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日記563


「私は安全運転をしています」。

不意に地面から話しかけられるときがある。「ああ、そうですか」としか言いようがなくて、そうですか。そうなんですね。安全運転をしていたのですね。いままではひそやかに安全運転をしていて、だれにも告白できなかったけれど、やっと言い出せたのですね。伝えてくれてありがとう。どうかそのまま、安全運転でいてください。





わたしはいいひとなので(じぶんで言う)、他人への贈り物を考える時間が好きです。贈り物とは、接点の告白です。わたしたちはどこで接着するのか。「わたしの考えるあなたは、これだと思う」。ということを、押しつけず越境せずにあくまで、自己の裁量内において物質として把持すること。わたしとあなたの人間関係を維持している共通の幻想を探り当てること。そこにはかならず、自己告白がふくまれる。わたしの中の想像の他者、理想の他者は、これをよろこぶはず、と。

でも一方的な想像ばかりが先走ってもいけない。いままでしてきたやりとり、受け取って、差し出してきたことばを反芻しながら、返す刀で「あなたの考えるわたしは、これだと思う」こと。相互的な、個人と個人の関係のバランスが均衡するモノを発見したい。その均衡が、贈り物の支えによって、いつまでもぶれない平衡状態にもなればと、願いながら。

邪魔にならず、部屋のどこかへ自然にちょこっと置けるような、ささやかなものがみつかればしめたもの。「これだ!」と思ったものを差し出して、その通りの「これ」として想像の均衡を果たせたら、こんなにうれしいことはありません。

交際中の方と会えない月には、本を一冊、贈る。次はどうしよう。と、つねに考えています。わたしの琴線にすこしでも触れる本の中から接点をさがす。このたのしい作業をする時間がすでに、あなたからの贈り物です。それは友人でも家族でもそう。「贈り物を受け取ってくれる相手がいる」というだけで、幸福なのです。お返しはあってもなくても。じゅうぶん。

あるいはメールでもなんでも、返事はあってもなくてもいい。前は、無視をされると、かなしいと思っていたけれど、無視をされているかどうかなんて、わからないのだと気がついた。とくに離れた相手から「メールを無視される」ことは、確かめようがない。思い込みでしかないのです。

余白を読み込み過ぎている。なにも返事がない時間は、端的に「なにも返事がない時間」でしかない。たとえ、二度と返事がこなくとも。なにかじぶんが害されているわけではありません。なにもされてなんかいない。シンプルに考える。ないものは、読まない。空気は透明。読めないよ。そもそも、すべてはひとりごとなのだ。

きまま。わたしはずいぶん、きままになりました。いまは、すごく気が楽です。あんがい、振る舞いたいようにそのまんま振る舞っても、どうってことはない。わたしはいいひとなので(じぶんで言う)、悪いことはできないから。

呪われていると、じぶんでは思う。他人を攻撃するようなことばを吐いたり態度をとったりすると、じぶんがいちばん苦しくなる。呪いです。もう笑うしかない。ほめるしかない。ほめると、じぶんもたのしいから。これもまた逆向きの呪いです。機嫌よく生きるしかない呪いにかけられている。どんなときにも。

ひとをかんたんに悪く言って、すっきりできるひと、ちょっとうらやましい。わたしは呪われている。かならず返す刀で、みずからも斬られる。悪く「思う」ことは多々あります。しかしアウトプットに至ることは、ごくまれ。その過程で考えが変わる。悪口の短絡はしない。

ネガティブに思うものは、かならずクリティカルな自己批評へとつながる。どうしてこんなに不愉快でイライラするのだろう?掘り下げてみると、そこには幼くてちいさなわたしの想いが、ちょこんと座りこんで居る。じぶんが感覚している、「こうあってほしい」という世界の解釈がわかる。願望が見えてくる。祈りにも似たもの。

すべてのことばには、みずからをも切り裂く「返す刀」がついています。そこにどれだけ自覚的でいられるか。わたしは「返す刀」をあまりに恐れている、これがたぶん「呪い」の正体なのです。鋭さへの恐れ。斬られると、痛いから。痛いのは、いやだから。痛みには人一倍、敏感です。

ジェーン・スーさんのラジオ番組に10分くらいある、お悩み相談コーナー。敬遠して聞かなくなっていたけれど、さいきんまた聞いてみると、やっぱり彼女のことばは、ときおり、つよいなー痛いなーと思う。たくましいなーと。

発言の内容はどれもうなずけるものばかり。わかる。だけど、もうちょっと伝え方として、やわらかくても、ね。と思ってしまいます。ダメな人間、クズみたいな相談にも、笑顔を向けられる余裕がほしい。怒らないでください。

どんなにその怒りが正しくとも、そこから発信される鋭く尖ったことばの雰囲気自体が、わたしにはつらい。鋭い語気で息巻くようす。でもきっと、そこが好きだというファンも多くいる(おそらくそちらが多数派)。同じ部分で評価が分かれることは、良質なコンテンツである証なのです。コンテンツ呼ばわりもよくないかな。

