スキップしてメイン コンテンツに移動

日記528


家で過ごしているときと、外へ出たときのじぶんの意識レベルのちがいが気になります。その差を第三の意識で意識する。みずからの行動や周囲のものごとに注意を向けるための意識の感覚が変化するのです。だれでもそうかな。

わたしの場合、家での行動はほとんど無意識にちかい。家だと意識がうしなわれます。だから、ものをどこに置いたのかわからなくなったり、無意識に変なオリジナルソングを歌っていたり、気づいたらぴょんぴょん跳ねていたり、そういう事象が発生します。

とくに無意識が顕著になるのは、お風呂場です。なにひとつ意識していない。我に返ったとき、「あれ?もうあたま洗ったっけ?」とわからなくなる。機械のように自動的に動いています。じぶんがなにをしているのか、じぶんの目による監視が完全に外れる。睡眠時と変わらないくらいのリラックス状態。

こういった意識レベルのメリハリがあるのは、たぶん良いことで、「動くときは動く/休むときは休む」という切り替えが鮮明だと、日々を気持ちよく終えて気持ちよく始められるのです。しかし、これは状況によって変わります。仕事やその他の人間関係など、外で追い回されている問題を家に宿題として持ち込まなければならないときは、家でも殺気立って緊張してしまいます。不健康だと思う。なので、なるべく外で正当だとされる論理を家に持ち帰りたくはないのです。

このブログを書いているとき、わたしは家の論理で語っています。最低限の緊張感は保ちつつ。家にいるときにしか書けないから。それがわかりやすく物語っている……。外だと余裕が消えちゃう部分もあって。細かなメモはとるけれど、それを形にするあたまがまわらない。家でもまわりに人間がいると、そっちへ気を向けるから、書けるのは絶対的にひとりでいるときなのです。ほぼまいにち1000字以上も多弁につづっていて、さぞおしゃべりな野郎かと思われそうですが、まったくそんなことはない。ひとりの時間がとれなくなると、このブログの更新は終わると思う。

外での緊張を家にもちこむことはよくあるけれど、家での弛緩した顔を外にもちこむことはできません。もうすこし外でも、家の中でそばに人間がいても、リラックスできればよいと思うのですが、肩に力が入って、こわばっちゃう。人間は例外なくぜんいん敵だと思っているから。いや、それは冗談です(身近な友人も見てくださっているので!ごめん!)。でもやはり人間は敵です(笑)。わたしをおびやかす。どんなに親しくとも、家族でも、こどもでも、赤ちゃんでさえ。そうではないといけないとも思う。つねにおびやかされていないと、わたしはダメになる。いつだってひとと向き合うときには、恐怖心が根底にあります。それが原動力にもなる。恐れを抱いている。敬意のこもった「畏れ」のほうも。

この恐怖心の中心にあるのは、他人のわからなさ、だと思う。自己への恐れもあって、それもじぶんのわからない部分。どこまでいっても了解できない世の不可解さを、いつもかたわらに置いている。他人と、じぶんにもあるその神聖な領域に、土足で踏み込むことはしたくない。「ひとがこわい」と言うと、へたすれば治療の対象にされてしまうが、こわくないといけない。恐怖心や、畏怖のこころは重要な価値だ。限りない無理解と、限りない敬意、そして親しみをこめて、わたしはあなたがこわいと思う。ふつうのことです。じぶんなりの礼儀として。

「わかる/わからない」ということばを「家/外」と対照すると、家でひとりのわたしは、わからない部分にもわからないなりに踏み込もうとしてこわがりつつも文字を綴っている。外だと、自己や他者の「わからない」領域へ勝手に踏み込むことはなるべくしない。距離をたもつ。思わぬ攻撃を受けないように。自衛のためでもある。ディフェンシヴになる。ただ意識を張りめぐらせ、見つめる。

循環としてつなげて考えると、外で覚知し、収穫した自己や他者の「わからない」を掻き集めて、それをわからないままにも、どうにか整序しようと、足掻くように記しているものがこのブログなのかもしれない。それ以下のくだらないことも、もちろん書きまくっているけどね。ここは無礼講ということで。どうも失礼いたしました。


この写真、ぜんぜんピントが合っていない。でも撮り直さない。まあいっか。まだカメラの扱いがどうにもわかっていないかな。基本の基本からわかっていない。たんに感覚でシャッターを押しているだけ。すこしでもカメラアイを理解しなければーと思う。

 それよりこの帯です。


格好いい虫なのに、ウンコしか食べない!


小松貴さんの『絶滅危惧の地味な虫たち  ――失われる自然を求めて』(ちくま新書)。ひさしぶりに心に残る帯と出会えた気がします。おもしろいなー。図書館でこれ、手にとってからいったん棚に戻したのですが、3回くらい思い出し笑いをしてもう借りるしかないと観念しました。一読しておもしろかったら、買います。もうおもしろい予感しかしないけれど。ふざけていそうで「絶滅危惧」というところがたぶん真面目なテーマも孕んでいて、そこに地味な虫たちへの「愛」のこもった語りがあらわれるのだと思う。期待と想像の書評。

超絶イケメンなのに、ウンコしか食べない!みたいなひとがいたらおもしろい。ジャニーズ所属なのに、ウンコしか食べない!とか、非の打ち所がないエリートなのに、ウンコしか食べない!とか。「ウンコしか食べない!」をプロフィールのうしろにつけると愉快になります。


土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。でもウンコしか食べない!


坂本龍馬のWikipediaからのコピペに「でもウンコしか食べない!」を加えてみました。すごい、なんか世界が豊かになるよね。

どんな人物でも「ウンコしか食べない!」を末尾につけると、みんな大好きになってしまうよ。偉そうな肩書をズラズラ並べて、えばっているような人間でも、さいごに「でもウンコしか食べない!」をつけてあげる。ちゃんとつけてあげるから、安心してえばり倒してください。世界平和が実現しそうである。このフレーズをわたしにもたらしてくれただけでも『絶滅危惧の地味な虫たち』という新書は100点だ。研究者がものした本だし、固いところもあるだろうけれど、すでに最高です。読むのたのしみ。


コメント

anna さんのコメント…
あはは。文末の「〇〇〇しか食べない!」ってのは面白いですね~。
編集者がつけたオビの案内文なんでしょうけど、著者さんからしたらどうなんでしょうねー。
微妙かなあ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
遊び心のある帯ですが、中身は非常に真面目です。
そして情熱的。読むと虫への愛が血管を流れていきます。
虫の写真もたくさん載っていて、わたしにはうれしい。

人間以外の研究をしている学者さんの本を読むのが好きなのです。そのヒトならぬ他を見る視点の広大さ。自然を俯瞰する目は、人間を俯瞰する目にもつながります。人間も自然の一部なのです。そんな大きな視野から、個別の生き物をひとつひとつ拾ってゆく細やかな手付きに愛が宿っている。自然科学がおもしろいと思う。

ベストセラーになった川上和人さんの『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』(新潮社)も、逆説的で、素敵なタイトル。結果的に鳥類学と鳥類の魅力を十二分に語っています。タイトルや帯は、それが素敵な本で、多くのひとが手に取るきっかけになるのなら、なんでもいいと思う(笑)。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「ベストセラー」というほど売れていないかな。話題になった、くらい。