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日記539


はぐれメタル。ちいさめ。
夜に負けて、溶ける寸前の。瀕死。

ひとの幸福に水を差すことは避ける。膝カックンしてやりたくなっても。河原で採集したオナモミを投げつけてやりたくなっても。あるいは、逆も然り。ひとの不幸に水を差すこともしない。同様に。マックス・ブロートがフランツ・カフカに向けて書いた「君は君の不幸の中で幸福なのだ」ということばを思い出します。

じっさい、不幸に見えても、不幸の中でたのしそうにやっているひとはいます。個人個人の目に映る、「美しい不幸」というものも、ありうる。悲運の軌道から描かれる幸福。いいじゃないですか。それが、そのひとに美的価値をもたらすのであれば。不幸の中でなら、凛として生きていける人間もいます。幸福が似合わないひと。たいせつなのは、美醜。あくまで、わたしにとっては。

幸福の絶頂にいる成功者のことばにも、不幸のどん底で這いつくばる者のことばにも、あるいは、なにもできずに途中で逃げ帰って、ケツをまくった半端者のことばにも、救われる人間はいます。大きな声で語れるような成功体験や失敗談がなくとも、半端に分岐したがゆえに、そこで存在したかもしれなかった過去を語ることができる。

ひとの人生は、いま目の前にある現在だけではなく、あり得たかもしれない可能性、という仮定法過去にも支えられています。もちろん未来における、あり得るかもしれない可能性、にも。過去にかすめた可能性のまぶしさに、目が潰れてしまうこともある。

いま『やれたかも委員会』という漫画のタイトルを想起しましたが、読んでおりません。いろんな場所で目に入るけど、読まず嫌いをしているかも委員会です。いまの自分自身に、それほど「やりたい」という欲がないから、あんまり乗れないのかな。「やれたかも」みたいな短距離の性的な欲求でまわる男性的なことばの経済圏に、いまいち乗れていないじぶんがいる。そのぶん読めば、遠い距離感からの感想が言えるかも委員会ですが、読む気にならない。

性欲がないわけではなくて、短絡的な性欲がつまんないと思う。あと「やれたかも」ということばに、一方向的なこどもっぽいリビドーを感じてしまい、欲動を全面に出した挑戦的なタイトルがゆえに、正面から敬して遠ざけたくなる。

でも、ひとりでよがっている男の子のいじらしさが、いいのかな、たぶん。「やれたかも」ということばは、過去形だけど、まだ終わっていない現在の地平を切り崩す力も含んでいると、なおいい。読む者にとっても、ノスタルジーだけではなく。きれいな「思い出」のままで、終わってしまわないでほしい。

きれいなもののその先。あるいは、汚れきったバッドエンドのその先の、先が見たい。誰もいなくなった世界にも、まだまだその先がある。消えた「かもしれない」のつづきが聞きたい。過去に置き去りにした未然の可能性から、地続きの現在が揺さぶられる。そういう漫画だといい。

これは『やれたかも委員会』というタイトルと、たったいまお試しで第一話を読んでみただけの感想と希望です。不十分な情報と先入観から、まことに勝手なことを言い散らかしている。ごめんなさい。だけど、読まないで想像しながらうだうだ言うの、たのしい。

『罪と罰』を読まない、という本があります。岸本佐知子、三浦しをん、吉田篤弘、吉田浩美の4人がタイトル通り、『罪と罰』を読まずに想像で勝手なことをおっしゃってから、ちゃんと読んだあとの感想も語り合って一冊にまとめた本。個人でも、両方やってみるとおもしろいかもしれません。事前に勝手な先入観の独断と偏見に満ちた想像を書き飛ばしてから、じっさいに読んでみた感想も書いてみる。

わたしは読書がそんなに嫌いではありませんが、「書評ブログ」などを謳って書いている方々の読書量と意識の高さには気おくれしてしまうタチなので、たまにはてめえで意識の低い書評をやってみるのもよいかもしれません。

施川ユウキさんの漫画『バーナード嬢曰く。』の主人公、ド嬢に共感しちゃう、ゆるふわ読書をしています。ド嬢は熱心な読書家ではないけれど、読書という文化がとても好きなキャラクターで、かわいい。わたしは、しょうじきそんなに好きでもなくて、かわいくない。ただ、じぶんの手元に残ったものがこれだった。「でもしか読書」みたいな。読書でもするか。読書しかすることがない。思えば書くことも、ぜんぶ追い詰められた末の「でもしか」かもしれない……。だけど、これがわたしのセーフティネットで、心のライフラインになりえたのは、たしかなこと。





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