一九五六年のクリスマスの日ヴァルザーは、何十年も前から収監されていた精神病院近くの雪の積もった野原で、心臓発作で死んでいた。
読んでいた本の、事実を記した変哲もない一行から浮かぶ画があります。引用は、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著『キュレーションの方法 オブリストは語る』(河出書房新社)より。中野勉=訳。
浮かぶのは、作家のローベルト・ヴァルザーが雪の上に仰向けで倒れている、死亡現場の写真です。『ヴァルザーの小さな世界』(筑摩叢書)という本の表紙にも採用されている、それが、なんとも、がばーっと散歩中の気まぐれでちょっと雪へ寝そべってみたような、倒れた勢いで帽子が転がっていて、一気に全身の力が抜けたようすがわかるけれど、なんだろう、片腕を広げ、飛ぼうとしたかのごとき想像もしてしまう、ついさっきまで生きて、ふだん通りに歩いていたのに、一瞬で魂が飛翔するように身体から抜けていった、みたいな、擬音でいえば「スコーン」といった感じの、生気が抜けたほんの一瞬がつたわる、雪の上、仰向けに事切れた老人の、それは美しい死体の写真なのです。
ひとが死んでいる写真を「美しい」だなんて、ひどく身勝手なことを書いていると思う。ひとが死んでいるのに。でも正直に、あの写真は素敵な死に様だと思ってしまいます。わたしの目には、そう映る。
ヴァルザーを「うわの空で生きている」と種村季弘は評したけれど、死体の写真も同様に「うわの空で死んでいる」。生と死の境目も定かでないほどに、彼の人生はたぶん、うわの空だった。オブリストの本にある、スーザン・ソンタグによる評も読んでも、あの死体を思います。
「ヴァルザーの人生はある種の抑鬱型の気質のもつ落ち着きの無さの実例であって、静止状態に、そして時間が広がって消費されるさまに、気の滅入るくらいに魅了され、人生の多くを時間を空間に転化することに費やした。歩き回ったのだ」。
雪原に倒れる彼の死の光景も、広がりをもった静止状態だったと思う。わたしにとってヴァルザーという作家は、文章よりもなによりも、第一にその死体に魅了されるのです。こんな作家は、ほかにいない。あとにも先にも、たぶん。唯一無二。
オブリストの本の内容とはまったく関係がないけれど、そんな個人的なことを思い出しました。これもまた、本を読む行為のひとつであると思います。内容だけではない。みずからの記憶をまさぐること。了見の狭くてつまらない読書はしたくない。
『キュレーションの方法』、おもしろいです(小学生な感想)。
「方法」といっても、ハウツー本ではありません。
興味を惹かれるところだけを読んで、返却しちゃったけれど。図書館で借りたの。1から10までページを熟読するだけが読書でもないのです。もっと散漫に、散歩をするように、紙の上の寄り道をたのしみたい。わたしから散漫さをとったらなにも残りません。
緩慢に動いたり、じーっとしたりすることが好きだけれど、頭の中はとっちらかって、落ち着きがない。ことばの歩調がやまない。ぐるぐる。ヴァルザーとおなじように、さいごは散歩中に、心臓発作がいい。おそろ。わたしもできれば雪か土の上。どさっと地面に体重を預けて、さようなら。アスファルトやコンクリートだと、痛そうだから。
地面があればいいか。贅沢は言うまい。せめて倒れても倒れても身を預ける地平がないような、かなしいことにはなりませんように。
コメント
その汚らわしい魂は地獄の底に叩き落されるんだよ!!!!キャハハハ!!!!!
存在痴漢罪のnagataは鉄牢へ行く・・・tetusrouだけにってか?・・・やかまし!!!!!!
みやちゃんのテンションがあんまり高いから、フォローしなきゃと思って、確認してから大急ぎで返信コメントを打っています。お目醒めもすばらしいけれど、あんまり無茶すんなよな……。でもちょー尖ってて、かっこいいよ。みやちゃんはみやちゃんで唯一無二スタイルだよ。心配になるくらい。
これからも、いろんなみやちゃんが出現することを期待しております。151匹のみやちゃんをゲットすれば、みやちゃんマスターですよね。なりたいな。ならなくちゃ。ぜったいなってやる。
これが炎上ってやつ?
