スキップしてメイン コンテンツに移動

日記553


意志が強いのか、弱いのか、よくわからない奴だなーときのうのじぶんの日記を読み直して思いました。わかりづらい。掴みどころがない。ただひとつだけ、思考の癖としてはっきりしていることはあります。

集団化できない。

わたしはひとを個人として見ることしかできない。じぶんのことも、そう。たとえば「こういう所属のこういう肩書です」と自己紹介をされても、そこにあるひとつの社会集団の情報やイメージから「そのひと」を導き出そうとは思わない。みずからに組織の顔を貼り付けることも苦手。人間を数字に置き換えることも、苦手です。

でも、やっていれば慣れるのだと思う。数字だらけの世の中です。たいてい肩書だけで人間の情報はまわされます。そういうことにも慣れる。もう慣れている部分もあります。ひとは、なんでも慣れるよ。どんな暴力でも、それが日常になってしまえば、慣れる。青くさい潔癖症も、まいにち汚物にまみれていれば香ばしく燻される。ダンディな燻製になるんだ。

「次のあたりまえをつくろう」。なんかのキャッチコピーにありました。いま調べたら、JR東日本でした。「当たり前」と、漢字の表記だった。「あたりまえ」は平仮名の表記が好きです。倉橋由美子の毒っ気に満ちた小説論『あたりまえのこと』を思いながら、この平仮名5文字を書きたい。

きっと、JR東日本のキャッチコピーは「次の(社会の)あたりまえをつくろう」という意味なのだと思う。隠された「あたりまえ」の前提がある。言わずとも読み取れ、という、いわば「あたりまえ」のあたりまえ。わたしは、わたしのあたりまえだけでじゅうぶん。ひとりぶんのあたりまえしかわからない。ごめんなさい。

たぶん、わたしはもう、ずいぶん前から、いつ死んでもいいと思っています。はっきりとは意識できないけれど、そういう心持ちが身体の隅の方に沈殿していることは、わかる。「がんばろう」とか「生きよう」とか言われると、身体的なレベルで薄気味が悪くなる。うすら寒い。生命力が、さほどない。ごく微弱な光でもまぶしい。

就活なんか、むりに、いろいろと取り組もうとすると、「そうまでして生きていたくないなー」という思いがずしんと重く背骨にのしかかる。ただ、てめえを生殺与奪する権利をてめえだけが握っているとも思わないから、まだここにいる。あるいは、じぶんを人質にとって、見苦しい言い訳を綴っているだけなのかもしれない。そんな側面も否めないだろう。人質になるほどの価値もありゃしないのに。滑稽だ。

こんなことを他人に話せば、否定されるか、突き放されるか、どちらでもなくたって重い雰囲気にはなる。重いのは無理。極めて傲慢で不遜なのだけど、こんな発言はよくないけれど、他人の反応もある程度わかってしまう。「こう言えば、こう返ってくる」みたいな機械的な会話のセオリーが見えてしまう。そんなはずはない。お前は神か。相手は機械じゃない。傲慢だ。でもいかんともしがたく、そんな見え透いた底の浅い人々へのあきらめから、じぶんは脱せていない。わたしはわたしに相談をするしかないと思う。

わたしが相談されれば、こういうだろう。ぜんぶどうでもええわ。俺の底がいちばん浅いぜ!ばーかばーか。世界一浅い。ほとんど平ら。もはや水平線。それはそれで果てしない。底が浅いのは、いいことだよ。気持ちがいいね。これが、きっと、わたしがいま身体の芯からもっとも欲していることば。それ、どうでもいいやつです。

重要なことなんか、ひとっつもないよ。きょうが終わっても、あしたがきて、ながく儚く日々はつづくさ。意味なんかないね、意味なんかない。いまにもぼくは、泣きそうだよ。って、フィッシュマンズの「baby blue」でも歌って。泣いてろアホ。

就活アウトローでお話できた方の中に「モブになりたい」というひとがいた。そう、わたしも。「集団化できない」とは矛盾するようだけれど、わたしはモブとして名前を剥奪されたい。固有名がうっとうしい。首輪みたいだ。でもこの首輪のおかげで、わたしがわたしとしていられることも、たしか。すべての名前は、言語経済をまわすためにある。わたしはわたしを〈名〉ということばに還元し交換物としたくないのだろう。ドケチなのだ。

固有名への収まりの悪さと、集団への収まりの悪さはつながっています。生まれた瞬間、固有名を任命されることは、ひとつの集団への帰属と任命を決定づけられることと同時的です。矛盾しない。そしてこれは、いくら収まりが悪くとも、どうしようもない!!!解決不能です。「そういうもの」だから。

「毎日毎日が、私たちに、消滅すべき理由を新しく提供してくれるとは、素敵なことではないか」。エミール・シオランとしかわかりあえないと思っていたけれど、シオランに惹かれるひともたくさんいる。でも、そんな人間とは、つながりたくないと思います。ははは。向こうだってそうだろう、わたしはそういうひとにしか惹かれない。シオラン本人もわたしのような輩は嫌うだろう。

ともだちなんか絶対につくらない、と思っているような人間としかともだちにはなれそうもない。みたいなところ、ある。ヒネた中学生かよ。


ドアの外で思ったんだ あと10年たったら
なんでもできそうな気がするって
でもやっぱりそんなのウソさ
やっぱり何にもできないよ
僕はいつまでも何もできないだろう


フィッシュマンズの「IN THE FLIGHT」でも聴いて泣いてろ、アホ。10年前から変わらない。なにがしたいのか、なにができるのか、なんて、ひとつも想像がつかない。死んだらどうなるのかなって、そんな好奇心が絶えない。逃避したいとか、生きているのが嫌だとか、そういうわけではない。生きるのは、大好きです。生きながら彼岸への好奇心が強い。これも生きながらだから、持てる。生きた好奇にちがいない。焦ることはないから、ほっといても、死ぬんだ。でも、抜け道への選択肢は、お守りのようにいつだって勘定に入れている。

暗いことばかり書いているみたいだけれど、わたしは話せば、ずーっと笑っています。ばかみたいに。よく笑うひと。どちらがほんとう?どちらもほんとう。あたりまえのことです。この世にうそなんか、あったかしら。どうでもいいよ。深刻なものなんてない。重たくも暗くもない。人生なんかにかかずりあうな。すかっといこうか。そうっすか。



コメント