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日記570


渋谷の街は光が強すぎて直視できない。石材越しにしか。
都心のほうはどこもおなじだけれど。


7月4日(水)


ヒューマントラストシネマ渋谷で『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』を観ました。ショーン・ベイカー監督。パステルカラーというの、おしゃれな色味の映画。きれいな紫色の低所得者向け公共住宅(=Project)が舞台。「貧困」ということばは、色が強過ぎるかな。あくまでパステルカラー。映像とおなじ中間色の目線から物語も紡がれていたと思う。カメラは、だいたい、こども目線のアングル。それがゆえに価値中立的なのか。こどもの「わからない」目線、ということ。

わかりやすく強い色のついたメッセージ性はありません。まず映像作品として、とてもよかったな。まさに画になるというか、フォトジェニックな映像。感想をことばにするにしても、原色の強い色味はつけたくないと思う。「間(あわい)」の表現がよかった。

主人公の女の子が、ずーっとのびのびと、とんでもなく自然な演技をしていてとてもかわいいのです。楽しそうに。ずっと。ずっと。ラストにさしかかるまで。ええっと、あらすじは特に書きません。感想だけです。不親切なブログ。「ネタバレ」も留意しません。親切味ゼロ。つまり、ネタバレをします。

6歳の女の子、ムーニーとその母親が物語の中心。父親はいない。観終えて思い返すのは、こどもと、おとなのコミュニケーションの狭間に存在する、幸福な嘘について。その嘘による幸福は、“いま”を保証するだけのもので、その先の保証は一切ない。幸福な刹那を、幸福に糊塗するための魔法でできた世界。

フロリダ・ディズニー・ワールド付近にある、安モーテルで暮らす母子。こどもにはこどもの魔法があって、ディズニーなんか関係なくいつも楽しそう。ディズニーはたぶん、おとなが懸命に創造した、「幸福な嘘」の象徴なのかもしれない。

おとなが嘘をつき通すには、コストがかかります。こどもの視界をさえぎるためのコスト。こどもには見せないもの、がたくさんある。

ディズニ―ランドも、来場者の視覚を構造として制限することによって先を見せず、わくわく感を演出する設計になっているそうです。遠近法を駆使した設計。そしてなにより「夢と魔法の王国」は、外の世界とは隔絶された閉鎖空間だからこそ成立するもの。閉じることによって、遮蔽されたこどもの視点を、だれもが獲得できるように設計されているのです。相応のコストをかけて。

映画のさいご、母親は「コスト」の清算点を迎えます。このとき、ムーニーには「先」がはっきりと見えてしまう。幸福な嘘によってさえぎられていた「先」の時間が、顔を覗く。そしてあんなに明るかったムーニーの、泣きじゃくる姿がここで初めて映し出されます。こどもがネガティブな感情を発露するシークエンスは、このラストにきてだけ。だから余計にかなしくて。

「いまここにあるもの」だけで構成されていた、こどもの魔法の世界が、「先」を見出すことで崩壊する、そのさまを思い知らされる。同時に「先」が見えるおとなたちの、かなしみも。「幸福な嘘」が、ほんとうは、おとなのためにあることまで。おとながつくった魔法なんだもの。

「先」を見据え過ぎると、そこには死が待つだけでいっさいがむなしくなります。それは、ある意味では正しい理解なのだけれど、あまりにも酷薄でつらい世界です。わたし個人は、「いま」という幸福な嘘によってまだ、この世とつながれている感覚があります。こどもだけではなく、おとなにも等しく「先」にふたをする「幸福な嘘」は必要だと思う。生きるために。

しかし嘘はいつか、破綻する。そんなことはわかりきっていながらも、なお、嘘が必要なのです。『フロリダ・プロジェクト』では、だれもが「幸福な嘘」を守ろうとしていた。しかしそれぞれの守り方が衝突してしまう。壊したいのではない。守りたいのに。嘘の力で、その刹那を生き抜いているひとびとの物語、だったのかな。

ムーニーが序盤、「おとなの泣くときがわかる」と言う。泣くときは、先がわかる、と。ネガティブな「先」が伝わりやすいからこそ、ムーニーはつとめて明るくふるまい、そうやってじぶんを守っていたのかもしれない。そう思うと切ないけれど、これは考え過ぎか。もっと無邪気だったよ。だといい。

先にはかなしくて、理不尽なことしかない。わかってる。でもわたしは嘘と未来をつなげたいと、いつも思う。先はかなしくない。そんなわけがない。だれと別れたって、離されたって、死んだって、かなしいことなんか、ひとつもないよ。あるはずがないんだ。

