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日記551


先週の水曜からのわたしの疲労っぷり、そしてその後の脱力っぷりたるやたいへんなものがありましたが、ただ通過しただけでぜんぶ“これから”なのです。人生ね、ちゃんとしてこなかったから。それは、「できなかった」部分もあれば「してこなかった」部分もあります。意志によるところと、よらぬところ。でも、総括としては「してこなかった」と意志的に書きます。あらゆる偶然や、事故や病や他人からの痛みも恵みもすべてひっくるめ、わたしの意志です。不遜なまでに、そう言い切る。「神意に添う」とは、そういうことではないか。

まずは誕生から、わたしの意志だった。いや、でも、正直に言うとそこまで雄々しく言い切れない。ためしに言い切ってみてから気付く。そんなことない。この世に生まれたいと願ったおぼえなんかない。もう出てきちゃったものは仕方がない、としか思えない。生きたいと強く意志したこともない。ただ一定の時間ここに居た。そのほうが、たぶん、よかったから。でも「ありがとう」と、なんら持たざる者のゆいいつの富として、感謝を言う。

「でも」が肝心です。屈託なく生きてなんか、いられないから。幾重にも屈折している。そうでなくもなくもなくもなくもない、くらい。もっとかな。しかし結論はシンプルに。でもやるんだよ。

いまから「ちゃんと」の軌道に乗せるのか、あるいは「ちゃんと」をばっさり切り捨ててすべてから逃走するのか。あいだをとって、横道に逸れつつも「ちゃんと」を目指すか。「あいだ」がベターだろう。それにしても短期間でこんなに疲れっちまって、体力がないなーと思います。体力は、習慣からつちかわれるものですね。持続、ということ。

終電で家に帰ると、トイレへ頻繁に起きる祖母と玄関で出くわすことがあります。「おかえり。夜は変な人に気ぃつけなさいね」と繰り返し言われる、社会から見ればその「変な人」がまずはじぶんの孫であることにお気づきでない。たぶん、死ぬまで。だから、わたしはふつうだ。ちゃんとしている。ふつうのあぶれ者。360度ノーマル。あなたのことばを守りたいから、ちゃんとする。

と感じながら、小林勝行の「108bars」を思い出す。このひとのように荒れてはいないし、自己認識としてはまじめ過ぎて少しくらい荒れてもいいくらいなものだけれど(でも荒れない。凪が好き)。凪が過剰で知らんうちに妙な時間へ流されていた。凪いでいたはずなのに。取り残されていたのか。


どの面下げて帰る
夜中 玄関
ぶ厚い扉ひらく
そろーっと
横切る仏間の襖の隙間から
朗々と祈るオカンの姿

ごめん俺ほんまちゃんとするから
俺は断固としてちゃんとしたい
どんなバイトでもえんよラップしたい

オカン俺こんなんなる思わんかったわ
ごめんな、もお俺
夢だけやねん


「オカン俺こんなんなる思わんかったわ」が、いまわたしの生きている時間とクリティカルに符合する。深夜、仏間で祈るオカンの姿を横目に、このことばはおそらくそのとき「思っている」だけで、言えてはいないのだろう。言えていない時点で、ちゃんとしてなどいないのかもしれない。しかしのちに、小林勝行はリリックに託し“ちゃんと”言ってのけたのだ。みずからの物語を108barsに流し込んだ、結果として。

わたしも断固としてちゃんとしたい。ちゃんと、万人が納得するようになにもかもが丸く収まって、「よかったね」とみんなから祝福され、きれいに、すみやかに、この世を去ることができたなら、どんなにいいだろう?と思う。しかし、そんな生のかたちも死のかたちも、ありえるわけがないだろう。「ちゃんと」ってなんなんだ。みんなに納得してもらえる死に方、あるかな。

さっぱり始めからいなかったかのように消え去りたい願望もあるけれど、乳幼児だって亡くなれば、この場所になにかを残す。残される者たちがいる。だれにでも、どこにでも。わたしはここにずいぶん長居してしまったと思う。残したり、残されたりが、増えてゆく。消えるもの、忘れるものも。知らないところで堆積する。

