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日記558



いかなる愛も、それが愛である限り、演技である。


スパンクハッピー活動再開の共同声明を読んでいて、目に止まったことばです。映画、『ラストコーション』のコピーだそうです(未確認)。声明文のサイトにある、小田朋美さんのマルコメ写真が衝撃的でした。

このときの若き小田さんを間接的に「暗くて危ねえ馬鹿(笑)」と菊地成孔さんは形容しておられて、これには、「傀儡」という一曲に「好き」50発を詰めこんだ小田さんだものと、どこか納得のいく感じ。バンドの曲だから、ひとりでつくったわけでもないだろうけれど。レモン50個分のビタミンCよりも美しく肌を湿らせ、ラーメン二郎50杯分の油脂よりも濃厚な吹き出物がうずくような一曲です。よくわからない修辞。

上記の引用はきのう、演技とかペルソナとかそういうことを書いたから、至極個人的にタイムリーなお話。ついでにいまわたしは、鼻の奥に傷がついて声がおかしい。別人みたいにざらざらしている、それもタイムリーだと思う。つながるお話。


ペルソナは、秘匿の為の道具ではない。ペルソナは自分を解放する為の仮面なのです。


と菊地さんは書いていた。小田さんも、それに準じるように「解放の道具」と。その側面。いままでわたしが被ってきた仮面は「じぶん、なにやってんだろう?」と気詰まりに思ってしまうものしかなかった。だから「演技」をネガティブにとらえがちだったけれど、そうではない側面もある。

というか「演技ができない」といっても、そういう演技をしているだけだ。つまるところわたしは、したくない演技はしたくない、というひどくこどもっぽい同語反復を言いたいだけなのだろう。ガキです。最低でも「なにやってんだろう?」と、後ろ暗く思わなくともなるべく済むような演技がしたい。仮面の背後に真実が控えているわけではない。化けの皮をいくら剥いても「ほんとうの自分」なんか、出てきやしないんだから。

どういうフリを選ぶか。どんな見かけを選ぶか。それしかないのは重々承知。わたしは「ほんとうの自分」などと無邪気に言えるほど能天気な人間では残念ながらない。「なにやってんだろう?」から完全に逃れられるとも思っていない。いまこれを書いていたって「なにやってんだろう?」と思うわたしはいる。生来、この性格だ。なにをしていても疑いは晴れない。生きているだけで嫌疑は十分。

それでも、できるだけ、逃げたい。嫌疑は十分だが、逮捕されるいわれはない(なんだそれ)。「見かけ」だとか「ふり」だとか容れ物を、檻を、意識しなくとも済むような、ベタにベタになりたい。すでに収監済みであり、この檻からは出られないことも知っている。とっくに罪は確定していた。いわれなき罪状。だけど一瞬でもいい。娑婆の空気を吸いたい。賢しらなメタ視点はいらない。ベタが欲しい。さっき生まれたばかりのような、はじめてが、欲しいだけ。

いまわたしは、声が変わっていて、こんなダミ声になったのは初めてのように思う。喉は痛いし、息も苦しいけれど、じぶんではないじぶんの声を手に入れたような感じがして、表現の幅が広がったというか、じっさいには狭まったのだけど、すこしだけ解放された気がする。「いつものじぶん」から、すこしちがう空気の振動が喉から漏れる。このたのしさは、仮面のたのしさなのだと気がついた。声色が変わることって、こんなにたのしいんだ。

歌うときもひとは、ちょっと声が変わる。みんな声色を変える。これもひとつの演技。解放につながるもの。カラオケでは、どの仮面をつけよう、つけられようと曲を選ぶ。そこで、そこそこ解放される。これで事足りるなら、いい。

菊地さんが芸大生時代の小田さんのようすから受け続けているという「解放してくれ」のメッセージ。小田さんのような才能は一般化できないけれど、才能・能力の有無に関わらず、きっとくすぶっている若い人間の多くが、この「解放してくれ」を抱えながら社会を漂っている。わたしもたぶん、そうだった。いまでも、そうかもしれない。ああもう「そうだった」でも、「かもしれない」でもない、完全にそうなのだ、いまも。ちゃんと言いなさい。仕様がない子。

しかしわたしの場合は、学もなんの才能もない、ただくすぶっているだけ。「フックアップ待ち」も望めない。てめえでどうにかするしかないだろう。気が遠くなる。「将来」なんて考えると途方に暮れて死んでしまいたくもなるが、お気を確かに。みずから壊した未来を破片でも掴めれば。あしたが見えないのは、眩しすぎるからだと嘯きながら。

わたしはきっと、ネットに仮面を託して書き始めた。一縷の望み。解放を目指して。20代のさいしょは千字も書けなかった。学生時代に、ちゃんとした作文をものしたことはない。先生に書かされることばは、どうやっても出てこなかった。

継続的にみずから書くようになり、内面を発見した。日本近代文学の発見を、個人的になぞったような感覚。いまは、べつの、生ぬるいなにかに書かされている気がする。主体性なんかない。主体的に望んで生まれたわけではないし、望んで生きているわけでもない。心臓が勝手に動く。ひとは聞く。あなたはだれですか?しらねえよアホ。

話しことばも、言わされるものだった。こちらについても、言わされていたっていいんだと思う。口からノータイムで飛び交うことばには「流される」部分がどうしてもでてくる。短絡に次ぐ短絡。流れに乗って話す。それでもいい。じぶんの書きことばとのちがい、を気にしていたこともあったけれど、言文不一致でとうぜんなのだ。

重要なのは、書きことばだろうが話しことばだろうが、仮面はつけているということ。いかなる表現も社会的なお約束にほかならない、ということ。それに則って書いている時点でわたしは社会性の塊である。不適合どころか、全身是社会性。翌日には真逆のことを書く!これも社会性。君子は豹変するのだ。

ところであの、さいきん、書こうと思ってメモしていることがひとつも書けておりません。きのう書くはずだったことをひとつ、むりやり消化したいと思います。『万引き家族』というタイトルを聞いて思い出す1曲です。

The Smiths - “Shoplifters of the World Unite”




Shoplifterは、万引きの意。

「万国の万引き犯よ、団結せよ」というタイトルです。共産主義のスローガンをもじっています。80年代のイギリスにおける政治的な含意もあるのでしょうがそれは知らぬ存ぜぬ。ブレイディみかこの本でも読んでおこう。

単に万引きつながりで、この曲を思い出します。
というだけのお話でした。

本日の世迷言は、これにて。



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