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日記534


古本に書き込みがありました。岩波文庫の『ルバイヤート』。1949年1月15日、第1刷発行。わたしの手元にある本は、1987年5月11日の第34刷発行。11世紀ごろのペルシアの詩人、オマル・ハイヤームによる四行詩の作品集。小川亮作の翻訳で、青空文庫でも読めます。何年も前に買った本ですが、書き込みに気がついたのはきのう。


1989.7.28
サラリーマン7年目の迷い、として。


と書いてあるのかな。かつてのこの本の持ち主がもし、大学の新卒で就職し、サラリーマンを始めたのだとしたら、7年目だと三十路前後くらい。いまのわたしとおおよそ同年代で、おもしろいなあ。わたしなんか、これからだ。迷いっぱなしで。いまも。

この本を売りに出したということは、もう迷いはなくなったのですか。あるいはkindleを買ったのですか。青空文庫でも無料で読めますものね。2018年の現在だと50代後半くらいになっている計算かな。生きていれば。前の持ち主は、還暦ちかいのかもしれない。

本は時間を綴じ込んだメディアです。古本だとその時間の連なりが増える。書物とは、無数の過去が織り重ねられた紙の束。無数の“いま”と言ってもいい。

1989年の夏、迷えるサラリーマンの手元でこれが読まれた、いま。11世紀ペルシアでオマル・ハイヤームが詩を書いた、いま。その詩が絶えることなく世界へ伝播し、原典から小川亮作が日本のことばに移し替えた、いま。翻訳が完了し岩波文庫の赤帯として出版された、いま。名著となり長く読み継がれ34刷目が発行された1987年の、いま。その中の1冊が買われ、やがて古本として売りに出され、わたしが購入して2018年にこうしてふたたびいま、開かれる。読む者のまなざしが、すべてを同じいまに変えてゆく。

こうした過去の“いま”たちが、ひとつでも欠けていたらありえなかった、この瞬間わたしの目に見えるいまがある。きっと書物に限らない。そんな危ういバランスの世界でずっと、生きてきたし、これからも生きてゆくのだろう。

哀しいほど脆弱で複雑な、いまのこの時に、どんな種を蒔けばじぶんにとって望ましい変化がおとずれるのか。皆目わからない。次の一歩が前か後ろかも。後退が結果として前進につながることもある。迷ってためらうが、ためらってばかりいてはどこへも行けない。

『ルバイヤート』に迷いを記した過去のサラリーマン7年目の誰かのことばが、わたしの迷いを引き出して記事を書かしめている。これを残せばいつか、この文章に触れた誰かが、またなにかをもたらすこともあるのかもしれない。あるいは、未来のじぶんがまた。まだ迷っておりますか。

『ルバイヤート』の邦訳がじぶんの手元に伝わるまでの軌跡を思うだけで、途方もない気分になります。途方もない、過去の連なり。有名なところではエドワード・フィッツジェラルドによる英訳や、それを読んだラフカディオ・ハーンの日本での大学講義も伝播に寄与しているのだろう。その他にも、11世紀当時からのおびただしい人間の結節点に運ばれて、この本のことばがここに存在しているのです。伝わるということの、途方もなさよ。そして僕は途方に暮れる。みずからもこの巨大な連なりの一部なのだと気がついてしまって。途方もない未来までをも、まなざすことになるから。

いずれは手放すのです。いま手元にある『ルバイヤート』も、現在この文章を書いているわたしの“いま”も、将来のいつかは肉体さえ滅んでなくなる。いまはただ、預かっているのだと思う。「わたしのもの」なんてない。だからせめて、いまここにあるものを、いま行使できるわたしのありったけの自由をここに、遺しておきたい。

そうやって保管しておく。この身を人海に投ずること。いくら投げてもなくならないものがたぶん、わたしだから。手放しても伝わってゆく。『ルバイヤート』のように世紀をまたいで。いや、そこまでじゃなくていいか。死んでから49日、伝わればOK。それ以上の法要はだいじょぶです。いさぎよく成仏すっから。

