スキップしてメイン コンテンツに移動

日記543


むかし呑み屋さんで高畑勲の話をしていたら店主からもらいました。かぐや姫の物語、プロローグ。宣伝のために配っていたのかな。宣伝だとしても、いただけたのはひとえにわたしの人徳です。いつも路上で知らないひとからポケットティッシュをたくさんいただけるのも、むろん、人徳です。なん往復しても配ってもらえます。ポケットティッシュ長者です。年に数回おまわりさんから職務質問をされるのも、わたしのたいへんな厚徳からにほかなりません。任意で事情を質したくなるほど徳が厚いのです。

仏門に入れば、それはもう徳の厚くて高い僧侶になれそうな気がします。人生の半分は丸坊主で過ごしているし、「坊主以外の髪型にはしない」とこのごろじぶんを見限ったので、髪型の部分に限っては、すでに僧侶ですと言い張っても過言ではないでしょう。

はい。金曜ロードショーで『かぐや姫の物語』が放送されていて、後半だけ観た感想を記しておこうと思ったのですが、時間が経ってしまいました。いまは5月21日、月曜日の昼。感想は、浮かんだ瞬間にその気泡が沸騰したままの熱量をもって書き留めておかないと忘れてしまいます……。即興でしか書けない。なんだかすべて忘れてしまうね。

いま思い出せる、ひとつの場面についてだけ。この映画は過去に2回くらい観たけれど、いつも居心地が悪いのは、捨丸とかぐや姫が手をつないだり抱き合ったりしながら地球を飛びまわるところ。描かれるすべての色が鮮明になるシークエンス。単純にふたりのイチャイチャが気恥ずかしい。それと、あの多幸感を担保しているものは、忘却のうちにしかないのだと感じてしまって。

なにもかも忘れて飛びまわる。いつか月に帰らなければならないことも。そう、飛びながら月が視界に入ったとき、かぐや姫は思い出して取り乱す。そして、落下してゆく。わたしはそこで、安心する。ほら、うっかり、忘れていたよね。メメント・モリ。あのシークエンスは「うっかり」が見せる美しい夢。ひとは、うっかりします。そこにたぶん、幸福がある。あそこで居心地が悪くなるわたしは、あんまり、うかうかできない質なのかな。


幸福は忘却のなかにあり、記憶のなかにはない。
少しの忘却は記憶から遠ざかり、多くの忘却は記憶に近づく。
忘却は人を結びつけ、記憶は人を離れさせる。
記憶は、忘却よりもしばしばわれわれをあざむく。


ジョルジュ・ペレックの警句めいたことば。これがあったのは『考える/分類する―日常生活の社会学』(法政大学出版局)だったかな。わからない。数年前につけた読書メモから。メモには「ペレック」とだけ。不親切な過去のじぶん。

ときに自他の境界でさえ、うっかりと忘れてしまう幸福な時間がある。その幸福も、ひとたび過去の記憶に変わってしまえば、いつかわたしをあざむくのだろう。二度と再現はできないうっかり。「うっかり」には再現性がない。記憶できない。しかし、そうした空を掴むような幸福な時間の、言うなれば忘却の記憶が、ひとの生きる糧にもなっている。なにがあってもまた忘却できるという、希望にも。

「うっとり」ということばもありますが、すこしちがう。こちらはほんのり能動性があるイメージです。 「うっかり」はやろうと思ってもできない。受動的な不注意。意識できない、与えられた束の間の忘却。その隙間に幸福を見てしまう。どんな「忘れるな」という警告も無視し、地球の物理法則まで無視し、すべてを突破して鮮やかに飛躍する。そんなシークエンスだったと思う。空の色が変わる。ほかの色は、忘れる。あそこでいっしょになってすべてを忘却できれば、おそらく、居心地が悪いこともないのでしょうね。

以前からずっと思うのは、幸福な感性が働くときの時制は、徹頭徹尾“いま”しかないのだということ。あとでは飛べない。あのとき、あの瞬間だけに許された空を飛ぶ方法が、かぐや姫と捨丸にはあって、ほかのあらゆることすべてはどうでもよかった。飛ぶだけだった。だからふたりは、飛べた。

かぐや姫が“いま”ではない“いつか”の、月へ帰る未来を思い出してしまい、飛行は終わる。じぶんが地球の者ではなく、月から来た者であるという過去も同時に引き出されたのかもしれない。“いま”だけを享受できなくなり、落下する。多くのひとは、いくつになっても未来のための準備に汲々とした人生を送っている。過去の幻想に思いを馳せる。それも悪いことではありません。いいことでもありません。そういうものです。


