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日記547


ちょっと前の、刑務所からひとりが脱走した事件のニュースで、警察が逃げる受刑者を追いかける際に「待てー」と叫んだそうですが、なにか逃げるものを追いかける際、たいていはそのとおり待つはずもないのに、ひとが「待てー」と言っちゃうのはふしぎです。銭形警部ごっこでしょうか。「むぁーてルパーン」とわたしだったら言いたくなりそう。だみ声で。

何年か前に出会った、逃げた飼い犬を追いかけているらしきおじさんのことを思い出します。「犬、見かけませんでしたか?」と不意に聞かれ「なんか向こうにいましたねー」とわたしがこたえると、おじさんは大声で「待てー」と叫びながら走り去っていったのです。ふしぎです。漫画みたい。

まず犬に「待てー」と話しかけても、相当しつけが行き届いていなければ通じません。とはいえ犬が目に見える範囲にいるのなら、まだわかります。おじさんは、そもそも目の前に逃げた犬がいないにもかかわらず「待てー」と声を張っていました。虚空に向かって。そうか、ああ。いま「虚空」と書いてみてなんとなく腑に落ちました。あれは、祈りだったのかもしれない。

ことばは、コミュニケーションのためだけにあるのではなかった。ふとした瞬間、ひとは祈ってしまう。それと知らずに、こいねがうものをことばにしている。対応物が具体として存在しない、からっぽなことば。その場にいない犬への「待て―」は、届かぬ願いです。逃げる受刑者を追いかけるときの「待てー」には、もうすこし容量が入っているけれど、これにもカラの祈りが混ざっている。

銭形のとっつぁんが「むぁーてルパーン」と言うのは、祈りもありますがコミュニケーションの要素が大きいと思う。ルパンも待たないけれど、あのふたりは知り合い。名前を認識しあっている。銭形警部の声も、ことばの意味も、ちゃんと伝わったうえでルパンは逃げている。「待て」への回答として。その回答を銭形も了解し、楽しんでいるふしがある。つまりは「ごっこ」です。

ことばのフィクショナルな領域を了解し合い、その土俵にお互い乗って伝達し合う。コミュニケーションはすべて「ごっこ」だと以前、じぶんで書いていたことを思い出しました。

脱走した受刑者に警察が「待てー」と言うのは、「ごっこ」というフィクションの構図をつくろうとしていて、やっぱり祈りよりもコミュニケーションを図ろうとしたのかなー。犬おじさんの「待てー」は、祈りの空回り要素が色濃くありつつ、やはり「逃げた犬を追うごっこ」に自己をはめこむという自分自身へのコミュニケーションでもあります。 

ことばはそもそも実体のあるものではなく、フィクショナルな性質を宿しながら機能しているから、その意味でも「ごっこ」です。たとえば、りんごがあるよーん、とここに書いても実体として現にりんごが存在するわけではありません。あるのは文字だけ。ディスプレイの放つ黒い光の線だけ。

「りんごがあるよん」といま書いて、このことばが「伝わる」ということは、わたしが提示した「りんごがあるということにして、りんごがここにあるごっこに乗ってほしいのです!」という願いが通じたのです。「伝わる」ということは、「この指とまれ!」にとまってくれた、ということなのです。


 ことばで表現されたものは、現実そのものではない。似ているが異なるものだ。いま見たもの、触れたことはこういうものであってほしい。そんな夢と期待が、ことばとなって現れるのだ。


荒川洋治『文学のことば』(岩波書店)の冒頭にあった文章。その通り、どんなことばにも、やさしくて残酷な希望の香りが染みているのだと思う。「死にたい」と書いたって、それをことばとしてあらわすこと自体が希望にまみれている。

死への希望、生への希望、どちらか、あるいは両義性をはらんだ表現かもしれないし、まったくべつの願望の代替表現なのかもしれない。ひとは祈っている。いつだって残響のようにただ音の羅列を繰り返して。個人のブログなど、祈りの最たるもの。ここはわたしひとりの、ことばの聖域。教会だった。


 5月30日(水)

湘南工科大学へ行って、事前に許可をいただいていた鷲北貴史さんの社会学の講義にもぐってきました。鷲北さんは「大宮ラヴ」のTシャツを着てふつうに、なんの違和感もなく非常にナチュラルに登壇。だれもその珍妙なTシャツについてはもはやつっこまない、日常と化しているのでしょう。

前半はとても興味深い文化の講義。昭和歌謡の変容。詳細な内容は書きません。講義後半の話から、上記の話題とつなげるように、感じたところをひとつ。ゲストでタイガーモブという会社の代表取締役、菊地恵理子さんが登壇されて、あれこれお話をしてくださいました(菊地さんも大宮ラヴTを着用。ペアルック!)。


