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日記566


著作権の保護期間が著作者の死後50年から死後70年に延長されるそうです。わたしは青空文庫などの、著作権切れの文献を気前よく公開してくださる取り組みが好きなので、これには直感的に残念に思います。

著作権については、雑なことを書くと、いまのところ権利自体はあってもいいが、グレーさを保ったゆるやかな法運営がのぞましいと思います。もっと雑に書くと、まだすべては過渡期だと思う。なにより、著作権の保護の下にあろうがなかろうが作品自体の価値は変わらない。希望としては、過去の文物が未来の人々にも容易に伝わりやすい法制度がいい。文化の価値を決めるのは、現在のひとだけではない。

わたしがネットにあげているものは文章も写真も勝手になんでもどうにでもしていただいてかまいません。したいひとがいるならば。わたしの記事には引用も多いけれど。それと明示せずに歌詞などの一節を忍ばせていることもある……。

わたし自身がなんでも取り入れちゃうタイプなので。めんどっちいな。ことばは、どこまでがじぶんで、どこまでが他人なのか、なんて考えだすとわけがわからなくなります。きっぱりとした区別なんかできっこありません。でもケチなことも言いたくありません。

詩人のボードレールが書いた唯一の小説作品『ラ・ファンファルロ』に登場する、サミュエル・クラメール。彼の考え方に、ちょっとした共感をおぼえるのです。


サミュエルにとってごく自然な悪癖の一つは、自ら讃嘆の対象となし得た人々と対等な者と己をみなすことであった。見事な本を一冊夢中になって読み終わった後で、思わず下す結論は、これは私が書いたとしてもはずかしくないほど立派だ!というのであり、――そうなればあと、だから私が書いたのだ、と考えるにいたるまでは、――ダッシュ一本の距離しかない。


ダッシュ一本の距離、ごく自然な悪癖。こんな気持ち、わかるひとにはわかるのではないかしらん。ここまで尊大ではないにせよ、好きな著作者と、いつの間にか思考が同一化しているじぶん、がたまにいます。あとで読み直してはじめて気がつくことも、多々ある。「あれ?これってあのひとも書いてなかったっけ?」みたいな。

わたし個人は、文章をまるまるぱくられたってかまいません。「わ~じぶんとおなじことを書いているひとがいるよ~すご~い」と無邪気に感動しちゃう。でもリンクとクレジットくらい入れてほしいかな。まあ、どっちゃでもええわい。山形浩生さんがガンガン打ち出しているような姿勢に、とても好感をもっています(さすがにまるぱくりは許容していません)。


 リンクを張らせろとかいうしゃらくせぇメールはよこすなバカ野郎! ケチなんかつけねーから、どこへでも黙ってさっさと張れ! そういうメールをよこしやがったら、断るからな。いちいち相手の身元を確認していいの悪いの判断するほど暇じゃねーんだ! そんなけちくさい真似するくらいなら、最初っから無料でこんなもん公開したりしねーぞ! 世間様におめもじさせられねぇと思ったら、その時点で引っ込めるわい。

 黙って張る分にはなんの文句もつけない。絶賛リンクも結構、「こんなバカがいる」的罵倒嘲笑リンクも大いに結構。煮るなり焼くなり好きにしやがれ。ファンメールもかねた事後報告もオッケー。あとおひねりでもくれるってんなら、もらってやるからありがたく思え。いいの悪いの返事も書いて愛想の一つも振りまこうってなもんだ。


リンクするなら黙ってやれ!より。

学生のときバロウズ関連でお名前を知り、これを読んでひと目でファンになりました。わたしもこうありたい。むろん、これもぱくりの姿勢です。サミュエル風にいえば「これは私が書いたとしてもはずかしくないほど立派だ!」と思う。口は悪いけれど、それもスタイルとして格好いい。「だから私が書いたのだ」と短絡したくもなります。書いたのは、山形浩生さんです(一応)。

小説でも論文でも詩でもなんでも、読むことはじぶんの思い込みやら狭い狭い価値観やらがぶち壊されるところに快感があって、同時に恐怖もあって、そのエキサイティングな沃野では自他の境目なんか余裕でとっぱらわれる。それこそが文化体験の醍醐味なのだと思います。じぶんを守っているばかりでは、知ることも感じることもできません。

わたしは、わたしを破壊してくれるような物言いに惹かれます。「読む」だけではなく、文化・芸術のすべてに、破壊をもとめている気がする。固いガードをかいくぐり、目ん玉に中指つっこまれて脳味噌を掻き回されるような表現がほしい。あるいは、ガードなんか関係なく一瞬で、いま居る場所から連れ出されてしまうような。それと出会う以前のわたしがどんなだったか、二度とわからなくなるほど、遠くへ。

あるひとのことばや、作品や、生き方と出会ってから、それ以前のじぶんがどんなだったか思い出せなくなり、見失った、という経験はじっさいにあります。山形さんもそのひとりかもしれない。考えてみるとあんがい、たくさんいるかも。軽く見失う。インスタントに茫然自失。記憶喪失だ。破壊されまくり。

えっと、とりあえず、著作権の保護期間が延長されるってニュースには、暗い気持ちになります。まいにち、青空文庫の延長反対ロゴを眺めているからかな。

人々が、それぞれに与えられた限り最大限の自由を享受できる社会であってほしいと願う。





6月29日(金)


 都市というのは、上辺だけの約束事と、何の保証も無い情報だけにがんじがらめに成っている空間である。
 いつどこで何をするか、誰と会うか。都市民にとっては、既に決まっている事であり、こんな人生は無いのも同じ空虚である。
 今や都市民にとって真実のコミュニュケーションとは間違い電話だけなのだ。だから自分は電話番号を聞かれた時に、積極的に間違った電話番号を教えるのである。


と書いたのは寺山修司。

間違い電話がかかってきて、ちょっとうれしかったのです。「ちがいます」とお伝えしたら、すぐに切られちゃって、あたりまえですが一抹の淋しさが残りました。謎の淋しさ。もっと間違おうよ。

あ、わたしが「ちがいます」と正解を述べたから切られたのか。「正しさ」は会話を終わらせる、隘路である。逆に、間違いには無限の広がりがある。

このブログやSNSを通じた出会いはみんな、間違い電話みたいなものです。たぶん、正しくない。ランダムでひととつながるスマホのアプリも、間違いだからたのしい。ぜんぜんよくわかんないひと同士が、わけもなくつながる。そんなこと、ひと昔前ならありえなかった。ありえないつながりが、ありえている。

電話がくれば、わたしは非通知でも出ます。気がついたときには。ちなみにスマホのプッシュ通知をオンにしているのは、Gmailだけです。あとはすべて切っています。


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