だけど、いなくなる当の本人だけは、ぜんぶ振り切っていける。それだけが希望。ほんとうにぜんぶを振り切っちゃうんだから、死ぬってすごい。想像もつかない速度でこの場所を振り切る。その振り切り方が、いなくなることを、特別にする。死のいなくなりっぷりよ。伊達じゃないね。なんでも、あらゆるものを残しちゃうんだもんな。「お残しは許しまへんでー」って、忍術学園の食堂のおばちゃんが言っていたっけ。忍たま乱太郎の話。さっきからずっと、忍たま乱太郎の話しかしていない。


6月9日(土)


渋谷のRUBY ROOMというライブハウスに行きました。やっと上の写真とつながる。腕につけているのは、入場許可証みたいなやつ。これをつけたまま帰宅。もらすとしずむ、というバンドのワンマンライブです。4人編成。

Vocal     千代モロゾフ
Bass      祭一郎
Drums   吉村 ロデム 
Machine 田畑“10”猛




ライブ終了後に残って呑んでいたら、いいことばを聞けました。


“終わりたくないなーと思って”


もらすとしずむのライブを観るのは3回目で、過去2回はカウントダウンタイマーが設置されていました。数字が減ってゆく。時間が0になると同時に潔く終了。といった、クールなかたち。しかし今回は、おなじようにタイマーが設置されているものの、カウントダウンではなく、時が進んでいた。増えつづける数字。1秒、1秒。

そうしたのは何故ですか?と、ライブ終了後にリーダーの田畑“10”猛さんにお聞きしたところ、わたしの耳に届いたことばが「終わりたくないな―と思って」。

何度かメンバーが変わり、部分的には終わったところもあると思うけれど、もらすとしずむの音楽そのものは終わらず、今回はあたらしいメンバーで、初のライブ。1曲目に演奏されたのは「NEN(never ending note)」。


NENは音が鳴り止むところに向けた音楽だと思う。どんな音楽もさいごは鳴っていない時間に向かう。「詩は断念の深さである」と書いた詩人を想います。ひとが出会うところも断念の深い狭間なんじゃないか。いなくなるところも。


上の引用は数ヶ月前、instagramのDMにわたしが書いた私信です。曲の勝手な解釈です。あとで思い出して、「いろいろつながってエモいなー」と感じ、口角がすこし上がりました。いわゆるエモい出し笑いです。

静かな歌い出し。
音が鳴り止む時間へ向けて、演奏が始まる。

終わらない増えゆく数字に乗せるリズム。無謀にも遠くまで行き過ぎた旅人を引き止めるように、しかし断念をして見送るように、分厚い低音の塊が鳴らされる。不乱に。そのあいだを浮力のついたボーカルが不敵に遊泳し、歌を刻む。お客さんは身体で聴く。揺れる。

そしてわたしは途中の休憩でまんまと2杯目のビールをもらう。さらに終わってから3杯目のモスコミュールをもらう。じつはライブ前にストロングゼロのトール缶を飲み干していたのでぜんぶでなかなか呑んだけれど、おそらく平然としていたと思う。まだいけました。ただ、財布がいけない。

RUBY ROOMのミラーボールが機械的にまわるさまがよかったです。放射状に広がる光の粒が無機質に均整を保ちまわりつづける中で、ひとりひとりの身体は音と対応し有機的に、不揃いに揺れる。リズムなど黙殺してずっと超然と、おなじペースでただまわるだけのミラーボールと、その光に包まれ揺れるひと。さらにデジタル表示の数字が、これも無機質に増える。

さいごの曲だったかな。時を刻むタイマーがコードに引っかかり、落下して、偶然なのですが、時間の軛から解放された気がした。数字の方向付けが消え、その枠組みも消える。「音楽作品を聴くことは、過ぎ去る時間を停止させる」と、さいきん読んだジャン=ジャック・ナティエの『レヴィ=ストロースと音楽』(アルテスパブリッシング)にあった。「音楽を聴いているとき、また音楽を聴いているあいだ、われわれは一種の不死を獲得しているのである」と(じぶんの雑な読書メモより)。