わたしがお悩み相談を受けても、宇野千代さんみたいにひたすら肯定するだけだろう。いや、宇野千代よりも過激な肯定をすると思う。なんでもいいと思う。「まちがっている」と直感しても、正そうなんて思わない。「ものすごくまちがっていると思うけど、もっとまちがってもいいんです」と言う。それか、べつのまちがえ方を提示する。正道なんかないんだ。「じぶんが正しい」と思ったら血を吐いて死ぬ呪いにもかかっています。

相談への応答の仕方としては非常な、あるいは非情なまでの無責任です。ジェーン・スーさんは、相談された責任を真摯に引き受けているから、辛辣な口調ができるのです。そこが無責任男であるわたしには息苦しく感じる。でも同時に魅力でもあり、ファンがつくところでもある。


どんなときにでも、ものごとを凡て肯定して決める習慣くらい、人間にとって幸福なものはない、と私は思うのですが、どうですか。


宇野千代『生きて行く私 人生相談篇』(毎日新聞社)より。

ええ、わたしもそう思います。ふふふ。「どんなときにでも」という、この「どんなとき」には無限の幅をもたせたい。社会的な価値観とか、倫理観とか、規範意識とか、正義感とか、まったく関係なく文字通り「どんなときにでも」。だよ。「なんでもいい」ということばも文字通り。制限はない。ことばはなるべく、文字通りに使いたい。

なんの話だっけ。
そうだ、贈り物について書いていた。

わたしは贈ることが好きだけれど、逆に贈られて飛び上がるようなことは、ありません。ああ無情。性格がいいんだか悪いんだか。上記のように、「贈る相手がいる」だけで、贈り物はつねに受け取っていると思います。それにことさら欲しがることもないから、かもしれない。なにかもらえれば、うれしいことは、うれしく思う。

見返りを想定すれば交換になる。わたしたちは交換に基づいた経済環境でしか生きたことがないから、すぐに交換の論理でものごとを捉えてしまう。対価を措定してしまう。わたしの「贈り物」も、厳密には交換に過ぎない。感情的な対価がある。贈与は一方向でしかありえない。ほんとうは、贈り物は贈り物の顔をしていたらいけない。きれいなラッピングに包まれた商品は、贈り物ではなく交換物。なんかライトな現代思想っぽくてやだな。ははは。

ともあれ。贈り物のきほんは自己告白です。「相手がよろこぶもの」を選ぶのは、ちがう。考えてしまいがちだけど、そんなもん結局わかんない。しかし配分はあるかな。他者と自己のあいだをつなぐ糊の配分。でもわかんないよ。結果的に、よろこんでくだされば御の字なのです。

みうらじゅんさんは、いつかのラジオで「プレゼントが下手だ」といって、むかーし付き合っていた女性にクリアファイルをプレゼントしたというエピソードを語っておられました。みうらさんご自身はよく雑誌のスクラップをするので「クリアファイルは便利だから」と。

プレゼントされた女性からは「いらない」と言われたそうですが、小癪な点数稼ぎに走らない、このみうらじゅんさんの態度は、愛にあふれているとわたしは思う。これこそが、贈り物なんだと。みうらさんは、プレゼントが下手なのではなく、うますぎるのです。うますぎて伝わらない。愛があふれ過ぎていて伝わらないのです。

個人的には、そういうものがいいと思う。接点なんか必要ない。冒頭に掲げた文言をさいごにくつがえす。いや、いろんな心持ちがあっていいの。うん。相手ではなく、純粋に自分が大切にするものが贈り物になる。そんなパターン。でもわたしは小癪なところが抜けない。適度な俗っぽさ。これもバランス感覚かな。やっぱ接点をつくりたい。

ひとっつも伝わらないくらいの、相手にとってはゴミ中のゴミみたいなものを選んで、「これがわたしの大切なものです」と贈ることができるのはわたしの幼稚な理想です。「幼稚な」と形容しておこう。それで「いらない」と突き返される、までが理想です。でも、やるには度胸が足りないかな。小心さが小賢しさを生む。尖りきれない。社会化されたわたし。

小学生低学年のころ、女の子から、練り消しゴムをもらった。そういう、素朴なものがいい。ねりけしあげる。メロンソーダの匂いがする、ねりけし。おとなからこれをされたら、やばい。胸キュンどころの騒ぎではない。即キュン死だろう。キュン即死だろう。死キュン即だろう。卒倒する。死ぬから、やめてください。逆にいうとわたしを殺害したいのなら、ねりけしをプレゼントすればいい。かんたんに魂が旅立ちます。


どんなに小さいことでもよい。タンポポの花一輪の贈りものでも、決して恥じずに差し出すのが、最も勇気ある、男らしい態度であると信じます。


太宰治の『葉桜と魔笛』みたいな。クソ恥ずかしいけれど、わたしはベタにこういうことが好きで信じている人間です。つまり、クソ恥ずかしい人間です。これが「クソ恥ずかしい」と思う擦れた感受性もありつつ。他方で純粋に「ベタでもいい」、とも思いつつ。捻くれているだけでも、ベタなだけでも、飽きてしまうから。飽き性なのです。ふらふらと揺れている。千鳥足で。

とりとめもなくだらだらと綴りました。
いつもないか。とりとめ。


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