スキップしてメイン コンテンツに移動

日記555


6月16日(土)

のどがやられてしまったため、病院へ。

お医者さんにいろいろと訴えたら、くすりを7種類ももらいました。ちと訴えすぎたか。訴状をつくるような勢いで訴えた。告発してやった。気に入らないことがあったらすぐ帰りの会で先生に言うもん。いや「のどが痛い」だけでよかったけれど、質問されるから……。

薬局でくすりをもらい、説明を受け、さいごに「なにか質問ありますか?」と聞かれて「あの、くすりを食べる順番は……」と言うわたしに「まず、くすりは噛まずに水で飲んでくださいね」と正確無比なつっこみをいれる薬剤師さんと漫才コンビを組みたいと思いました。その淀みなく流れる美しいつっこみで、いっしょにM-1をとろう。

毎食後、飲む。順番はどうでもいいそう。カプセルの飲み薬には積極性があります。口の中へ水とともに含むと「飲んで飲んで!」といわんばかりに喉の奥へと入ってゆく。待て、早まるな。と思う。カプセルのような固形物をひと飲みにするには助走がいります。いったん手前に戻し落ち着けてから、ぐいっと飲む。あくまで飲む主体はわたしなので、そっちから飲まれにこんでもいいから。と思う。あせらないでよ。がっつかないの。

1日のハイライトとしてはそんな感じです。
以下は、さいきん個人的に身近なところでよく目にする言説一般について、思ったこと。




わたしは「経験至上主義」のごときものをふりかざす年配者が好きではありません。そんなの若輩者は抗弁できないに決まっているではないですか。それに、あなたの経験とわたしの経験は、まじわらない平行線です。

わたしはわたし、そして、あなたはあなたの時間を生きている。それだけでしょう?たまに偶然それが交錯したり、離れたり、ぶつかったり、うにゃうにゃする。点と点としてつながるだけ。線にはならない。あなたの時間線のレールにわたしは乗れない。他人だよね。わたしにはわたしの線がある。ときおり点に触れて、ぶつかって、離れて、軌道が変わる線。

「行動至上主義」のごときものも、わかるといえばわかりますが、素直に首肯しがたいものがあります。動かないと始まらない。然り。しかしそれをうべなうべきとされるのなら、わたしが引きこもって読書をしながら得てきた現在はなんなのだ。わたしが身につけたことばの、認識のすべては、なんなのだ。なんら得ていないとでも言うのか。社会的な履歴のない者は存在しないとでも?その通り、存在しないのだろう。認めるしかない部分もある。

「読書も行動」といえばそうであるけれど。人生のほとんどの時間を生家で過ごし、詩作にふけったエミリー・ディキンソンの生きた時間はなんだったのだ。彼女のことばに魂が伴っていないとでもいうのか?いや、誰と闘っているのだろう。そんなことはだれも言っておりません。わたしはエミリー・ディキンソンの人生も、詩も、好きです。没後に評価された詩人だけれど、たとえだれにも見出されずとも、彼女は世界を見出していた。偉大な詩人です。

あるいは、ハーマン・メルヴィルの描いたバートルビー。「せずにすめばありがたいのですが」といいつづけてさいごは食事すらありがたく拒んで死んだ、ああ人間!バートルビーのことばの芯にあるものを、行動を称揚する人々は天地が逆立ちしてもわからないのだろう。わたしもわからんが、その態度に一抹の共感をおぼえることは確かです。

ほかにも思い出すところはたくさんあります。笠原嘉がまとめた『ユキの日記 病める少女の20年』。彼女が日記と、ことばとともに過ごした、20年の時間を思う。病みながらも「作家になりたい」と言い、ひとりで書きつづけた日記。それが笠原嘉の手に委ねられ、あなたの作品はいま、わたしの手元にちゃんと届いている。うちの本棚で作家以前の作家が、笙野頼子とフィリップ・クローデルに挟まれている(てきとうな並び)。

行動や経験だけでは語れない未然の人生は、無数にある。残されずに消えるものが大半ですが、残るものもある。たとえば戦前に16歳で夭折した山川彌知枝の遺稿、『薔薇は生きてる』。