夢と魔法の王国へ、逃げ込めばいいじゃないか。
ほら、その通り。友と手をつなぎ。


走って。




そのあと、ジュンク堂書店に寄り、それからいっしょに映画を観た友人、男二人で夕食。友人が選んでくれた、なんか妙に素敵なお店のテラス席で。素敵が過ぎてピントが合わない。とかく渋谷は直視できない。渋谷に合わせるピントがない。BOHEMIAというお店。完全にデートコースといった有様です。ナイスエスコート。




露出調整もままならないほどのデート感覚。
やだ、あたしったら緊張してたのかしら。

益体もないお話をしながら、とりあえずジントニック。
アルコールで緊張をほぐそう。




ほんでシーシャ。水タバコ。わたしは吸いません。
ノリが悪くてすみません。ワルノリデキマッテル。

ちょっとしたものをつまむだけの、軽食という感じで、わたしとしては理想的な夕飯でした。ありがとう。風が強く吹くテラス。帰りに自宅最寄りの駅から歩いていたら、雨が降り出して、濡れてしまった。傘がない。小走りで、帰宅。


コメント

無邪気なみやちゃん さんのコメント…
先日はどうもありがとです。楽しかったです。

『フロリダ・プロジェクト』のnagataさんの感想はおお、流石だなと感銘を受けました。
先が見えないからこそ、今が楽しめる。それはディズニーランドも『フロリダ・プロジェクト』のムーニー達の生き方も同じである。そして、それは普遍的にいうと、人生そのものもいつか迎える死に対する逃避行のようなものであると。ちなみに、ドイツの哲学者ハイデガーはそんな人間が死から逃避する姿を「頽落」と呼んでいます。いつもnagataさんには引用してもらっているので、今回は引用返し。
「過去を振り返ることも、未来を見据えることも少なく、絶えず同じ「現在」が続いているかのような倦怠感に包まれている。ハイデガーはこの日常的な人間のあり方を「頽落」と呼んでいる。それは、誰もが心の奥底で抱えている死の不安をまぎらわし、無意識に隠蔽し、そのおそろしさから逃れようとすることによって生じた状態である(『哲学』山武伸二)」
そこからハイデガーは、いつか死ぬことを自覚して、本当の自分を取り戻そう、みたいなことをいいます。要するに、ハイデガーならば、『フロリダ・プロジェクト』のムーニーたちはマジ頽落し過ぎ!と言いそうです。でも、ムーニーちゃんは、きっと、大人が泣くタイミングが分かっているのだから、自らが頽落を選んで生きているのではないか、と僕は思います。頽落こそが人間の本来の姿ならば、頽落を選んで生きてもいいじゃないか。だって、ムーニーちゃん、ピカピカに輝いて生き生きとして生きてたじゃん!!そう、ハイデガーには言ってやりたいです。

ボヘミアは今後誰かと渋谷に行く機会があれば、ドヤ顔で連れて行きましょう。city boyというプロップスが獲得できます。次は暇なときは、美術館やら駄菓子Barにでも行きましょうか。ではでは。
nagata_tetsurou さんの投稿…
無邪気なみやちゃん、コメントありがとう。
ひとが変わったように礼儀正しい。笑。

みやちゃんらしい引用もありがとう。ちゃんと著者名の漢字変換と、書名も微妙にちがっていたり足りなかったりしていそうなところが、まったくみやちゃんそのものです。わたしはこういうとこ慎重に確認する派なので、おもしろいなーと思います。

もうっ、おてんばなんだから!つんっ☆

『フロリダ・プロジェクト』のラストは、突然のファンタジーで、リアルに描こうとしたらあんなことはできないのですよね。いちばんわかりやすい嘘をぶち上げて終わる。嘘だとバレバレの嘘。

それって、嘘としての機能はもはや果たしていません。信じさせるつもりも、騙すつもりもなくって、わかっている。嘘をつく側も、つかれる側も、ぜんぶわかっている。それでも、「嘘だ!!」と言ってしまわない。そういう種類の嘘って、ありますね。

みやちゃんもおっしゃる通り、ムーニーも、そしてお客さんも「わかっている」。それでも信じて嘘を壊さぬよう守るのか、あるいは冷めた目で「嘘じゃん」と言ってしまうのか、ここは立場がわかれるところでしょう。

人生って、ネタバレしまくりなんですよね。結局、みんな死んじゃう。ちょーネタバレじゃん!!バラさないでほしいです、ほんと。「死」は重大なネタバレです。もう「わかっている」。

わかっているから、“いま”が美しくて、かなしい。とどまってくれない。なんで。わたしはほんとうに、わかっているのかな。こども時代から変わらぬ“いま”を、いつまでも、いかないでと追いかけて。三十路手前。