でも、実験的に驚いてみるとおもしろいかもしれません。「うっそ!やばっ!チーズが裂けてる!」みたいな。note.muでわたしが「こんにちは」が流行語になる、などと頓珍漢なことをほざいているみたいに。あたりまえにあるものを、あえて珍しがってみる。
もし炎上していたとしても、鎮火には成功しましたので大丈夫です(たぶん)。
とりあえず、nagata読者の皆様、盛大に滑っただけで、あれはジョークです。
僕も彼のblogを人生のバイブルとして毎朝、一文字一文字唱えてるタイプの敬虔な読者です。
楽しんで読んでます。ワールドカップの日本より応援してます。ブブゼラを吹きながら。
個人的には、どこのコメント欄でもtwitterのリプライでも、二者関係だけではなく、ほかに閲覧する第三者がいることがつねに念頭にあります。ぶっちゃけ私信でも、パブリックに公開されたってかまわない水準で書いています。
わたくし性と、おおやけ性のバランスをとりつつ。そうしないと、気持ちが悪い性格なのです。性分でんがな。だれのものでもなく在りたい。
いつかみやちゃんにも紹介した本、魚川祐司の『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(新潮社)にあった「悟り」の在り方のひとつは、他の全ての現象と同様に、ひとつの「公共物」である、というものでした。引用します。
“「私」と呼ばれる、継起する現象のまとまりは、「私のもの」ではないけれども、他の誰かのものでもないし、ましてや「みんなのもの」でもない。花が花のようにあるように、山が山のようにあるように、石が石のようにあるように、「私」はただそのようにある。そこには意味も無意味もない。”
引用おわり。だれのものでもなく「ただそのようにある」こと。そんなふうに、悟ることができたらいいなーと思う。わたしの中には、それに近い、すべてを俯瞰的に眺めている第三者がいて、ずっとそいつに俗世のわたしが監視されている気がします。
「神」のようであり「悟り」のようでもある、第三の監視者。
動物園に採用が決まったら、見に行くから、どの檻に分類されたのか教えてください。私見では、意外とワニに近いかもしれません。デスロールが似合います。獲物の肉を食いちぎるためのワニの習性です。もちろん、動物志望ですよね。でも飼育員に分類されればしめたものですネ。
このブログは、毎朝、お経のように唱えると極楽浄土へ行けますから、がんばって唱えるがよしです。ブブゼラは8年前ですよ(ふつうのツッコミ)。ロシアにはなくて淋しい。ブブゼラのないワールドカップなんか、見る価値はありませんよね。
所謂、唯物史観みたいなものなのですけどね。ただ、唯物史観そのものが人間の善や意味の根拠として使用されるのであれば、結局、唯物史観とは人間の手垢がバッチリついた一つの意味論にしか過ぎないんですよね。例えば、犯罪者は世界に必然性によって生まれちゃったから、悪は憎んでも、人は憎まずの方が「よい」みたいなね。しかし、その意味論すら、唯物史観に取り込んで考えると・・・まあ、無限後退して、世界は空ですね~はーとって結論が出るんですよね。ああ、空って、マジ便利。
ブブゼラが古いのは分かってたけど、今でも多少使ってる奴いるかなって思っていったの!!あ~、ホント、もうヤダこの人~~!!会話は何でもかんでもツッコめばいいと思ってるタイプの人だ~~~~~~~!!!アタシ~~~、そういう人って~~~・・・
キライじゃないわ。
ドキッ!!心臓がケツからプリン伯爵3世でござるの巻~~~~~~!!!!
(^_-)-☆
わたしも解釈はしているのだけどね。社会の一員として生きて、ここで流通することばを使っている以上、そうなる。ただ、意味や因果では計り知れないものにも興味があるのです。そこにこそ価値があると思う。無意味なノイズ。ゴミ。死体。冗談。間違い。エラー。うまくいかないこと。こんなはずじゃなかった時。よくわからない出会い。偶然。無理解。みやちゃん。愛しさ。切なさ。心強さ。俺。お前。大五郎。酒。泪。男。女。飲んで。飲んで。飲まれて。飲んで。
3匹目の「悟り済ましたみやちゃん」は、レベルを上げて進化させると瀬戸内寂聴になるんですよね。ポケモンでいうとギャラドスくらいの強さだね。「はかいこうせん」をおぼえるよね。レアみやちゃんゲットです。
「ブブゼラを吹きながら」は、ちがいますよ、わかったんです、杏里の名曲「オリビアを聴きながら」が下敷きにあったはずです。「出会った頃はこんな日が来るとは思わずにいた」という別れの歌。
ようするに、わたしとみやちゃんの未来における破局の予感を織り交ぜながらも、だからこそ、まだ愛し合っている現在の貴重な時間を、必死で応援するのだよ!という含みをこめて書かれたことばなのです。
筆者の気持ちを考えました。現代文の読解だけはつねに何も勉強せずとも高得点だったわたしです。