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日記523


ずっと思うのだけど、なにかをひとつ選択したら、それ以外のものを否定したことにされるのは心外。そんなに輪郭のはっきりした人間ではない。しょうがないけどね。逆もまた。スーパーめんどくさいひとです。

人間は同時に否定も肯定もあれこれ表現できないし、「ある/ない」をまったく同時に認識することもできない。それを同時に言う術がないから。「ある/ない」とことばを分けなきゃいけない時点でもうわたしの感じていることとはちがうものにされる。表現力でカバーできる問題でもないと思う。だから言っても仕方のないこと。時間の構造とか、ことばの構造とかに人間の思考は規定されているから。抵抗しても無駄。

すべてのものごとには、「そうであるところ/ないところ」の両面、ほかにも捕捉できていない「それ以外」や「わからない」や「どっちでもいい」などが入り混じっているけど、んなこといちいちぜんぶ言ってるヒマはないし、聞いているヒマも考えているヒマもない。時間の都合上。あたりまえですが、あたりまえ過ぎてだれも見直さないようなところを洗い直したい。

たとえば、「あ」と「め」を同時に言おうとしてもできない。「あ」と発語したら、それは「め」ではない。のだけど、わたしは「め」を否定しているつもりもない。しかし、わたしの「あ」を聞いたひとは、こいつが言いたいのは他ならぬ「あ」なのだ!と思うだろう。わたしは「あ」と言ったが、べつに「め」でもいい。たまたま直感で「あ」を先に発音しちゃったから、それが「あ」になったまでであって、「あ」がわたしではない。「め」も言いたいし、「さ」とか「に」とかでもかまわない。だけど「あ」と先に言った以上、「こいつはまず『め』ではなく『あ』の人間だ!」とされてしまう。たしかにそう言ったし、その通りなんだけど、そうではなくてもいいのに……みたいな、そんな不本意なもやもやした気持ちがいつまでも残される。

つまり、わたしとしては、なんでもよいのだ。日常会話で「なんでもいいよ」とわたしはよく言ってしまうが、それはこのレベルからなんでもいい、という意味なのです。あなたが思うよりずっと過激に「なんでもいい」のです。でも、この世に存在している時点で、そんな「なんでもいい」は通用しなくなる。ほんとうは「なんでもいい」すらどうでもいい。なにも言いたくない。わたしの存在など無きものにしてかまわないよ。いなくなりたい。「なんでもいい」は、無になりたいという願いです。つきつめるとおそらく、無でいたいのです。結局もうさいごはエミール・シオランみたいに「生まれたくなかった」という話に行き着いてしまう……。

「生まれたくなかった」というと希死念慮みたいですが、似ているようでちがいます。たとえ死んだとしても「わたしがここに生まれた」という事実は消えません。いままで生きていた事実は消えない。もう無理。いまさら死んだって無駄なのです。仕方がない。「生まれたくなかった」とは「わたしが存在した」という事実それ自体をこの世界からまるっと消し去りたい、という、到底とりかえしのつかない手遅れのかなえようもない願いなのです。死をもってしてもかなわない。いつだって手遅れなんだ。なにもかも。

シオランとわたしは生まれた国も時代も、頭の出来も、たぶん性格もぜんぜんちがうけど、こういう根本のどうにもしようがない「わたしがここに存在しているという居心地の悪さ」を共有できるから、彼のことばを読むとどこか共鳴するものがあるんだと思う。存在しながらにして無を志向してしまう感覚。なにをやっても、なにを言っても居心地が悪い。

