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日記535


わたしはたぶん引くことはたいへん心得ているけれど、じぶんが出るタイミングがまったくわかっていないのだなーと思うきょうでした。会話をまわす場面でのお話。Webで文章を書くことはわたしの場合「出る」ではありません。これは突っ立っているだけです。「ここにこういう者がいる」と、それだけを示している。他人をどうこうしたいわけではない。出てはいません。さらして、受けること。「出る」じゃなくて「出す」かな。デトックス。積極的な意志によるものではない。排便とおなじ。

会話では、わたしがしゃべることによって、まわりのひとのことばが変容してしまったり、思考が途切れてしまったり、うしなわれてしまったり、そういうことを過度におそれている気がします。逆に言うと、そのひとがそのひととして発言する声が聞きたかったり、補助線となる繋ぎのことばを投げたり、押し殺して無きものとしがちな考えもすくい上げたり、そういうことをしたいのだろう。よい聞き手になりたい。

おそれていることを裏返せば、じぶんの欲求が見えてくる。ネガティブな感覚をつぶさに見つめることでしか、自己を知ることはできないと思う。


就活アウトロー採用という企画の説明会に行きました。キャリア解放区代表の納富順一さんがていねいに説明をしてくださる。説明の中で使用されていた画像のひとつに、見覚えのあるギークハウスのようすがありましたが、納富さんは「ニートの家かな」とおっしゃっていて、知らずに使っていたのかな。「ネットで拾ったイメージ」として。そんなことないかな。糸柳さんが寝っ転がっていたよ。それ以外はすんなり聞けました。わたしの想像していた企画とぴったり合致していて、ここに来てよかったと思う。なにより、ことばが通じそうなひと。社会のことば、組織のことば、といった集団のことばよりも、個人のことばで話してくださっていたような印象。

説明会に来ていたひとの就活への斜に構えたようなことばに釘を刺していたのも、わたしにとっては安心材料でした。わたしはふつうに正面から就活をして、もがいているひとも否定したくはない。なんにも否定しない。時代状況に則した価値転換は必要だと思うけれど……。じぶんには向かない慣習があるだけ。単純に、わたしはわたしの領分を守りたい。

就活アウトロー採用は、べつのやり方を提示して選択肢を増やしてくれるものだと理解しています。ひとつじゃない。ちがう価値基軸を打ち出して、ちがう道をひらくこと。場所を変えれば、評価も変わる。時代だってそうです。戦争での勝利が是とされる時代なら、効率の良い敵の殺戮方法をかんがえられるひとが優秀なんです。これは極端な例ですが、人間の評価軸は、際限なく多様であってほしい。カオスなまでに。わたしの日本社会における価値も、どこかにあるはず。広い時間軸、空間軸、その中でわたしに光の当たる場所が、隠れている。おおきく捉えよう。

こんかい参加してみます。もし同時期に参加される方がこれを見ておられたら、よろしくです。たとえこれで決まらなくとも、実りはあると思う。場に身を置くだけでも。肩の力を抜いて、気楽にやります。緊張しちゃうとわたしはだめになるから。きょうすごく緊張してたけど。


「どうせ」って思うとね、うまくいくんです。強気になれる。「どうせ」はネガティブなワードと思われがちですが、使い方によります。どうせ無理だ。ここまでだと、いけません。醜い言い訳です。どうせだめ。なら、気が済むまでやる。どうせ、やるならばこのまま挑戦。とラッパーの田我流も歌っています。

自身の未熟さや、可能性の限界を受け入れたうえで、それでもやるんだよと、そういう「どうせ」の使い方もある。きょうは残りの人生の始めの1ページ。「残り」が尽きれば、どうせ死ぬんだ。どうせ死ぬんだ。みんな死ぬ。そうであるならば。然様、なら。

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