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日記532


味噌煮込みうどん。名古屋の山本屋本店です。
4月24日(火)のつづき。

おいしい。やたら白過ぎる洋服を着ていたため汁が跳ねないか心配でしたが、ちゃんと紙エプロンを用意してくださる。周到な心配り。むかしからかな。それでも慎重に、細心の注意を払いながらゆっくりと食べました。

わたしは「おいしい」くらいしか食べ物について語る語彙をもたない。噛めて消化できればなんでもいいと思う。昆虫でも、カエルでも。爬虫類でも。赤犬でも。「おいしい」と言う。「万物は食べられると思っていた」と漫画家の水木しげるさんがおっしゃっていた。石はかたいから食べないのだ、木はまずいから食べないのだ、と。

会話の中で食べ物の好みを聞かれれば、日常会話のセオリーに従って申し訳程度に答えるけれど、拒絶するほどのものはない。出されたものはなんでも食べるようにしている。アレルギーで食べられないものはあるが、わたしの顎の力で咀嚼でき、消化器官が受け付けてくれるものであればなんでもいい。毒でなければ。

水木さんは過去形で語っておられるけれど、「万物は食べられる」という認識はまちがっていないと思う。石だって、砕ける顎と消化できる内臓があれば食べ物になるんだ。人間にはそれができないから、しないだけです。生物としての制約でしかない。それくらいの鷹揚さで食べ物には接している。

むろん、このようなかんがえはどうかしているので、他人の食の好き嫌いを否定するつもりはありません。世間的な常識も心得ているつもりです。わたしの認識が非常識で現在の日本の社会じゃ白眼視されるのは身にしみてわかっている。正直にこうしたことを申せば「話にならない」と言われる。たしかにならない。前提がちがう。それもよくわかる。

はっ!話題が飛びますが、彫刻家の田島享央己さんの展示を日本橋三越へ観にいくの、忘れておりました。いま思い出した。わざわざここに書いて「行く」と宣言したのに。ここに書くから忘れるのかな。備忘録って、わたしにとっては忘れないようにというより、忘れてもいいように記すものなのか、書き記したら油断して忘れてしまうことが多いような。書かないことのほうがおぼえている。緊張感はだいじだな……。


名古屋市科学館へ行きました。

でかい玉。もうちょっと遠めから撮ればこの球体の大きさがちゃんとわかったかもしれません。雨が降っていたので適当に手早く撮る。画像検索すればもっと迫力のあるいい写真がたくさん見られます。

なんかいろいろおもしろかったです。宇宙おもしろい。小惑星イトカワの模型を見て「かりんとうみたいでおいしそう」とか「ゴマフアザラシみたいでかわいい」とかそういう話をしていました。身のまわりのものについて科学的に解説してあるコーナーもよかった。ブラジャーの説明が詩的だと思ったけど、これは言わなかった。

科学的な事実を記述することばのいわゆる「没価値性」が気持ちいいと思う。へたな価値判断を差し挟まない。ショーン・キャロルの『この宇宙の片隅に』(青土社)という本をちょうど借りていて、ぱらぱらめくりながら感じたことです。松浦俊輔の訳。


生命をめぐる最も重要なことは、それが第二法則に動かされて、平衡を外れたところに生じるということだ。生き続けるには、絶えず動き、情報を処理し、環境とやりとりをしなければならない。p.532


こうした乾いた記述がわたしの肌には合う。たとえば「ひとはみないずれ死ぬ」と言うと、かなしい発言だと思われるのは、ちょっとだけ心外であったり。そりゃかなしいけれど、それもわかるけれど、単なる事実でもある。無味乾燥な事実が第一義だとわたしは思う。でもどうやら多くのひとは「かなしい」を第一義として採用しているようです。まず「かなしみ」とは離れた「そういうもの」としてわたしたちはあるんじゃないの。So it goes. だよ。この世界そのものも。ただある。ただ消える。ただうつろう。そういうものだ。夾雑物を挟まず、透徹したものの見方をしたい。かなしみで目を曇らせる前に。

