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日記545


これはきのうのわたしの体重です。
スマホで撮りました。

どんどんやせてゆく……。食べた量の2倍うんこが出ているのではないか。いわゆるひとつのダークマターが食べ物の消化過程に加えられて、出ちゃうのでは。解明されていない未知のわたしの中の暗黒物質がうんこに溶け込んで排泄されている。暗黒、つまり、あんことうんこがないまぜに。わたしの中の未知の物質が排泄されると、人間的な固有の謎領域がなくなってわかりやすい単細胞な生き物に生まれ変われるのかもしれない。やったね。シンプルに生きよう。ゾウリムシみたいに。

いや、しょうじき受け入れがたくて隠していたのですが、今月のはじめごろ、ひさっびさに体重を量ったら、減りまくりでもう。じぶん60kgくらいと思っていたから。「この体重計、こわれてるのかな」と5回くらい量りなおしました。おなじでした。親父を呼びつけて「ちょっと乗ってみて」と指示をし、乗せたら、親父の体重は「ふつうだ」とのことでした。そんなはずはない。

わたしの足の裏だけ、ちょっと重力の作用が弱くなりだしたのではないか。もしかしたら、ほんのり浮いているのかもしれない。その可能性も否めない。芸人のケンドーコバヤシさんがむかしラジオで「美輪明宏は、よく見ると地面から数センチ浮いている」と証言しておられたが、わたしもそういう人種なのかもしれません。いつでもホバリング。ひとのオーラが見えるかも。がんばれば。がんばらないけど。

……仮説はいろいろとかんがえられます。
がしかし、いちばん有力な説を認めたくないじぶんがいます。
単純に、やせすぎだろ!

体重も量らずに「太ったなー、やせなきゃ」と半年以上、それだけを思いつづけていたら、知らぬ間に20kg以上もやせていたという。無意識ダイエットです。ひとは思い込みだけでやせます。「やせなきゃ」を意識に刷り込むだけでおもしろいようにやせます。昨年の夏まで60kg台だったのです。ほんとに!!

無意識ダイエットは冗談ではなく、「運動を想像するだけで筋肉は強さが保たれる」という研究の結果もじっさいに出ているそうなので、もしかしたら「思う」でやせる部分もあるのではないでしょうか。もちろんじっさいの運動も肝要です。

わたしの身長は170とすこしあります。なんかさいきんあたし、腰のくびれがセクシーになってきたなーとか、身体のシルエットが妙に薄っぺらくなったなーとか、エヴァ初号機みたいとか思っていたら、すげーやせていてビビりました。笑って口角を上げたときに、首の皮がやたらつっぱるなーと思っていたのも、やせているからでした。

こんなにやせるつもりはなかったんです。そんなつもりなくて。こんなはずじゃなくて。たしかにやったのはわたしですが、そんな意図はなくて。でも結果としてはこうなってしまって。それは認めます。重大な結果を引き起こしてしまった。根本の原因はすべてわたしにあります。ごめんなさい。約20kg。5歳児ひとりぶんの重みが消えた。

「こうする」と決めたことにハマるとストイックにやりすぎてしまうところがあるので、いけません(ハマらない場合、早々にあきらめる)。このまま「やせるマインド」を続けていたらどんどんちいさくなって、最終的に、3ピコグラムになります。つまり、ピコ太郎になります。そうなればもうジャスティン・ビーバーに見初められて世界へ羽ばたくのは時間の問題です。めでたしめでたし。

バランスをとるために、こんど「太るマインド」に切り替えたら、逆にやりすぎて百貫デブになる可能性が高いです。おすもうさんになってしまう。相撲部屋に入り、デビューを果たせば意外と小結くらいまでいけるかもしれません。日本人力士の期待の星になれるかもしれません。どう転んでもハッピーエンドでこまる。成功する予感しかない。なにがあっても。

ともあれ、もうすこし太れ、という意識を盛り上げるために、ここに体重を公開しておきます。これからめっちゃ太ります!曙くらい目指す!最低限、55kgくらいまでは戻す。