時間の性質上、どんなことばも出来事も同時に生起できない、というこの世界のあたりまえのつくりが不本意。ふたりの人間が同じ時間に同じ空間の同じ位置に存在することはできない、という物理的な都合も不本意。どいてもらいたくないが、どいてもらわないといけない。同じところにいたいが移動しないといけない。境界線みたいな身体がじゃまだね。あるいは、なぜ壁をすり抜けられないのか。なぜ地面に押し付けられているのか。物理法則のすべてが納得いかない。どんな説明の仕方を知っても、なぜそうでなければならないのかわからない。わたしが納得いくには、始原的な、この世のそもそものつくり全体から解き明かさないとだめなんだと思う。重力があるのはそうらしい、ではなぜ重力は重力でなければならなかったのか。「ものわかりが悪い」というのはこういうことです。なぜわたしはいまこの位置を占めていて、しかもそれがこのわたしであるのか。なにもわかっていない。

おそらくこういう違和感は幼少期からあったけど、掴みだして説明できるまでに20年以上を要した。どんくさい。そしてこんなことはいくら説明しても出発点からたいていわかってもらえない。ははは。たぶんわかりづらいし、まだじぶんでもうまく言えていない部分はある。

でも稀にいる。同じような感覚で生きているのかなーと想像できる人間が。いるんです。この世界に対して、あるいは自己の存在に対して感じる根本の疑問が抜けないひと。こどもの頃の問いを追求しつづける、哲学者の永井均さんとか。ほかにも会ったことはないけど、「このひとはなんか感覚が似てるような」とことばの端々から感じるひとは少数ながらいます。有名無名問わず。

生きていてあとから派生したものにあまり関心が向かないのかもしれない。なんか知らんけど始めからもともと設定されている、わたしのこの身体とか、意識とか、この世のありようとか、遥か過去のほう、初期設定。そっちが気になる……。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ。


ちょろっと『荒木陽子全愛情集』を読んでいますが、やっぱりなにがあっても褪せないおもしろみはある。陽子さんのことばは、陽子さんのものとして。ズブズブの現在を。そのまま読めばいい。このひとの手や肌がそのとき感じ取ったもの。掴んだことば。「読み方が変わりそう」と思ったけど、変わらない。直解する。その時点のものを、そのまま。


わたしたちの“いま”は、永劫に変わらないから、未来がどうあれだいじょうぶだと。安心している。


これはわたしがじぶんで書いていたものだけど、そうだった。そう。陽子さんが抱いていた過去の“いま”は永劫に変わらない。未来人を気取った訳知り顔の輩が他人の過去や現在を知ったように解釈して穢すの、わたしのもっとも嫌うところだった。変わるはずない。

肝要なのは「ある」ということだけ。ネガティブなものも、ポジティブなものも。ねじ曲げて統一する必要はない。矛盾していい。ぜんぶあるのだ。わたしは、そこにただあるものをできうる限り等価に見る。そういう読み方しかできないことを悟る。


コメント

anna さんのコメント…
「なにかをひとつ選択したら、それ以外のものを否定したことにされるのは心外。」
そうそう、全く同感です。決断するっていうことは他の選択肢をあきらめるってことって、よく言われますけど、すっごい違和感感じてました。別に他のことはあきらめたわけじゃないのにってずっと思ってました。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ひとりの人間がひとつの不可逆な時間軸上を直線的に生きているような、視認できる範囲の時間のイメージだけだと、たぶん「それ以外」が見えなくなってしまうのだと思います。

1本の時間軸上だけではない。外側の表出としてはひとつを選んでいるように見えて、わたしの内面にはべつのものへ向けた時間も並行的に流れている。線的な時間に加えて、並行的な時間や可逆的な円環の時間も考えられます。死者のもつ静的な時間も。ひとの時間のイメージって宗教観とも近くて、おもしろいです。物理的な時間でも、アインシュタインが再定義したものは歪みをともなう。量子力学だとさらにいろいろあって、わたしの頭ではあまり理解できていないけど、すこしでも知ると世界が広がります。

雑なことを思い切って言ってしまうと、時間ってけっこうフィクショナルな概念でもある思う。現実性と虚構性のあいだにたゆたっているようなもの。そんなあやふやなものが、人間の営む日常の基礎となっているのは、おかしくてたのしい。

はじめの1行から直感的に共感していただけたのならさいわいです。
その場合、あとの説明はくどかったかもしれませんね。