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日記538


グラノーラをふやふやにして食べようと、牛乳に漬けて数分放置していたら、それを見た祖母が怪訝な顔をして、ひとこと「あんた、納豆に牛乳かけて食べるの?」と。色が茶色で、似てますけどね、惜しいです。「グラノーラというやつだよ」と袋を見せながら教えました。

べつに納豆と呼んでも、いいです。祖母だけのテクニカルタームとして、わたしにだけなら、通じるから。ふたりだけの共通言語。「グラノーラ=納豆」。いちおう「グラノーラ」という単語は教えましたが、「納豆みたいなの」と言い換えておりました。それでいいよ!

もちろん、外でもグラノーラを納豆と呼んでいたら、知らないひとからは、おかしな老婆だと思われるかもしれません。でも祖母がグラノーラを買い求めることや、友人とグラノーラの話をする可能性は低いので、よいのです。

家庭や身内の関係で通用していることば、社会の中の不特定多数へ届けることば、ともだちのあいだで通用していることば、組織内、サークル内、チーム内などいろいろ、使用されていることばには、同じ日本語でも、その場その場で微妙な差異があると思います。細かく見ていけばきっと、伝える相手ひとりひとりの単位からちがうことばを使っている。あなたとわたし、ふたりだけのことばづかいがある。

きれいにすべてを切り分けられるものではありませんが、すべて統一もできません。わたしは、ことばの使い分けがひとより苦手だから、ふだんからどこでも通じることばづかいをするように、気をつけています。基本的に敬語です。いや、混ぜているかな。混ぜていますね。それでも、ていねいさは心がけて、かつ親しみやすさも。できればね。

ことばを発するとき、「相手に通じる」はだいじですが、いっぽうで「じぶんに通じる」というところも、相手以上にたいせつだったりします。ちゃんと違和感なく、すんなりみずからに通じることば。じぶんが気持ち悪くないことば。社会で流通していることばや、他人から言われることばには、気持ちの悪いものがあふれていて、それはそれとして耳に入れつつも、気持ち悪いものをわざわざ取り入れて内面化する必要はないのです。

たぶん祖母にとって「グラノーラ」は意味不明で気持ちが悪い。「納豆みたいなの」なら、すんなりとみずからの腑に落ちる。ちゃんと受け取ってから、じぶんで気持ちよく言い換えればいいんです。あるいは意味を脱臼させて、おもしろがってやる。

ことばにちゃんと意志が宿るように、伝えたいと思う。「ほんとうはこんなこと言いたくない」と思いながら、死んだ目でことばを使うのにはもう、うんざり。でもそういう場面は、「社会人」として生きてゆくのなら、避けられないのかもしれない。「社会人」なんてわけのわからない肩書も、どうでもいいよと思うけど。社会人の皮をいちおうかぶっておくのは、とても重要なのです。これをかぶらないと、伝わるものも、伝わらない。

乱暴なことを書いたけれど、現在の「社会人」も尊敬はしています。わたしはでも、長いこの先の未来、わたしが死んだあとの、次の世代の自由をいちばんに考えていたい。時間の感覚を広げて。わたしの自由なふるまいが、そこにつながるようになれば、いちばんいいと思う。わたしが感じている、現在の不自由を次の世代へ受け継ぎたくはない。どこまでも自由なひとや、表現に魅力を感じてしまうから、わたしもそうする。

人間は社会的な生き物だから、我慢はだいじです。でも我慢のし過ぎ、させ過ぎは、鬱屈した空気が瀰漫してよくありません。そしてたいせつなのは、同時に、個人的な生き物でもある、ということ。ひとり。それを忘れてもいけない。その上で集団よりも、個人に力点を置いたほうがずっとおもしろいと、わたしは思ってしまう。

無職がこんなことを書いているのは滑稽で最高ですね。でも、どんな立場におかれてもわたしは、わたしの自由について、ひいてはここで生きる人々のことを思ってしまうのだと、さいきん観念しました。このアウトプットも就活だよ。「自由」だなんて、かんたんには言えないけれど。あちらを立てればこちらが立たず。利害調整に四苦八苦するおとなになるのかな。

「大志ある青年」みたいで、恥ずかしいことを言っている。ねーよ大志なんか。抱いてないから。一廉の人間にはなれない。なんら持たざる者が「どうせ」と思いながら、それでも「どうせ」のつづきを書いている。きれいごとも自由に言ってみる、やってみる。「あのひとは特別」みたいに、特殊化して切り離されるようではだめだろうと思う。ふつうに受け取られる、ふつうのことを述べたい。これを書き出したのも、ふつうの地点から。

ええっと、そう、なんの話でしたっけ。
あ、そうそう。ふやけたグラノーラ、おいしかったです。


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