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日記540


新しい朝が来る
夢をあとにして目覚めるけれど
なぜそうなのかはわからない

A new mornig comes.
I wake up leaving my dreams,
And I don't know why.

ジョン・ブロックマン編『知のトップランナー149人の美しいセオリー』(青土社)にあった詩の一部です。長谷川眞理子の翻訳。書いたのは、エルンスト・ペッペル。日本語の訳書だと『意識のなかの時間』(岩波書店)というものがあるみたい。絶版だそう。「絶版が惜しい」という複数の嘆きを見ました。気になります。

人間の意識ってたぶん、物理法則にちゃんと従っていない。いい加減な時間認識、空間認識でここに浮かんでいる。地球といっしょに。あんたたち、ちゃんとあたしに従ってよね!と物理法則に怒られそう。ちょっと男子たち!ふざけないで!って怒られそう。物理法則は女性なのか。風紀委員なのか。おさげの眼鏡っ娘なのか。なんでもいいけど。「いま」とはなんだろう。

答えを探し
説明を求め、
でも、それなしで生きていく

Looking for answers,
Searching for explanations,
But living without.

詩のタイトルは「信頼を信頼する」。心にひっかかった連を書き出しました。それなしで生きていく。いくら答えらしきものを説明しても、されても、まだまだどうにも埋まらない余白がある。でも「ない」って、空虚で不安な反面、とっても自由。「反面」ではなく相補的なのかもしれない。不安に駆動される、自由がある。

安心なんかしてはいけない。考えるときには。なんにも考えたくないときにだけ、安心したい。眠るとき。安心してふかく眠りたいがための思考でもある。

不安なことや、嫌悪感や、ちょっとした違和感でも逃さずとらえて検分しつづければ、だんだんとじぶんのことばのピントも合ってくると思う。じぶんのことばの焦点距離を測るために、不安と向き合う。

「知のトップランナー」みたいなタイトルの本は恥ずかしくて敬遠しがちだけど、載っている名前がほんとうにオールスターキャストな感じがしたから、図書館で立ち読みしました。しかし借りない……。きっと読んだらめちゃくちゃおもしろいと思う。さいきんこういう、つまみ食いばかりしていて、まったくきちんとした読書をしておりません。

「知」なんつってアカデミックな感じをぐいぐい押し出されると、引いてしまいます。コンプレックスがあるのか。よくない。わたしにとって知ることは、まず否定しないことです。だれにとっても、あたりまえかも。否定しちゃったら、その時点で、その対象について知ることはなにもできなくなります。

たとえば殺人事件があったとして、犯人を批難し頭ごなしに全否定するばかりでは再発防止策も出てきません。犯人の置かれた状況や行動や思考を分析して、詳しく知り、解釈することが同じ轍の予防にもつながります。まったくの同じ轍はないにせよ、最低限の可能性については思いが至る。大きく見れば人間のひとつの側面を知ることにもなるし、その人間が大挙してやっている社会の一部を知ることにもつながります。

なんでもあまり否定をしないひとは、やさしいからではない。知りたいからです。なぜそうなのか。不安で、わからない。埋まらない空虚。なんでもいいから余白を埋めておく自由を、行使したいから。目に入ったもの、聞いたもの、触れたもの、感じたものはとりあえず、ふところに留めておく。知ろうとする。でも、それなしで生きていく。


これは15分ほどでつくった、鶏挽肉を丸めてレンコンで挟んで焼いたもの。手早く料理ができるようになりました。レシピを見ずに、感覚でやるてきとうさを身に着けたため。レシピに忠実過ぎると時間がかかってしまいます。何度も読み直してしまうせい。火にかけてからのスピードがたいせつなときも、レシピの工程を参照しているうちに火が入り過ぎてしまう。くそ真面目さがある。地図を読み込み過ぎて、周囲を見ていないと逆に迷子になることと似ている。

地図なんか、レシピなんか、じっさいはいらんのだと思う。勘で思ったように歩いて、てきとうにやっていればいい。迷子になって遅刻してはいかんが、最低限の社会性があれば、それ以上の型にハマろうとはしなくとも、たぶん、わたしは大丈夫。時間に追われずひとりで道に迷うことはたのしいし、オリジナルでかんたんにつくった料理もおいしい。