5月20日(日)

夜聴の会。大久保のスタジオON AIRでOVUMというバンドのアルバム『In My Sanctuary』をじーっとただ聴きました。スピーカーに近い前列の席で聴いていたせいか、けっこうな轟音。肌にビリビリくる、ぐらいの。これは家ではできない体験。


ストリングスからすーっと入り、アルバムが展開してゆく。聴き終えたあと、OVUMの面々が制作についてトークをするコーナーで、リーダーのChibaさんは映画がお好きだという話が出たので、わたしがこのアルバムの波音と曲調から連想した映画を帰り道に思い出していました。

いくつかの曲名にタルコフスキーの映画のタイトルをつけている。「タルコフスキー」なんて言われると、いかにも映画好きな匂いを嗅ぎ取って気後れするわたしです。反射的に「シネフィル」ということばが浮かぶ。もはや死語か。下手なこと言ったら怒られるんじゃないか。ははは。タルコフスキーに惹かれるひとは、美意識が高そう。だけど、おそれながら。


天国じゃ、みんなが海の話をするんだぜ。


トーマス・ヤーン監督、97年公開のドイツ映画『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』。個人的に、これではないか。これの感じではないか。『In My Sanctuary』の聖域と天国も重なる。なにより海。あるいは水の流れるような印象。絶えない音の洪水。海という聖域へと転がるロードムービー。

「水」というモチーフはタルコフスキーの映画を語るときにも、決まって持ち出されるけれど、詳しくは触れません。それについてなにか書ける筆力もない。ともあれ、水はすべての始まり、根源をあらわすものでもある。

轟音の『In My Sanctuary』を聴きながら、おしっこを死ぬほど我慢していて、ものすごくギリギリで、かなりこう、尿意を促進する音楽だとも思いました。これもまた「水」、言ってしまえば聖水です。じぶんの聖水の世界で溺れておりました。要するに「In My Sanctuary」なのです。きょうもとめどなく流れます。日々、流れます。世界中の人間が垂れ流すみずからの聖水。In My Sanctuary。すごい、すべてが「水」というキーワードでつながる。気がする。

おしっこの我慢には緊張がともないます。身体がこわばります。おしっこをリリースするときには弛緩が必要です。「尿意を促進する」ということは、つまり身体の解放を促進することと同義なのです。すなわち、肌にビリビリときてお腹の芯まで届く轟音がここちよく、いっそリラックスしたかったのでしょう。緊張を強いる音楽ではなく、身体を委ねることのできる音だったと思う。「尿意を促進する」という意味はこういうことです。

しかし力を抜くとおしっこが漏れるため、弛緩するわけにもいかず、緊張と緩和のはざまにおける葛藤を繰り返しながら『In My Sanctuary』を大音量で聴くという、このような特殊な体験をできたのは、おそらくわたしだけでしょうから、これはちゃんとことばにしておく義務があるのだと思います。おしっこの我慢からも、得られる情報はあるのです。すべては読める。

おしっこを我慢し震えながら、さいごのほうはほとんど恍惚状態でみんな水分になって魂が溶け合う、新世紀エヴァンゲリオンの人類補完計画のようなイメージが浮かんで、補完されてしまう身の危険を感じていました。その後、トークでアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり(Childhood's End)』からも曲名を拝借している、というお話があって、人類補完計画とつながるやんと思い、極私的にその符合っぷりがすごかったです。ただ、極私的が過ぎます。

という感じで。

お客さんからの質問コーナーは、音楽のテクニカルな質問が多くて、たぶんわたしのようなふざけたアホが率先して手をあげて発言の幅をひろげたほうがよいのだろうなーと反省しました。この会に限らない。なんでも。ずっと思うけど、勇気がないなー。なんて言うのはやめる。これは決意表明です。アホ代表としてアホな質問を積極的にする。

あ、さいごに、これは絶対に書いておかなければなりません。休憩時間にトイレの順番をゆずってくれた方、ほんとうにありがとうございました。救われました。メシアです。メシアTHEフライです。手を合わせて感謝したい。

