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日記524



立派なたけのこをもらったので、あく抜き。

ぬかと鷹の爪につけて1時間半くらい煮る。弱火にかけながら本を読んでいたら、うとうとしてしまって、危ない。マルレーン・ハウスホーファー集。文学ムック『たべるのがおそい Vol.4』に入っている。さいきんVol.5がでたのかな、まだかな。「完成したよ」という報告だけSNSで見ました。もうすぐでるのかな。書肆侃侃房から。好きなムックです。


これほど恥じ入り、これほど幸せだったことは、これまでになかった。


マルレーン・ハウスホーファーの短編「さくらんぼ」から一行。こどもの頃にじぶんも感じたことがあるような予期不安の思い込みを、こどもらしくも切実なことばで繰り返しながら、繰り返しながら、ひらりとそれが軽くなった場面。重い不安が裏返り、少女は幸福にみずからを省みる。それは人生に一回限りの、福音だった。まるで知らない作家でしたが、好きだなーいいなーと思いながら寝ていた。

Vol.1から買っていて個人的に信頼感のあるムックなので、知らない作家の名前が並んでいても、むしろ知らない作家の文章をたのしみに読みたいくらいの感覚で手に取ります。種々雑多なのは、ムックや雑誌のいいところ。もちろん知っている作家さんのものも、たのしみに読む。

わたしは、なかなか他人の語りに入り込めないタイプなので、どんなに評判のよい小説も読み始めは退屈で「はやくみんな大型トラックに轢かれて、ドガーンってならないかなー」と漫☆画太郎先生の描くようなむちゃくちゃなオチを期待してしまうのだけど、ちょっと我慢すれば「ドガーン」と同じくらいの面白味と出会えるので、我慢しています。読書は我慢です。好きではない。我慢して読んでいます。

しかしやっぱりさいごには、大型トラックに登場人物がぜんいん轢かれて「ドガーン」とか「ちゅどーん」とか、そういうオチを期待してしまうわたしがいます。それは否めません。あるいは「くそしてねろ!!!!!」でもいい。さいごに添えてくれると、どんなにつまらない文章でも漫画でも、すべてがどうでもよくなる。オールオッケーになる。画太郎先生による偉大な発明です。これはありとあらゆる作家を救済する発明なのです。言うなれば画太郎先生はメシアです。漫☆画太郎こそが漫画の神様なのです。わたしが我慢せずに安心して読める書物は、漫☆画太郎の作品だけです。


あく抜き後、皮を剥く。こんにちはたけのこ。適当な写真でごめん。なにかに似てるなーと思ったら、ミル貝です。たけのこだと信じていましたが、これミル貝でした。おかしいなあ。あく抜きする必要もなかったかもしれない。きみ、ミル貝だよね。たけのこ風の。正直に言いなさい。天ぷらにしようと思っていたけど、どうしよう。まあいいか。ミル貝だとしても。


はい、ミル貝の天ぷらです。

と思って食べたら、味はなんと、たけのこでした。そんなばかな。正直に言いなさいって、聞こえたはずだよね。ミル貝があなたのほんとうの姿だと思っていたのに、なんなの。海の幸じゃないの。山なの。そんな嘘つきだと思わなかった。見損なったよ。たけのこの分際で、ひとをばかにしやがって!ぷんぷん!

あたまにきたので、おいしく食べてやりましたとさ。
めでたしめでたし。


***


さいきん筋トレをしています。やり始めるまでの腰がひどく重いけど、やり始めたら過剰なまでに負荷をかけてしまう。いつも「なんにもしたくない」と思って机上の空論だけで生きていますが、始めたらなんでもハマってしまうような傾向はすべてにおいてあります。ただ手を付けるまでの、はじめの一歩が困難を極めるだけで……。

座ったらもう二度と立ちたくなくなるし、横になればなおさら。同様に、立ち上がって歩けば止まることに抵抗が生まれる。スクワットを始めれば、やめるのが惜しくなる。あと1回!あと1回!と。調子に乗って動いているときはよいのですが、じっとしてしまうと、かたくなに動きたくなくなるのは困りものです。慣性力が強いのかな。頑固なのかな……。きっとこういうタイプの人間は、いろいろと「はじめの一歩」を焚き付けてくれる他人がそばにいないとダメなのかもしれません。

ひとりでいると、なんにもしたくない。
安西先生、なんにもしたくないです。
なんにも。したくないんです。
ああ、なんにもしたくない。

いまこれを書いている原動力も、やはり他人です。特定の他人ではなく、不特定のぼんやりした他人。ひとりで横になっていると、オブローモフとかバートルビーとか、じぶんじゃないかしらと思う。いや、小説の主人公ほどでもなく、たんにふつうの怠惰なだけなのですが、なにもせずに人生がすめばありがたいのにと切に願う。そうして寝たままラッセルの『怠惰への讃歌』を幾度もめくったりなどする。


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