***


書き留めておこうと思ったことを忘れないうちに。

「特別さ」は、良くも悪くも枝葉末節を振り捨ててしまう。細かいことは捨て置いて疾走することのできるひとは、「特別」になれる。

たとえば世界で活躍するアスリートの多くは、幼いころからじぶんのやっている競技に専心できた。ほかに無数の選択肢があるにもかかわらず、そこのみへ突き進む能力があった。野球に人生を捧げたり、スケートに人生を捧げたり。「人生を捧げる」なんて意識もしていないのかもしれない。物心ついてからもうそれを必死に掴んでいて、それしかなくて、それがあたりまえだったのかも。

悪い例もある。戦時なんかの特別な状況下では、民衆の生活は犠牲になってしまう。「いまは特別なときなのだから、犠牲になっても我慢しろ」という空気が醸成される。震災があったときにも、社会は特別な空気につつまれた。それはまさしく特別なときで、わたしの日常もすこし湧き立つようだった。かなしみによる自粛ムードで不必要な細部は切り捨てられた。「特別」の要件を満たす、大きな「必要」だけが残るのは、息苦しい。

でも特別な時間を経験することは刺激的で、たのしくもある。その代わりの副作用として、細かいところが見えなくなるのだ。恋愛でもそう。「特別」という光で目がやられてしまうと、その対象の枝葉末節にはブラインドがかかる。むかしっから言われる、恋は盲目ね。ふふふ。

逆に言えば、細部に目をつぶって恋するひとへと疾走できれば、そいつに特別な魔法をかけてあげることができる。わたしはいま、特別にさせてもらっている気がする。細かく視野を保てば、どうやってもだめさが目につくだろうに。ほかにも人間は無数にいるだろうに。ありがとう。ありがとう。

このようにヒトを「特別」へと駆り出す「枝葉末節を振り捨てて疾走する能力」には、いいところも悪いところもある。そしてたぶん、わたしは、この能力に欠けている。細かいことを気にしてしまう。特別にはなれない、ふつうの人間です。その場その場の特別な空気に染まり切ることもできない。床の染みやほこりを見つめてしまう。

わたしがよくじぶんのことを「ふつうだ」と形容するのは、こういうところなのかな。と思って、ちょっと書き出してみました。他人のことも、あまり特別視はできない。もちろん、じぶんにとって特別な意味をもつひとは複数いるけれど。盲目的に疾走したのではなく、ゆっくりと歩いているうちに、結果的にそうなった。

やたらとバランスを気にするからいけない。幾何学模様の均整が美しいと思う。そんなひとときのう、会話をした。そこが良さでもあるんだ、たぶん。どうでもいいけど、「たぶん」とか「きっと」とか多い。言い切れないなー。こんなんだから。そんなところ。




コメント

anna さんのコメント…
「特別さ」は良くも悪くも枝葉末節を振り捨ててしまうって話は、「あー、なるほどなあ。疾走するってそーいうことだよなあ。」って共感できました。といっても、私も普通の人なんで「わき目も振らずに疾走」した経験は寝坊して遅刻しそうになった時ぐらいですけど。
あ、それと最初の出だしのところ、ラジオ体操の時に歌う「あーたーらしぃい、朝がっ・き・た」で読んでしまったら全然違う内容でした。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「新しい朝が~」と言うとわたしも自動的に「希望の朝だ」と続けたくなってしまいます。どんなに抵抗しても喜びに胸をひらき、大空を仰いでしまう病にかかっている。ほんとうは哀しみに胸を閉ざし、路上に伏せたいのに……。ラジオ体操の歌がほとんど生理的なレベルでインストールされています。

そうですね、「わき目も振らず」がむずかしいのです。わきが気になる。「わき」と言うと自動的に脳内で「わき!わき!脇山口!」とおたこぷーが歌いだします。おタコビクスの一節です。奇しくも体操つながり。おたこぷーは福岡のローカル芸人さんです。こういう横道のどうでもいい雑念を捨て置けないのです。