人間はその人の思考の産物に過ぎない。人は思っている通りになる。

 
菊地さんは、まとめとしてマハトマ・ガンジーのことばを引いて、「THINKからACTION」という実践的で啓発的な声をとどけてくださりました。印象的だったのは海外(中国だったかインドだったか)の起業について「多産多死」というデータをあげて「会社がたくさん産まれて、たくさん死ぬんですよー」とおっしゃっていたこと。死んだってかまわないんです、というスタンス。

生と死の循環。THINKとACTIONの循環が、わたしの中でつながります。THINKとは、まず自我を生み出すこと。そしてACTIONは、生み出した自我としてのTHINKを身体化して実現し、可能性を殺してゆくこと。そこからさらなるTHINKが生まれ、また次のACTIONにつなげてゆく。人生はたゆまぬその循環。

思考という希望にフィジカルを預けて殺し、ふたたび思考を立てる。その連続を何度も繰り返して生きてきた、いまも猛スピードで生きている方なのだと、感じました。菊地さんにとっておそらく、じぶんがじぶんで居続けるためには、そうするほかないのです。

願いが現実としてかなえば、願いが願いとして存在した状態は死にます。願いを願いとして夢見つづけることは、甘美なもの。その甘美な「THINK」を暴力的なまでにふりきって、フィジカルに落とし、具体化し、人生を疾走しつづける菊地さん。

講義が終わったあと、すこしだけ雑談しているところを傍から眺めていて(わたしは話していない)、身体的な所作のレベルから冷徹なまでのスピード感と具体性を感じました。基調として余分さがあまりない。見切りというか、シンプルな切り捨ての早さがあると、ことば選びからもなんとなくわかる。

ことばと身体の距離が近い。「わたしはこう言えば、こう動くのだ」という身体を通じた意志を宿したことば。THINKの次には、つねにACTIONが念頭にある。なにより、こういうぼんやりした意味のない印象をうだうだ語るヤツを嫌いそう(勝手な想像ですみません)。ははは。

おそらくわたしとは対極な「速い・早い」時間を生きているお方で、基本的にスピードがあればあるほどよい、という価値観に行為が根ざしており、それだけにとても参考になるお話と姿勢を学べたけれど、ちょっと怖くて近寄りがたいところがありました。

わたしのいままでを振り返ってみると、すべてが遅いし、ゆっくりとした時間に身をおいて、ぼんやーりすることがなにより好きなのです。ひとの希望を、希望のままで見つめていたい。あなたのことばをことばのままで、願いを願いのままで愛したい。

実現なんかしちゃったら、消えちゃうじゃん。いや、消えないまでも、過去になる。時間を止めたいと、ずっとそう思う。止まらないのにね。

なにも始まらずに、なにも終わらずに、ずっとそこに手付かずの無垢な希望があればいいと、思ってしまう。空想主義者です。「ロマン」なんて横文字のかっこいいものではない。ただの空想なんだ。からっぽの想いだけを愛している。人生は、からっぽである。

だけど、そんな絵空事は「社会」に通用しないから、具体的な身体をぶつけて、さらして、THINKを絶えず体現し、失敗したり実現したりして、その空想を捨て去りながら生きる必要がある。思考だけのからっぽな理想を殺して、殺して、殺して、殺して、はじめに持っていた無垢な想いも薄れ、なにもかも忘れ去って、わけがわからなくなってもなお、まだ尽きぬ思考を具体に落とし、ぐちゃぐちゃにして、殺して、それでも。

多かれ少なかれ、ひとは、そうやって生きているのかもしれない。たぶんね。

わたしはヒマな日々が好きだけれど、いつだって脳みそはヒマじゃない。「思考だけのからっぽな理想」とは、わたしにとって、書物のことだった。希望が希望のままで具現化した、ことばのかたまりが、わたしにとっての本だった。だから本が好きで、本の中の時間に生きていた。いまも、本に綴じられたような静止した時間を、生きているのかもしれません。しかし本の時間も、ひとたび開いて文字をたどれば、動き出す。

耳ならもう十分、貸してきただろ。こんどはお前の音を鳴らせよ。鳴らしていいんだ。その祈る手を切り取って掲げろ。眼をくり抜いて、身体を引き剥がせ。栞を挟んだままのページから。めくってもめくっても次のページがまだあるから。この本の紙数は、尽きないから。

わけがわからなくなってからが本番です。







帰り道でラジオを聞きながら思ったこと。

「保守主義」というときの「ほしゅしゅ」が好き。かわいい。「ほしゅしゅ」がせっかくかわいいのに、「ぎ」で台無しになる。主義はどうでもいいです。「ほしゅしゅ」までにしてくれ。意味は未確定なままにほうりだして。

ほしゅしゅ!ほしゅしゅ!


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