美しいばらさわって見る、つやつやとつめたかった。ばらは生きてる


やちえさんの16年にも、そのことばにも「社会的な行動」と等しいほどの、いやわたし個人にとってはそれ以上に価値のある、やちえさんがやちえさんとしてここに居た時間がふくまれている。なんら生産性はなかったのかもしれない。ただこの本に、やちえさんが生きてる。

山川彌知枝は肺結核で16歳にして亡くなる。わたしの祖母も、若い頃に結核で長く隔離されたことがあったという。「死に損ない」とみずからを指して笑う、あなたはもうすぐ米寿。「あたし結核なんてやったからいじめられて、結婚なんかできるわけないと思ってたのよ」。亡き夫のことを話すとき、かならず聞く話。「そんなあたしを拾ってくれたひとがいてね」とつづく。

始めは夫のことが好きではなかったのだとか。第一印象は「変わった人」。病み上がりのなにもできない女をもらおうだなんて。なんでだろう。でも、祖母がなにもせず臥せっている時間がなければきっと、わたしも生まれることはなかったでしょう。老後のいまも、ほとんどなにもしていない、その時間だってぜんぜん無駄なんかじゃないよ。いや、無駄といえば無駄なんだけど、それでいい。それがいい。無駄でいてくれてありがとう。


動物たち
病人たち
囚人たち


国書刊行会のセリーヌ全集『またの日の夢物語』にある、このエピグラフにどうしようもなく惹かれる。そういう人間だから、どうにも行動だけを手放しで称揚できない。「行動」が叫ばれるとき、踏み出す前提とされる社会からこぼれおちる少数の者がいる。人間の社会だけではなく、動物にも社会がある。

「口だけ」も批判できない。口だけにも、価値はある。ことばにするだけでも、すごいことだとさえ思う。そして、「死んだ人はみんなことばになる」。と寺山修司は書いた。つまり「口だけ」になる。死人は、口だけ。

そうだ、わたしが「行動至上主義」に違和感を抱くのは、死人を勘定に入れていないからなのだと、いま気がついた。この世は、社会は、死者がつくったものでもあるって、何度も日記に書いている。むろん、いま生きている人間がそれを支えているのだけれど。しかし死者たちの肉声の残響でこの世が成り立っている部分もある。どこにでも、なんにでも、長い歴史がある。

いくら行動的であっても、死者をないがしろにするひとのことばは信頼できないと思う。それは同時にみずからの死後をないがしろにしてもいる。たぶん。「死者」をもうすこし抽象化して書くと、手の届かない、及びもつかない、まつろわぬ者ども。そいつを想定していない。そんな御仁は他人への畏怖も抱かないのだと思う。平気で踏みにじられてしまいそう。

わたしはひとがこわい。ずっと。あなたが死ぬから。わたしも死ぬから。そこが、その恐怖と敬意と無理解が思考の拠点として絶えず念頭にある。わたしの代わりに死んでくれるひとはいない。あなたの代わりに死ぬことはできない。ひとり。

生きるだけがひとじゃない。行動だけが人生じゃない。わたしは全身全霊で生きているわけではない。そこそこに死んで、そこそこに生きている。全身を生に捧げるのではなく、死に片足を突っ込んで、半身の構えでいる。

本を読み、死んだひとのことばに息をふきこむ。発声は統御できずに、どもる。そのコントロールできないところにわたしがいる。決まり切ったことをただ行動に移すところにわたしはいない。ランダムな偶然性と運命に自己が浮かぶ。できることは少ない。しかし少ないなりの行動もたいせつです。と、ひよったところで、ごきげんよう。





コメント

anna さんのコメント…
「人間は歴史からは学べない。」って誰かの言葉にありました。確かに、行動至上主義で上からもの言われると「うっさいよ・・・」としか思えないですよね。うるさいと思うから「学びたくねー」と思うのかもしれないですが。
nagata_tetsurou さんの投稿…
「歴史が繰り返すのではなく、人間の行動が繰り返すのだ」と、たしか精神科医の中井久夫さんが書いておりました。歴史は繰り返さない。ヒトは進歩しつづけるものでもない。なんだかすべて忘れてしまう。だから同じようなことを繰り返す。この日記555をひとことで要約すると「どこでもいいからゆっくり寝かせて」という意味になります。あるべくは、この世に生まれたことへの抗議と諦念、そして睡眠です。