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日記568





反対に「人間は社会的な生き物」ということばも聞きます。でもそんなの、ちゃんちゃらおかしいと思ってしまう。へそで茶が沸く。矛盾するようだけれど、社会とは、本質的には反社会的な人間たちによる、創作物なのです。ひとは、ないものをつくります。創作は、ないものねだりの産物です。

「社会体制」って、ひとびとの夢なのです。そしてこの「社会体制」という夢の創作も、つめてゆくと、大勢の支持によって独裁者が生まれたり、戦争が勃発したり、虐殺が起こったり、もろもろ「反社会的」な悲惨な事態に見舞われたりもする。それだって、人間のこいねがった夢です。「私はそんな夢はみない」というひとは、たぶん、申し訳ないけれど、夢に没入しやすいのだと思う。半睡半醒くらいでおねがいしたい。

つくられたものは、備わっていないものです。もともと「社会的な生き物」と人間を定義して満足できるひとには、社会を「つくる」という意識が欠落しています。みずからも、社会的につくられた人間のひとりである、という意識までずっぽり抜け落ちている。夢の中だね。そんなひと、わたしはおそろしいと思う。社会が「ある」のではない。つくるのです。

人間に「社会性」なんかそもそも備わっちゃいないから、がんばって先人たちがでっち上げてきたのです。でっち上げに感謝です。ときに「反社会的」な方向へ、でっち上げてしまったことにも、感謝を捧げたい。わたしたちは過去に学べるから。きっと、きっと、学べるから。いっぽうで、ぜんぶでっち上げに過ぎない、とも言えます。それだけ社会は脆いものです。あくまで集団がよってたかって「つくるもの」。

あたりまえの、所与のものではない。あぐらをかいていたら、いつの間にかおかしな夢の中へと迷い込むかもしれない。だけど「ほんとはみんな知ってるよね」と西崎憲さんがおっしゃるのなら、みんな知っているにちがいない。半睡半醒のまなざしでいたい。ほどほどに創作して、ほどほどに、手放すこと。安心して眠りこけて、ときどき起きて、また、静かに眠れますように。いつまでも眠っていたいけれど、たまには起きないと、起きて夢をつくらないと、いけない。

「そんなに信じなくてもいい」と言ってみたい。死ぬことも、生きることも。社会も、組織も、どんな共同体も。ことばも、まなざしも。眠りも、覚醒も。物語も、音楽も。わたしも、あなたも。そんなに信じなくてもいい。そう。そんなには、ね。だからこそ、つくることができる。信じ切っちゃうと、動かしようがなくなるから。そんなに信じなくてもいい。そこそこ信じて、たのしめば。プロレスだよ。演技だよ。だいたいね。みんなリアルだなーって、ぼけーっと思う。

不信と欠如が創作をうながす。そんなのわかりきった陳腐なこと。人間関係は不連続だなって、ふと思う。あなたは、飛び飛びにやってくる。それもランダムに。ときにリズミカルに。とんとんとん。と。関係は空想と物理現象のリズム。いたりいなかったり。あいだに生じる。不連続な空白に浮かぶ他人の実存。時の進み方の認識もほんとは、不連続なものだと思う。

わたしはフィクションも、現実も、そんなにきっぱりと分けて考えてはいません。分けられるものか。人間の創作物を、矮小化しない。想像力は、大きなちからを秘めています。どんなものであれ。人間を考えたいのです。ただ人間のことを思うだけです。わたしは、人間を知りたいから。わたしもまた、人間だから。たぶん人間だから。人間なんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておけ。





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