかる」ってじぶんにとってはリーダビリティが低い。「これはいったいなんなんだ……」みたいなものに好感をもつから、わたしもなるべくまっさらな丸腰でわからんことをやりたいと思う。どんな価値にも頼りたくない。「じぶんの価値判断」なんてものもない。透明になりたい。

なもんで読んでから時間を置いて寝かせました。でも日を追うごとに脱力感が増すだけでした。うー。なにも言いたくなくなるまえにちょっとだけ、なんとなく。

ひとつあるのは、いままで荒木経惟さんは有名な写真家として、被写体のモデルへ送る視線を独占できていたが、そうもいかない時代になったのだなーという感想。「告白文」というと大仰だけれど、荒木経惟もまた、被写体を始めとした周囲からのまなざしを受ける、ひとりの人間であるという、あたりまえの現実を述べた文章なのです。撮る者の「あたりまえ」と、撮られる者の「あたりまえ」のあいだにはもちろん相違があります。立場がちがうんだもの。

どんなアート屋であろうが、てめえのスケベ心で商売をしているんだから、あらゆる視点から「見られる」覚悟は必要だろう。スケベなのはまったくかまわないが、それが自己の都合のいいように見られるだけではないのです。都合の悪い視線をさえぎるのは、僭越ながら同じスケベ野郎として胸くそが悪い。荒木さんの写真(=スケベ心)には、すごいと思うものもたくさんあります。それは変わらない。読みかけだった、『荒木陽子全愛情集』(港の人)の読み方は、微妙に変わりそうだけど。一時代が築いた男女の「愛情」。その美しくも苦しくもある産物。いま、ひとつの時代の価値意識が崩れつつある。どんな価値観の土台も、宙に浮いた脆いものです。時流と癒着した意識は特に。いずれ変わる。この、あたりまえ過ぎる陳腐な認識を何度も何度も確認する必要がある。ズブズブの現在を、ズブズブにもがきながらも、生きてゆくために。


どんな神話も宇宙の広さも、真実はいつも矛盾を含んでる。


KaoRi.さんの記事から、印象的なところを一行だけ。この「告白文」を読んでもわたしは、「これが真実だ!」なんて得意気になることはしない。後出しジャンケンで勝って意気がるような無粋さを感じる。そういう人間がもっともこわい。状況によって、すぐに手のひらを返すような。矛盾を矛盾のまま捉えられない短絡。即断即決の気味悪さ。踏みとどまれない大衆のリヴァイアサン性。

「真実」なんて、わからないよ。わからない。しかしひとの苦しみには耳をかたむけるべきだと思う。変わらず、アンダーグラウンドから始まった荒木経惟の薄汚れた写真の熱に当てられる部分はある。彼が撮ってきた数々の写真も「真実」にはちがいない。ただ、てめえのスケベな欲望を世界にさらけ出しておいてなにが偉いのかはよくわからない。まなざしを向ける欲望もまた、まなざされている。むろん、被写体からも。アーティストの人間性は問わないが、そのことに無自覚でもなかったろうに。

荒木経惟は、一時代の「男性」という価値による権威が可能にした、一時代の写真家で、その「一時代」がたぶん、終わりを迎えようとしている。ある側面の、時代を証言した表現だったのだろう。同じ手法はもう成り立たない。「私写真」と言われるこの手法によって、被写体が苦しんでいることが明かされてしまったのだから。


たんにレンズを向けてシャッターを切ればいいわけではない。「写真に収める」って、あんがい暴力的だったりもするから。角の立たないようにコミュニケイトしないと、わたしはだめだと思う。ひとを撮るすべも、いろいろあるとは思います。でもすくなくとも、わたしが撮りたい写真は、親しみのこもったものなのです。


日記516に、わたしはこう書きました。わたしはわたしのスケベをちゃんとしたい。これがじぶんの偽らざるスケベ心です。まったくふつうで汚くないしおもしろみもないところがド凡人たるゆえん。

星野源さんが宇多丸さんのラジオで「スーパースケベタイム」と名乗っていましたが、性的なものに限らず、だれもがじぶんだけのスーパースケベタイムをもっているのだと思います。それがわたしにとっては写真であったり、読書であったり。そのスーパースケベタイムがたまたま「アート」として世界的な評価を受けることもある。亡くなったラッパーのFebbさんがニート東京のインタビューで「音楽はエロい」と語っていたのも、すごくうなづける話でした。

ただのスケベなんです。

わたしがつねに言いたいのは、「そんな高級なもんじゃないでしょ、お互い」ということです。しょせん、糞して寝てる人間なんだよ。何年生きようが、なにを知っていようが、金持ちだろうが、どんな評価を受けていようが、糞して寝る。その間、スケベを探す。そしてきょうも糞して寝るんだ。その地を這う視線を忘れたくはありません。初心です。赤ちゃんを思え。メメント・ベイビー。やあこんにちは、赤ちゃんども。


4月8日(日)。渋谷でラッパーのACEさんを見かけました。ふつうにすれ違っただけです。有名人みたよ報告。ミーハーなことを書いてみる。

恵比寿のNADiff a/p/a/r/tで、『すずしろ日記』の原画を観ました。あと大きな絵画作品2点。東京大学出版会のPR誌『UP』で連載している山口晃さんの漫画作品。ついつい読み進めたくなるような、濃くもなく、薄くもなく、もうちょっとほしいところが素敵な味わいの作品です。のどごしの良さね。つい読んじゃう。

『UP』は図書館でよく読んでいます。借りはせず、その場で。4月号は、言語学や情報科学の研究者、川添愛さんの新連載がおもしろかったな。 ラッシャー木村の「こんばんは事件」についての考察。気張らずに、それほど内容が詰まっていない適当な感じが最高でした。どんな研究者も、専門外の話については適当なのです。みんな糞して寝る人間です。そしてきょうも、じぶんなりのスケベを探す。おしまい。
















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