固く守っていたものをどれだけ手放しても、意外とわたしはわたしのままでいます。手放すことによって逆に終わらなくなることもあります。特にことばは、手放すことによってしか手に入らないものです。絶えず選んで、手放して、その反響に耳を澄ませること。他人のことばを聞いて、読んで、取り入れること。たとえわたしの声を聞いてくれる他者がいなくとも、未来のわたしが返してくれると、信じている。わたしがわたしと再会するときへ向けて、残すこと。

ことばをじぶんのコントロール下から外して、敬虔さのかけらもなくぶん投げておけば、きっとなにか起きるから、たのしい。なにが起きるかは、見当もつかないけれど。ただ丸善にレモンを置き放して愉快になるような。大きくて悠長な感覚でわたしを置き放す。放り出されたわたしはもはや、わたしじゃなくてもいい。レモンでも、名もない迷えるサラリーマン未満でも。あるいは、あなたでも。


5月5日(土)

「雀荘で役満あがって死ぬ」が理想の最期かな、と蛭子能収さんが路線バスの旅をしながらおっしゃっておりました。じぶんの実感としても思うのですが(サンプル数2人)、ひとってたぶん、あんまり幸せ過ぎても死にたくなる生き物なのです。「幸せ」というとすこしちがうかもしれない。絶頂というか。役満。なんかとにかくポジティブなほうにも振り切れると死にたいんです。ネガティブに振り切れて死にたくなるのはむろんのこと。

すばらしい景色の場所を現実でもフィクションの中でも見出すと「ああ、こんなところで死にたい!」とわたしはよく思います。大好きでもう近寄れないし直視さえできない、名前を呼ぶなんてもってのほかという、神さまみたいな人間になら、殺されてもいいと思う。むしろ積極的に殺してほしい。あなたに手をかけられるのなら本望です。そんな美しい夢を抱かせてくれる人間が、この世にいるのなら。究極の甘えです。

死っていうのは、じつは美しいのではないか。古くから芸術のテーマとして人類が見てきた文化としての死。いつだってわたしは死の美的な誘惑に揺れている。そちら側にもじぶんの肉体があるのであれば、喜んでそちらへ越境するだろう。わからない。どれだけ絶望しても、絶頂(役満)の只中にあっても、老い果て病に見舞われても、さらなる可能性を求め続けるヒトの業は断念できない。死はいつだって予想でしかない。空想の産物。予感としてつねに、かたわらにあるもの。であるからこそ、美しい夢を見せてくれる。


 夢、酔、幻、これが吾等の生命である。吾々は絶えず、恋を思い、成功を夢みていながら、しかし、それ等の実現される事を望んでいるのではない。ただ実現されるらしく見える空なる影を追うて、その予想と予期とに酔っていたいのである。


永井荷風の『あめりか物語』より。生命は妥協としてあるのだと思う。すくなくともわたしの命は、美しい夢幻の死へと越境できない妥協の産物です。死をキープしている。いつまでも。もったいないからね。おいしいものはさいごまでとっておくタイプ。

役満であがったら死んじゃうから、わざと失敗するんだ、いつも。美しいものはきっと苦しくて、つらくて、怖い。ほどほどに失敗して、けらけら笑っている。かなえたら消える。手に入れたらなくなる。無になってしまう。だから、だいじな牌は手放しておく。奪われないように、あらかじめ失っておく。予兆だけを残して。

死だの生命だのいう話は、「青臭いな」と思ってしまうけれど、年齢で克服できるものでもない。なにかを気取っているわけでもない。個人個人がことばにしておくべき普遍的な課題だと思います。もう、ものわかりのいいオトナにはなれそうもないので、ひらきなおる。わしの脱臭不能な青臭みをここにくらわす。






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