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日記542


四角いかたまり。漫画のひとコマだったら「ゴゴゴゴゴゴ」と鳴ってる気がする。たぶん『童夢』のイメージ。超能力者の爺さんと少女が戦っている。





夜になって、お風呂に入って、歯を磨いて、終わらないことは明日にまわして「あとは寝るだけ」という時間がいちばん好きです。寝るのみ。シンプル。これを人生単位におし広げると、「あとは死ぬだけ」。そうなればわたしはいちばんたのしいのだろうと思います。余生。

ここ数年はじっさい「あとは死ぬだけ」と思っていたようなきらいもありますが、そうもいかないのかな……。そうもいかないのかな!!そうもいかないらしい。でもなにを強制されようがひそやかな姿勢としてのこの思いは保っておきたい。

同居している祖母はよく「やることがなくてつまらない」とぼやきます。やることがないなんて、最高じゃないかと思う。なんにもしなくてよいのです。逆に言えば、なにをしてもいい。いまあるもの、居残った自分を使って。あとは死ぬだけだよ。やることなんかなくっても、だいじょうぶ。なのに。





図書館の、その日に返却された本が並ぶ棚に『間違ってカレーが来ても喜べる人は必ず幸せになる』(マキノ出版)という本がありました。要するに、カレー好きは幸せになるんです。カレーの本です。

あれ、ちがうっぽい。高津理絵という方のご著書。スピリチュアル・カウンセラーなる肩書の人らしい。「幼少時より不思議な体験をくり返す」とプロフィールにある。うん。本はそっと棚に戻す。タイトルだけに触れて感想を書きたく思います。

もし飲食店で注文とちがうものがきたら。喜ぶことはないけれど、わたしはかまいません。たとえばナポリタンを頼んでイナゴの佃煮がきても、いや、首はかしげる。いちおう質問をして「間違えました」ということならば「べつにイナゴの佃煮もおいしいですからぜんぜん、せっかくだし、もったいないし」などと言って食べます。

ナポリタンもイナゴの佃煮も「食べ物」という点ではおなじです。食えりゃいい。あきらかに食品でない、花崗岩をお皿に乗せ「召し上がれ」とばかりに運んできたら、さすがに「わしゃ、ガッちゃんかえ!」と思いますが、食べ物の範囲であればかまいません。

それでも「ガッちゃんに見えた」とのことなら納得です。「クピポー」と言います。裏声で。だけど心配してしまう。疲れているのかな。店長に怒られないかな。ここはペンギン村じゃないんですよ。でも、そうだな。ペンギン村だと思いたい気持ちならわからなくもない。わたしも日本がペンギン村だったらいいなーと思う。そうだね。うわの空で。そっか。ならいっそここはペンギン村で、わたしはガッちゃんで、あなたはアラレちゃん?ニコチャン大王?なんでも、いいよね。

あるいはみんなでタピオカを頼んだのに、自分だけなぜか満漢全席の目に遭っても「おもしろいからいいや」に落ち着くと思います。この日は満漢全席を味わうために用意された日だったのだと納得し、腹をくくります。「もってこいや!」と迎え撃ちます。タピオカなどいらぬ!人生とは、そのくらいわけのわからないものだと常日頃から感じています。

そういえば、認知症の方々が働く「注文をまちがえる料理店」という期間限定の企画があって、そこでこんなステートメントが掲げられていました。


「こっちもおいしそうだし、ま、いいか」
そんなあなたの一言が聞けたら、
そしてそのおおらかな気分が、
日本中に広がることを心から願っています。


「まちがえる」を前提として掲げてしまえば、みなさんそれをたのしめるみたいです。まちがえても、まちがえなくてもいい。ただ「注文通りに料理がくる常識」だけが外される。すると一方向に振れない、ゆるい気構えが形成される。

一方通行の思い込みで自分を固めないようにしたい。「これが正しい」と完結してしまえばコミュニケーションをとる余地はなくなります。もし動かしようのない「正しさ」を得ることができたのなら、ガラスケースに入れて自分だけのものとしてたいせつに保管する。話し合いの余地はないのだから、自分の内側に置いておくほかない。疲れたときに立ち戻って静かに参照する。そんなものかなと思う。

認知症ではなくとも、人がまちがうことなんてあたりまえなのだから、たいていのことはなんだっていいんです。自分のことばがその通りそっくり実行されるなんて思っちゃいない。いかなるときも。予期せぬ事態だって、それもありだよね。おもしろいよね。くらいの感覚。そうして踏み外すところにたぶん、わたしが現れるのだと思う。


 一分の隙もなく楽譜に指示されているとおりに歌を歌えたとしても、それが人のこころを動かすことに直接はつながらない。たとえ技巧はへたであっても、楽譜どおりに歌えていなくても、その「理想とのずれ」には意味がある。息継ぎやため息のようなノイズにさえ魅力はある。歌っているのはたしかに人間であって、「こう歌おうというプランの機械的な達成」ではないことを感じとらせるからだ。 
 人間が万能であったら、芸術はうまれないと思う。ひとは完璧をめざして達成できず、理想の筋道を思いえがいてそれを踏みはずす。その失敗のありさまや踏みはずし方が、すなわち芸術ということなのではないだろうか。


渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書)より。「理想」や「完璧」を否定するわけではなくて、目指すべき完璧とうまくいかない現実のあいだの、その差分に一個の人間がいる。きれいに収まりきらない、どこにも回収されず、とり残されたものとしてわたしがいる。

ほんとうは正しくありたい。
完璧でいたい。
みんなと一緒でいたい。
でもそうではない。
そうではないから自分だった。
そうではなかったから。





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