そういうことも含めて、素敵な夜でした。
いっしょに来てくれた友人にも感謝。
ありがとうございました。さようなら。

コメント

miyaji さんのコメント…
『In My Sanctuary』が聖水だというhoshinoさんの私見には意外と普遍性があるのかもしれません。
なぜなら、過度なある種の―――抑圧、または、解放―――による社会逸脱行為は、我々人類が聖域を確保する営みと深い関係があるからです。それは言い換えると、宗教性、および、変態性は神秘性と密接なつながりがあるということになります。

まず、変態性と神秘性のつながりにおいてお話させて頂くと、
我々は過度な欲望の解放により神秘性を享受する生き物であることをお話しせねばなりません。
例えば、バタイユの『眼球譚』において、主人公は仲のいい女友達とおしっこ、すなわち、聖水を掛け合う営みに享楽を覚えます。それどころか、彼らは聖女や僧侶を小便で水浸しにすることに愉悦を味わった末に、最終的に自らが僧侶の格好をして旅立ってしまいます。要するに、この作品は過度な欲望の発露による変態性が神秘性と関係していることを示唆しています。
他方、ジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』において、世界で一番下品な人間の座を競い合うディバンズらとレイバンズらは相互に、相手が自分の俗悪さを凌駕するような営みに対して、「神聖を汚した」と口々に嘆きます。つまり、ここにもバタイユの『眼球譚』と同様に、過度な欲望の発露による変態性が神秘性と関係していることが示唆されています。

次に、これらに対して、宗教性と神秘性とのつながりについてお話させて頂くと、
我々は過度な欲望の抑圧により神秘性を享受する生き物であることもお話しせねばなりません。
実際に、敬虔なキリスト教徒らはイエス・キリストのために、社会一般では見過ごされてもよいような様々な些末な利己的な欲望を隣人愛という名の下に、徹底して抑圧します。そして、その抑圧は利他行為へとつながる。したがって、我々はその過度な欲望の抑圧に対して、社会一般における人間の在り方として、ありそうもなさ、ゆえに神秘性を見出します。

最後に、上記の宗教性および変態性が神秘性と密接な関係があることをまとめさせて頂くと、
両者の共通点とは、社会一般からの過度なある種の逸脱(欲望の抑圧、または、解放)による人間存在としての在りそうもなさ故に神秘性があるところ。
一方で、両者の相違点とは、社会一般の過度な逸脱行為の方向性が、欲望の過度な抑圧にあるのか、それとも、欲望の過度な解放にあるのか、というところです。

長くはなりましたが、結論としては、今回、hoshinoさんがOVUMの『In My Sanctuary』、すなわち、聖域、がおしっこ、すなわち、聖水、と結びついたことには、hoshinoさんの私見を超えた普遍性がある出来事ともいえるのです。その理由は、本来ならば、hoshinoさんがトイレに行けば済むことなのに過度におしっこを我慢をしたことによるそのおしっこ抑圧体験が宗教的な神秘性を伴ってしまったからです。例えると、一般人ならば映画の途中で気楽に席を立ってトイレに行くだろうところを、敬虔なキリスト教徒が教会での讃美歌を合唱する際におしっこを過度に抑圧するような在りそうもなさがそこにはあるからです。一方で、本来ならば、OVUMの『In My Sanctuary』を清聴するところで、hoshinoさんはおしっこを我慢することよって、周囲の人間とは異なる自分の特異な体験に興奮することよる変態性に神秘性が伴っているからです。例えると、満員電車の中でスーツ姿の自分の下着が女性もののブラジャーとパンティーであることに誰も気づいていないが自分だけ知っているという事実に興奮しているといった具合でしょうか。おそらく、想像力の豊かなhoshinoさんのことです、『夜聴の会』で小便をぶちまけてやったらさぞ楽しいだろうなと在りそうもない状況を想像して興奮もしていたことでしょう。