といっても、『この宇宙の片隅に』はパッサパサの無情な本ではない。理論物理学者のものした大著ですが、哲学や道徳や人間の幸福についても触れている。この宇宙の最適な語り方をめぐる、ことばの扱いに関する本でもある。詩的な表現もときおり見られる。人生の意味や価値やヒトの意識についても論じられる。

原題は『The Big Picture』。邦題は、映画『この世界の片隅に』をもじったものです。表紙の文字の置き方からオマージュを捧げている。思わず微笑んでしまう。ちっぽけなひとりの物理学者から見た、この宇宙の大きな画。専門的な知見から切り込む科学のまなざしと、そこからはみ出した個人的な「私にはこう見えるんだけど、どうっすかね?」みたいな謙虚な問いがないまぜになって淡々と語られるおもしろい本だと思う。

まだぜんぶ読んでいないけれど、返却しなきゃいけない。買いたい。定価:本体3,200円(税別)。きびしい。ははは。稼がなきゃ。そろそろいかなくちゃ。そろそろ……。

松浦俊輔さんの訳者あとがきにある、『草枕』を引いたたとえがこの本の著者ショーン・キャロルのとっている態度としてとてもわかりやすく、そして惹かれるものでした。


 夏目漱石の『草枕』には「非人情」という考え方が出て来ます。漱石は芸術について語っていますが、ややこしい現実をそのまま写したって芸術にはならない、「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写す」ことで詩になり画になるというようなことであり、その住みにくき煩いを引き抜くのが「非人情」ということです。本書は人間的現実から引き抜くというのとは逆の方向に進みますが、あえて本書に出て来る概念に当てはめれば、非人情はimpersonalでした。物理学には私とあなたのpersonalな関係は出てきません。すべてimpersonalな世界です。そういうふうに見ればこそ見える世界、描ける世界もあるし(非人情の芸術に描ける世界があるように)、著者の側からすれば、そういう世界が根底にあればこそ、その上のレベルも発現しうるというわけです。pp.623-624


impersonalな世界認識からpersonをあぶり出す、そんなおもしろい本です。たぶん。読了できずに返却する本が多すぎて申し訳ない。他に借りたいひとがいるはず。そんなに借りるんじゃないよ。あたしのバカ。さっさと返しに行こう。

「非人情」っていいです。人情なんか、煩わしいと思う。そういう冷たいところがあります。人情に強く影響されがちだから、逆に避けたいのかもしれない。人間もモノだと思う。「ひとをモノ扱い」はしない。でも所詮モノとして見ている冷徹さもあります。そうやって超然と人間の社会を眺めると、どんな価値もくだらなく思えて、最高におもしろいから。



コメント

anna さんのコメント…
『この宇宙の片隅に』の言葉の中の「第二法則」っていうのは、きっと「エントロピーは増大する。」ってやつですよね。確かに前から不思議に思ってました。なんで第二法則的にはありえないエントロピー的には小さくなる方向の生命が存在できるのかって。お~、我ながら深遠な疑問だあ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そうです。熱力学の第二法則です。おもしろい疑問ですね。ひとつの回答としては、これはべつの本からの情報ですが、重力がエントロピーの局所的な減少に寄与しており、それが地球の生命を支えている側面もあるそうです。

重力とエントロピーの関係は現代物理学においてホットなトピックで、エントロピック重力理論という仮説が数年前に物議をかもしました。内容はしょうじき理解できておりませんが、こういう最先端の研究のニュースをぜんぜんわからないままでも見るのが好きなんです。



人生だとか、世界と自己との関係だとかの説明として、あるいは問いかけとして、幸福だの役に立つ目的だのを説くよりも、熱力学みたいな物理法則から説明してもらえたほうがよほど美しく、エレガントだと思います。なによりミステリアスでもある。というのが、上記の引用の(いま読み直して思った)意図です。かんたんにわかってたまるもんですか!