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日記573


めっちゃドリフトしています。
タイヤ痕。バナナを踏んだにちがいありません。
それか、カメの甲羅をぶつけられたか。





「ひとが老いている」とこのごろ、思う。わたしの身近なひとびと、そしてわたし自身もまた。放置してきたツケが、まわりだしているようにも思う。周囲と、わたしにも。「なにかを始めるには、早いほうがいい」とよく言われる。そんなことをわざわざこぞって教えてくださるのは、誰でも、いつもいつも、遅すぎるからだろう。

手遅れだった。ここに生まれてしまったことも、物心がつけば、すでにあきらめる他なくて、いくらあがいても仕方がない。なんにもなかった頃にはもう、戻せない。宇宙が開闢する以前の世界まで戻ればいい。それくらい、なんにもないところへ。

しかしもう、なかったことには、ならない。なにもかもが手遅れであるように。いつだって、わたしたちは手遅れであるしかない。処置のしようがない世界に、処置のしようがない人間たちが集って、必死でなにかをつくっている。この土地がおもしろい。手遅れでありますように。という、愉快犯みたいな願望からつくられた世界にちがいない。その通り、ちゃんとみんな手遅れだよ、かみさま。愉快です。ありがとう。

手遅れでありますように。

わたしはよく「この場所」とか「この土地」などと書く。このとき想定しているのは、東京とか日本とかではなくて、宇宙や地球。または長い歴史のつらなりとしての時間的な位置。つまり、世界のすべての記憶。この腐敗した世界に堕とされた、という意味です。こんなもののために生まれたんじゃない。I am god's child. いっぽうで狭く「この家族に」とか「このひとたちのあいだで」とか、そういう意味もある、かな。

日本は、とても老いた国だと思います(いきなり日本の話)。じぶんらは、老いていると、そろそろ認めたほうがいい。その自覚のもと、あたらしい種や芽を胚胎させてほしい。しないといけない。日本をつづけたいのなら。 まずはじぶんに、あたらしい種を植える。

しかしわたしもいい年なのに、中学生からなにも変わらない。いや、赤ちゃんから、きっと変わってなんかいないのでしょう。本質的には。クソを漏らす頻度が下がっただけだ。それから、みずからでみずからを表現する方法が変わっただけなのです。

赤ちゃんとして泣きわめいてつたえることは、しなくなった。だから赤ちゃんではない。でも所詮、変化はその程度だろう。方法が「泣く」から移動したのみ。内容は、泣いていたころと変わらない。

人間は、変わらないけれど、それを表現する方法はいくらでも変えられると思う。わたしはそこが、以前よりもかなり変化した自覚はあります。ことばのかたちや、枠組みのつくり方。言い回し。根回し。アウトプットの頻度。立ち居振る舞い。でも中身は、変わんない。クソを漏らしていた頃も、宇宙が始まってもうみんな手遅れだと泣きわめいていたのだ。

「ある」をすなおに受け入れる機序が未発達みたい。存在に疑問をいだいてしまう。あらゆる存在がこの世界には、ある。モノがある、動物がある、植物がある、空気がある、宇宙がある、ことばがある、人間がある。どうしてだろう。わからない。「あるものはある」と経を読むように繰り返し言い聞かせ、あきらめるほかないのだろうか。

対して「ない」はわりとすんなり受け入れられる。
これも不思議だ。なくていいと思う。

いろんなものが、なくていい。
なくていいのに。

街で建物が解体されて更地になっている場所を見ると、すっきりと晴れ晴れしい気持ちになる。わーなんにもなーい!と、うれしくなる。空き地が好きです。屋上もなんにもなくて好き。でも空き地なんか、東京にはほとんどない。屋上も立入禁止だ。「空き家問題」は取り沙汰されるけれど。

名前のない土地に住みたい。
名前のない人間になりたい。
名前のない星で生きていたい。
なのるなもない。

わたしにとっては、「ない」が標準仕様なのだろう。あらゆるものが「ある」とされている、この場所がうまく理解できない。「ある」という前提がわからない。それは、ほんとうにあるのですか。あなたはほんとうにいるのでしょうか。わたしはどこにあるのだろうか。

「そんなもの、ないんじゃないの」と軽く言うと、怒るひとまでいる。愛だとか、恋だとか、好きだとか、嫌いだとか。存在だとか。確信がもてない。耳をふさぎたい。気分よく歌をうたって「ごめん、なんにも聞こえないわ」と言いたい。

忙しいんだ。
いま歌ってるから。


7月8日(日)


友人へのメールに「アナルファック」と12回ほど書いた。

女性にはこんなことしないので、おどろかれる向きもあるかもしれない。このブログにも下ネタはすくない。それは、許容される範囲が狭いからです(下ネタよりもっと狭いことを書いている気もしますが)。なにより、下卑た輩に寄り付いてほしくもない。わきまえてほしいなら、じぶんからわきまえる。

でもお互い、中学生男子でいてくれる友人には、そうする。中学生が何も知らずにただおもしろがって発する「アナルファック」なのです。無邪気。わたしは相手によってコミュニケーションのチャンネルを合わせます。多チャンネル化している。許容範囲は死ぬほどひろい、つもり。ある程度、目線の合うひとならば。

七夕の日、「願いごとは?」という質問に、「訊かれるひとによって変わります」と返答した。わたしに関係するだれかと、わたしとのあいだにあるものが「わたしの」願いにもなる、と。たったひとりで願うことは、「いなくなりたい」みたいなことばかりになってしまう。

でも、そうだな。

過去に死にかけたとき、「生きようとしている」と思った。身体だけは、勝手に。生き物だ。いきものがいる。この身体も、すべてわたしだけの意志で統御できているわけではなかった。自殺と他殺の境界は、ものすごくあいまいだった。きっと、生と死の境も、あなたとわたしの境も、物理的・生物学的なことだけでは測れないあいまいさに包まれている。

差異性の論理と、同一性の論理とのあいだでゆれる。差異性と同一性、つねに両輪があるのに、ことばはいつもどちらかいっぽうへと振れがちです。両方ある。嘘も本当も。合わせて真実としてある。愛憎も、好悪も。とくに短文だと、この両輪までことばが及ばない。twitterを見ていて思う。 

なんかさいきん、暗くなりがちな気がする。ひとりでいると。
相手がいれば、「アナルファック」を連呼できるのに。
なんでだろ。

とはいえ暗い気分もおもしろがっています。
哀しい気分でジョーク。



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