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日記559


道の野いちご、幼いころ拾って食べていました。
拾い食い。スナック感覚で。路上のもので腹を満たす!
カネのかからんこども。

きのうの記事で、なにをしていても「じぶん、なにやってんだろう?」から逃れ得ないと書きました。しかし程度の差はあります。たとえば、トイレで排泄をしているときは、そんなに思わない。むしろ「ちゃんとやってるな」くらいに思う。これが、トイレ以外に漏らしたときは「なにやってんだろう?」になる。

まじめに考えるとおもしろいちがいだと思う。おなじ排泄行為でも、場所によって認識が変わる。あたりまえといえば、あたりまえなのです。しかしここには、現代日本の「社会性」とか「人間と動物のちがい」とかを考えるにあたっての興味深い認知的な差異があると思う。便座と野糞のちがい。でも、いまはあまり頭が働かないし、こだわる気にもならない。

比喩的に書くと「じぶん、なにやってんだろう?」と思う感覚は、心理的に、トイレ以外の場所に排泄しちゃっていることと同様の感覚なのかもしれません。ちゃんとじぶんから出るものを収める場所に収めること。これがむずかしい。

このブログもトイレに近いけれど、ほんの気持ち外している感覚もある。公衆トイレに入ると、たまに前に入った人間の落としものがある、アレだ。ちゃんと流せていなくて放置されている。文章もそう。きのうの記事は、きのうのわたしの流せていない落とし物。きたない比喩だなあ。

いちばん綺麗に、わたしが収まるところに収まる場所というと、棺桶しかないのだと思う。「わたしが」というより、人類みなそうなのだと、言ってしまいたい。でも「収まる」と「収める」はちがいます。生きながら切り出した時間(排泄物)を死へ「収める」のか、わたし自身がまるっとそちらへ物質として「収まる」のか。

「じぶん、なにやってんだろう?」

この度合いが高まると、なんでも耐え難い。わたしはわたしを説き伏せて、必死で納得させなければいけない。説き伏せるためのことばを生み出し、ときにでっち上げるおとなのわたしと、「なんで?」と永遠に問い詰めてくる、わからず屋のこどものわたしがいつもせめぎ合っている。そしてたいていの場合、こどもに組み敷かれてしまうんだから始末が悪い。ああ、もうごめん、わかんないよ、降参。こどもは不服そうに、うずくまる。理由が足りない。なにをするにも。理由が足りない。





スマホにメモをしていた、徹子の部屋の話。

数日前、TOKIOの長瀬智也さんが出演されて「麩菓子と豆乳は食べ合わせが最高」とおすすめをしておりました。実食もして、徹子さんは「ふーん」みたいな反応でした。用意された豆乳が無調整のものだったようで、「調整豆乳だと甘みがあっておいしいんです、これは大人の味」と長瀬くんはフォロー。

そして後日、宝田明さんが出演したとき、中華料理の油条(ユージャオ)という揚げパンと、豆漿(トウチャン)という豆乳スープを紹介していて、「ユージャオは、お麩みたいなものでトウチャンにつけて食べるんです」といった感じの説明がなされており、「長瀬も言ってたやつやん!」と思いました。

お麩と豆乳で、長瀬智也と宝田明がつながった。

長瀬くんは「この食べ合わせは俺が発見した」くらいのことを述べておりましたが、中華料理に似たようなもんあるやん!とも思いました。正確に書くと、長瀬くんの食べ合わせは「麩菓子と調製豆乳」で宝田明さんは「ユージャオとトウチャン」なのだけど。説明の語彙としては「お麩と豆乳」という共通項でくくれます。

おもしろいシンクロ。

と書いてみて、ここでも「なにがおもしろいの?」と疑問を突きつけてくる、わたしの中の不機嫌なこどもがいる。おもしろいじゃん!なんでも!おもしろいものはおもしろいの!!こどもの疑問には、こどもの理屈で返す。ガキは腕力でねじ伏せる。これが正解なのだろう。不条理だが仕方がない。あとでケアはするよ。非行に走らないように。でもどうか、いまだけは「おもしろい」で納得しておいてくれ。お願い。泣かないで。

以上、徹子の部屋ウォッチャーからの報告でした。
※まいにち見ているわけではありません。



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