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日記557


眠れないほど咳がひどいので喘息予防の吸入ステロイド薬をもらったのですが、これがむずかしい。吸入すると、ぜったいにむせかえってしまう。途中であきらめる始末。吸ったら5秒間、息を止めなければならないらしいけれど、できない。3秒くらいが限界。震えながら必死で静止しても「1…2…3…ボヘァッ!」となる。

深く息を吸うとむせるから、自然と呼吸が浅くなって、慢性的に苦しい感じもする。呼吸はいつも無意識にしているものだけれど、生体を支える基盤となっているもので、ここに支障をきたすと、ぜんぶだめだ。鼻の奥とか喉とかやられてしまうと全身にきます。なんたって急所です。気分も下がります。うそです。気分はどんなときでも余裕です。貴族の精神です。貴族は貴族でも鳥貴族です。安い居酒屋の精神です。ほかに「貴族」でパッとイメージするものは、叶姉妹です。

日曜日に、是枝裕和監督の映画『万引き家族』を観ました。パンフレットを読んでから、感想を書きたいと思います。カンニングです。ちがうよ。参考にしつつ。補助線をいくつかもらう感じ。いま祖母に貸していて、読めない状態なので数日後かな。祖母と観に行きました。祖母の感想としては「戦後すぐの頃を思い出すわ」と。

焼け跡だらけでほとんど何もない貧しいころは日本人だって倫理観に欠けていて、リリー・フランキーが演じた、あんな感じのおとなも、ふつうにうろうろしていたのだろうと思う。家族の形態も、あばら家に囲まれ入り乱れていたのかもしれない。片親の家庭もいまより多そう。統計的な事実はわからない。こういう感覚的な物言いはよくないか。

父と母もいっしょに、要は家族で観たのですが、このふたりの感想は書くのもためらわれる。映画は一方向的になにかを与えてくれるものだと勘違いしている。そういう映画もあるけれど、テレビではないのだよ。刺激はみずから受けに行くもの。芸術は相互的なもの。与えられるものではない。

わたしは両親に似ても似つかない人間だと思う。「がんばらないと親に似る」とマキタスポーツさんがおっしゃっていたけれど、がんばったおぼえはない。でも親にはまるで似ていない。反面教師にはしていた。だからか。親ではなくとも、すべての人間は反面教師にしています。じぶんもふくむ。

ちょっとした仕草や、リアクションや、挙動は親と似ているところもある。あと、わたしの筆跡は父にそっくり。へんなところで似ているけれど、言動や考え方や見ている世界はぜんぜんちがう。それは両親もわかっている。「こいつはうちの誰にも似てない」と父は数年前いっしょに通っていたスナックでよくママに話していた。母からは「変な子」呼ばわり。ははは。でも仲はいいよ。

強いて言うなら、祖母に似ていると思う。隔世。でもちがうなと思うところも多い。どうでもいいことです。ぜんいん他人だ。似てようが似ていまいが、それと「家族」は関係がない。似たもの同士だから家族ってわけでもないだろう。血がつながっているから家族ってわけでもないだろう。産んだだけで胸を張って母親・父親を名乗れるのか。そういうところへ静かに疑問符を置く映画が『万引き家族』だった。

是枝監督だから、あたりまえだけど「かくあれかし!」という明確なモデルを提示するわけではない。与えてくれるのではなく、ただ疑問符をそっと置く。どこに疑問符を読み込んで、その疑問符を持ち帰ってどうするのかは、観客に委ねられる。

「父」「母」「祖母」「こども」「家族」などの一般的な呼称によるつながりの在り方に潜む、特殊な事情。個人的に前々から思うのは、つきつめると「そういうことにする」ってだけのつながりなのではないか。『万引き家族』にかぎらず、どの家庭も。家族とは、「そういうことにする」を共同でどう継続させるかの関係なのではないか。

いっぽうで人間関係は、一般名に安住しているばかりでは壊れるときもある。母親だから、父親だから、こどもだから、などと言い募ってばかりいては。家族の位置づけよりも、さらにちいさな、個人対個人として、ときおり関係のメンテナンスを行わなければ立ち行かないときもある。互いの特権的な立場を更地にすること。しがみつくと瓦解する。「母親」や「父親」が、つながりを壊してまでしがみつくほどの価値のある立場なのかはわからない。わたしは親になったことがないから。

たぶん、なってもわからないのかな。こどもに対して「父親ヅラ」なんか、できそうもない。お付き合いしている方に「恋人ヅラ」できないのも、よくないと思いながら、でもたまには演じないといけないとも思う。「演じる」というと聞こえが悪いけれど、そういうところなんだ、社会性って。ふたりだけなら、あるいはひとりで生きるのなら、社会なんか関係ないのだけれど。

役割やらペルソナやらを演じないのはこどもだって。意地悪な社会学者のおじさんが言っておりました。わたしはその点、不適合。と思っちゃうな、どうしても。演技がへたなの。大根役者だから。あんまりうそもつけない。日本のお偉方は、うそがお上手で、うらやましいかぎり。

うそがつけないからといって、ほんとうを言っているわけでもない。実質がどこにあるのか、わからないんだ。結局すべて「そういうことにする」でできているのではないか。暫定的に。いまは、そういうことにする。

あなたは恋人、ということにする。家族、ということにする。こども、ということにする。友人、ということにする。18歳を過ぎたら成人、ということにする。ものを盗んではいけない、ということにする。ひとを殺めてはいけない、ということにする。あらゆることが「そういうことにする」の集積として、社会ができてきている。絶対はない。そんな気がする。

わたしの認識はたぶん、底が抜けている。よく言えば、やわらか過ぎる。固定できていない。ぶにょぶにょ。どんな可能性にも目をつぶらない。良くも悪くも。場合によっては、じぶんが殺人を犯すかもしれない。と、理性のあるうちに想定しておくことによって防げる部分もある。しかし、理性の奴隷になることもない。同様に、感情の奴隷にもならない。中庸でいたい。「なんにも信じちゃいない」というのは、まさしく中庸なのだろう。

優柔不断だ。うろうろしている。ずーっと。そう、是枝裕和監督も、人間がうろうろしている映画を撮っているから、好きだ。判断のしようがない。わかりやすいカタルシスなんかどこにもない。ひとが生きることについて、ただうろうろと、生きたり死んだりしているこの社会についての、うろうろした物語。どんな価値意識もうろうろと漂う。それが『万引き家族』だった。

もう感想を書いてしまった気もします。
べつの感想が浮かべば、また。




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