レヴィ=ストローちゃんは、大袈裟なことを言っているようだけれど、負けじと大袈裟に言うのならわたしは、不死というより、良い音楽は死者の時間の中へと捧げられているのだと言いたい。いまあるこの世は、誰かの人生が終わったあとの世界でもあります。その意味で他人の死後の世界を生きている。わたしはいつも屍の上に歩を踏み出す。ひとを焼いたあとの煙と残り香だけが音のバイブスになる。そして、もらすとしずむは、そういう音楽をつくっていると勝手に思っている。「終わりたくないなー」と思いながら、ぜんぶが終わったあとにもながく響く澄んだノイズを、リズムを、歌を。

終了後、個人的に聞けたシンプルな、このたったのひとことが、素敵でした。個人的にお聞きしたことばだから、書いちゃまずいかなー……。と思いつつも、書いておかずにはいられなくて、すみません。


お客さんとも、すこしだけ交流をする。
上に貼ったYoutube「Oh K」という楽曲のmusic videoを制作したアニメーター、

ないとう日和さん

植田翔太さん

も来られていました。すこしだけご挨拶をして、植田さんに「チェックしときます!」と伝えたので、お名前の検索で出たyoutube,tumblr,twitterと数年更新されていないブログまで、ネットストーカーか!ってくらいチェックし倒しておきました。

tumblrのdrawingは、漫画家の市川春子さんが好きなわたしにはドストライクな感じです。facebookにある過去のものから見ていくと変化もおもしろい。要チェックやで。その場かぎりの社交辞令は言わぬようにしています。信用、だいじ。

ほかにも数人の方と、ご挨拶ができてよかったです。キング・オブ・挨拶だけ男の面目躍如です。みなさまにとりあえず挨拶だけをします。あとは隅で膝をかかえて黙る。ひとり忍たま乱太郎のことを考えながら、床を指でなぞる。

ライブでは写真を撮ってもよかったそうですが、わからなくて撮らず。
始まる前に聞いておけばよかった。Leicaもっていたから。

もらすとしずむのライブ、それから、そのあともたのしい夜でした。その場での飲みにも長く居ちゃって。わたしは基本的にニコニコしているだけでしたが、つきあってくださった方々に感謝です。お気づきでしょうが、わたしには愛想しかないのです。ほかはカツカツでも、愛想だけは尽きない。無尽蔵の愛想。秒速で2兆円、愛想だけで稼げたらいいなあ~と思います。いわゆるところのハイパー愛想クリエイターです。



ちなみに。


もらすとしずむ - 人生何度でもスタートできるんですね▷▶thx

↑このブログにわたしも入っている写真が載っています。

重たい忍たま乱太郎の話ばかりを書いていると、ご心配をおかけしてしまうかも、なので、クールなメンバーお三方のうしろでアホみたいな全力の笑顔を出し切っている水玉帽子のあっぱれな野郎がわたしですから、心配しないでください。そこに笑顔で居ますから、探さないでください。

写真を撮られるときはいつもこの顔!と決めています。カメラを視認すれば、一瞬で迷わずこの顔をします。半端な表情はキモいので(笑顔もキモいがどうせキモいのなら最大限のポテンシャルを発揮したキモさで)。いわゆるひとつのキメ顔です(キモ顔ではない)。

あと余談ながら、ライブ後に吉村ロデムさんが「ポーランドの映画監督」を言いたそうで出てこなかった場面があって、帰りの電車でふと気になり調べました(わたしも出そうで出なかったから)。おそらく、クシシュトフ・キェシロフスキ。そして翌日、図書館で『キェシロフスキの世界』(河出書房新社)を借りました。なんとなく。

ロデムさんのバンドのライブにもかならず行きます。社交辞令は無し。
いまは、フットワークの軽さだけが取り柄です。



コメント

anna さんのコメント…
更新されてる。あ、顔出し?
水玉帽子で手たたいてるメガネの人なんだ。
それにしても綺麗な文章。うまいなあ。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そろそろannaさんからの督促状が来る頃でした。ブログ記事の未納ぶん、お納めください。ここ一週間で耕した石高です。写真で手のひらを添えているのはビールジョッキです。と、instagramでも顔は出していますよ。

https://www.instagram.com/hoshino_tetsurou/

これです。