上記の理由によって、やはり、hoshinoさんの『In My Sanctuary』と結ぶ着いたおしっこは、単なる私見を超えた、普遍性のある聖域といってよいでしょう。しかも、特筆すべき点は、hoshinoさんの場合は、単なる宗教性や変態性による片側だけの神秘性ではなく、その相反する両方の概念が同時に押し寄せることによって―――OVUMの『In My Sanctuary』がストリングスとロックによる静謐さと混沌さ、すなわち、宗教性と変態性の二重奏だったように―――確保された聖域だということです。すなわち、あの瞬間、あの場所で、hoshinoさんはOVUMのメンバーだったんですね、、、

補足にはなりますが、ここから議論を更に展開させると、『野鳥の会』のOVUMの『In My Sanctuary』のストリングスとロックの大音量の二重奏とは、語弊を恐れずにhoshinoさんの体験を普遍化させて考えると、夜のおしっこぶっかけ祭り、だったということになりますね。そして、そのおしっこぶっかけ祭りで、おしっこを我慢している人間が一番、パフォーマーと心を一にしていたなんて、、、あぁ、矛盾こそが真理、なんて、不可思議かつ奇天烈で素敵な世界ですね。

ということで、少々長くなりましたが、スプラッシュマウンテン顔負けのおしっこにびしゃ濡れ祭りにお呼び頂きありがとうございます。本当はこれがいいたかっただけなんです。後、ネパール料理もさぞ辛かっただろうけど、付き合ってくれてありがとです。減量の原因の一途を自分が担ってるのかと思うとムネアツです。

では、ナマステ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
なんかやべえやつからコメント来たな、と思ったら「いっしょに来てくれた友人」じゃないですか。やばいコメントをありがとうございます。おしっこからのバタイユとの接続は示唆に富みますね。汚物と聖性、そして宗教、神秘。全体としてメアリ・ダグラスの『汚穢と禁忌』(ちくま学芸文庫)ともつながる人類学的考察だと思います。

ほんきで考えれば、そこまで普遍化できたのですね。
おそれいります。よくがんばった。感動した。

そうそう。伝説の悪趣味映画『ピンクフラミンゴ』の主演をつとめたディヴァインは、伝記が出版されていて、そのタイトルが『聖ディヴァイン』なのです。「現代の聖者伝」というふれこみで青土社から出ています。著者はバーナード・ジェイ。訳者は栩木玲子。

そうね、あの映画でのディヴァインという役者、そして『ピンクフラミンゴ』自体にも、下品なあまりの超越的な聖性が宿っていました。ばっちり論理が一貫しています。

逆にタブー化の抑圧が神秘性を担保する、というのはわかりやすい宗教社会学的なお話ですね。ヒンドゥー教における牛を食べることのタブー(聖牛崇拝)など、逆にケガレからの食のタブーもありますね、聖性とケガレは表裏一体みたいなところがあります。切り離せない。

つまり、しなくてもよいおしっこの禁止(逸脱とタブー)をみずからに課すことによって、あの瞬間のわたしは宗教性を帯びて聖者たりえたという、なるほど!よくわかります。まさしく『In My Sanctuary』状態だった。OVUMと一体化していたのですね。

満員電車でこっそり下着が女性もの、というたとえはものすごくわかりやすいです。miyajiくんもそういうことで興奮していそうだと思う(偏見)。

矛盾として見るのはおもしろく思いますが、おしっこぶっかけ祭りの中で、さらにおしっこ我慢祭りが展開されていたと考えるとすっきりします。祭りの中で聖域があらわれ、さらなる祭りが生じるとき、その祭りの中の祭りの渦中にいる人間は聖者になるのです。

もはやなにを言っているのか、いや、さいしょっからなにを言っているのかわかりませんが、そういうことなんですね。わたしとmiyajiくんだけがわかればいいか。

ネパール料理の事故っぷりはおもしろくて最高でしたよ。ネパールの洗礼をありがとう。翌日、お通じが異常によかったので、たぶんあれで2kgくらいやせましたね。食べた量の2倍うんこが出たよ。

ではまた。ナマステ。