スキップしてメイン コンテンツに移動

日記526


穴はすべて覗きたくなる。穴の向こう側を知りたい。行き止まりでも、筒抜けでも。穴を通すだけで風景は変わります。狭い点になる。視野を限るのもおもしろい。いつも使っている広範囲の視力をうしなってみる。自然に得ているものを手放してみる。すこし世界のようすが変わる。視野だけではなく、たとえば衣服を身につけずに外出してみれば、きっと感じる世界がガラッと変わりますね。それだけで。同じ場所にいても、まるでちがう環境になる。やったことないし、やる予定もないし、やれば通報されたり逮捕されたりしますが……。

そこまでせずとも、家でお風呂に入る直前すでに全裸になってから、なんとなくトイレに行きたくなって、そのまま素っ裸で用を足そうと便座に腰掛けるときの「なんか足りなくて落ち着かない!!」という感覚、これだけでもすごく新鮮。ふだん衣服を身に着けて生活しているひとならわかると思います。ズボンを下ろす動作をしないと「よ~しパパ、いまから排泄するぞ~」という気分が盛り上がらないのです。ふわふわと心の置きどころが定まらない感じ。いつもの排泄のはずが、あれ?これでいいんだっけ……と不安になる。

排泄に至るまでの過程も、ひとつひとつ分解してみて、あらかじめいつもやっていることをちょっと取り除いたり、横道に逸れてみたりすると、あたらしい感覚というか、新鮮な違和感が得られるのです。日常生活のあらゆる場面でこういったズラしを実践してみると、退屈なことなんかなにひとつなくなるんじゃないか。飽きない。たぶん。

もちろん、そうやって脱臼させた日常は、たいていふたたび元に戻します。だけど、たまにはベースとなる日常に戻れなくなることもあるかもしれない。トイレには素っ裸で入るのがいちばん心地よいと思う自己と遭遇してしまったら。未知の自己との遭遇。いつまでも幼少期に受けたトイレトレーニングに従順でいることもないのです。もうこどもではない。なんでも考えられる。考えていい。行動は自制しても、思考は自制しない。実行についても、じぶんでじぶんを審判する。

そのためには、しっかりとした基準となる日常を構築することが、まずはたいせつかな。常識を意識する。世間的に「常識」や「ふつう」が語られる文脈はほとんど、その標準を他人に押し付けているように読めるけれど、わたしはその準拠点からのズレを楽しみたいときに意識します。あえて踏み外すエンターテイメントも、まずは基盤があってこそで、ズレがエンタメだと認識できるのも、日常との距離が測れるから。その距離がわたしにはおもしろくて、興味深い。ゆれる。日常も過信してはいけないことがわかる。


「自己肯定感」について、すこし考えました。

日本の若者は低い低いと言われる。でもその低い自己肯定感は、自己ではなく社会の提示する価値観に従うか否か、みたいな側面もあるのではないのか、と。たぶん。調査の質問なんかちらっと見ても、社会肯定感とイコールなのではないか。むろん、社会と自己は切り離せないけれど。要は、社会と自己の関係は相互的なものなのに解釈が一方向的だと感じる。いつものようになんにも調べず書いている直感だけの与太話です。

意識調査で「自己肯定感」がうんぬんされるとき、そこで名指される「自己」とはいったいだれなのか。肯定すべきとされる自己のモデルが決まっているような。肯定のストライクゾーンがあらかじめ設定されているような。そのストライクゾーンに収まらないと「自己肯定感が低い」と言われてしまう。若者の意識そのものがネガティブなのではなく、若者の目にうつる、社会的にストライクだとされている価値観がそんなに魅力的じゃないよね、という結果の「自己肯定感の低さ」でもある気がします。どこか見限っている。すべてではないにせよ、こんな側面もあるのではと思う。

社会的にストライクではない、ネガティブとされてしまう自己も肯定していい。極端なことを言えば「ひとを殺したいと思う自己」もあっていい。「死にたいと思う自己」も。おそらく行動はしないほうがいいのだが、そういうことを考えるわたしもわたしは肯定している。内面のレベルでは良いものも悪いものもあっていい。なんでもありだ。肯定してやれ。そのうえでなにをどうアウトプットするか。どれに許可を下すか。なにを取り入れて、なにを後回しにするか。その絶え間のない判断を繰り返す作業が、その都度のわたしをつくってゆく。なるべく退屈せず魅力的だと感じる価値をもってわたしはわたしをアウトプットしていたい。そうではない自己も内に置いておきながら。こんな個人的な、じぶんなりの自己肯定さえあればいいと思うよ。


4月17日(火)。さむい。以上。


コメント