ルドン展、最終日に行きました。会期は5月20日(日)まで。わりと混雑。三菱一号館美術館。チケット購入の列に並びながら、読書がすすむ。ルドン展だから、うどん県のひとは無料でご招待、みたいなキャンペーンをやっていたみたいで、はじめ聞いたときはちょっと閉口しましたが、思い直して、いいと思います。そういうの好きです。

ルドン展はプノンペンとも語呂が合うので、カンボジアの方も無料にすれば、なおよかったです。猫ひろしは無料です。「烏骨鶏」でも韻が踏めるので、カフェで烏骨鶏卵を使用したメニューなんか出せばもっとよかったです。どうせなら「うどん県」以外でも踏みまくってしまえばいい。

意味的なつながりではなく、音韻から接点のないものをつなげるという発想は素敵です。意味にとらわれない拡がりをもつ。

ルドン展。

わたしがルドンを知ったのは、J.K.ユイスマンスの『さかしま』から。フランス文学。と書いて、かっこうつけようとしましたが、そうではありません。「このロリコンどもめ!」というネットのコラージュ画像からでした。水木しげるが描いた妖怪、バックベアード。元をたどっていたらルドンに行きあたり、最初はそこから惹かれたのです。

うつろな白黒のイメージが強かったのですが、展示ではとても鮮やかでやわらかい黄色が印象に残りました。ミモザの大きな絵。ルドンのテンションの高さがわかるような。「あそこで生えてたミモザすごい綺麗だったんだよね、ほら、こんな感じの、わかる?やべーっしょ?」とルドンから話しかけられているような電波を受信しそうになりましたが、ギリギリで着信拒否をしたのでわたしは正常です。


写真撮影が可能なコーナーで撮りました。これは複製です。たくさんのひとがカメラを構えていたので、ひとりひとりの画角に入り込まないように、しゃがんだりのけぞったり奇妙な動きをしながらフォトスポットを脱出しました。回避力が3上がりました。

展示の序盤でキャリバンの絵と目があったとき、これがわたしの中のルドンだなーと思いました。あまり色のあるイメージがなくて、しかし花や蝶の造形とその色彩も素敵でした。主線のないふわっとした絵がわたしは好きみたい。

目玉の《グラン・ブーケ》は展示の仕方も演出として「どやっ!」という感じで、やられました。ルドンもそうですが、館長の高橋明也さんの感性も伝わってくる。「ねえねえ、これマジでいいっしょ?」っていう。見せたくてしょうがない、みたいな。嬉しさがわかる。うん、すごくいいよ。披露していただいて、ありがとうございます。絵画だけではなく、美術館の空間演出も堪能できればおもしろい。

さいごにアンケートと、絵の人気投票ができるコーナーがあって、律儀にタッチパネルで入力。《『起源』Ⅱ. おそらく花の中に最初の視覚が試みられた》という作品がタイトルも含めて好きでした。でもこれは投票できなかったと思う。たぶん。それか見逃していたかもしれない。すこし思案して《花:ひなげしとマーガレット》に投票しました。《ドムシー男爵夫人の肖像》とまよう。夫人の超然とうつろなまなざし。観ながらドムシーん家は、ルドンの絵がいっぱいあっていいなーと思いました。

投票結果は、やはりでかい花の絵が上位を占めていました。そうなのかー。ひなげしとマーガレットは、ささやか過ぎるのか。わたしが「ルドンっぽい」と思う色のないすこし不気味な絵も不人気そう。あざやかで派手めなお花が人気。

ミュージアムショップで図録を買ったので、時間があるときにゆっくり読みます。『ルドン 私自身に』(みすず書房)が欲しかったけれど値段をみると4,000円以上して断念。図書館だ。図書館で借ります。いつも図書館に感謝。


それから、友人と待ち合わせてネパール料理を食べました。

新大久保のアーガンというお店。真ん中の乾いたお米はチウラというそうです。いま調べました。なかなかのハードコアなネパール料理でございました。「あたいらネパール人はジャップに媚びない」みたいな姿勢が感じられて最高です。ガチのネパールを堪能できます。細かく注文すれば、日本人向けに調節もしてくれたようですが、細かいことは言いませんでした。細けえこたあいいんだよ。

とはいえ辛味がわたしにはけっこうガンガン来て、食べながら涙目になってしまいました。でもおもしろかったです。この店を選んでくれてありがとう。半泣きだったけど。味がどうとかよりも、おもしろかったです。エキゾチック・ジャパンです。めっちゃおもしろいです。はじめてのネパール料理。いいお店でした。

お店をあとにしてから、夜聴の会というイベントに行ったのですが、それは後日また書きます。きょうはここまで。さようなら。

コメント