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日記574



果てない“?”がアンテナ
なにもなくてひとり突っ立ってた
ひとつ膨大な時間が流れた
また今夜、夢の中逢えたら





皆がただの歯車になり狂わぬように
果てない“?”を頭の上に


「果てない“?”」のリリックが、唾奇の「Just thing」と、PUNPEEの「Oldies」でかぶっていたなーと思っただけです。引用でしょうか。わたしも果てない“?”に追われるまいにち。それが「充実」ではないのか。群れの中で、わいわいさわぐことが、わたしにとっての充実ではない。それもたまには楽しいけれど。

疑問符をつけられるものは、すべて、生きているものなのだと思います。死んだものって、もう疑えない。死につつある思考は、疑うことをやめ始めます。疑えるうちは生きている。死はあまりにも完全だから、疑うことができなくて、かなしい。いやちがう。「死」でさえ疑って、想像力という息吹を使って、蘇生させることができるのです。人間には、それができる能力がある。

ひとが、かなしみから立ち直る過程は、疑問符をとりもどす過程なのだと思う。可能性をとりもどす、と言い換えてもいい。まえにわたしは、「そんなに信じなくてもいい」ということをここで書きました。かなしくなるとき人間は、その対象をもう動かせない、どう足掻いても動かしようのない冷たいものとして、信じてしまっている。

そんなに信じなくてもいいんです。

あらゆるものが、変化の途上にある。「死」でさえも。そんなもの、ありえないかもしれない。みんな、どこかで、いまも。いなくなってなんかいない。動物も、自然も。恐竜でさえ、いまも生きている。『ジュラシック・パーク』を観よ。絶滅なんかしちゃいないんだ。ひとには、想像力がある。どんなかたちであれそれは、だれかの希望によって生み出されたもの。そうやってどんな「死」も、熱をとりもどす。

宗教というものはだから、「死」に対する疑問符として発明されたような部分もあると思う。極楽浄土、天国、地獄などをつくりあげて、現実的な「死」を疑ってみせる。「死」の概念を、そんなに信じなくても済むように。思考を拡張するために。疑いの産物として信仰が生まれた。逆説的にも。こう考えると、おもしろい。論理が循環する。ぐるぐる。

信仰をうしなった現代人は「死」を信じすぎているように思う。じぶんも含めて。「死」への信仰が篤い。そんなに信じなくてもいいんだ。わたしは死なない。死なないよ。銃弾で蜂の巣にされても、鉄アレイで殴られ続けても、死なないから。ふふふ。よみがえる。なにをされても、しても。無敵。ここまでくると逆に「死なない」を信じすぎてしまっています。

そうですね……。なにかを疑うことはすなわち、べつのなにかを信じ始めることなのです。突き詰めて突き詰めて研ぎ澄まされた疑問符は、篤く敬虔な信仰心となんら変わらないものになってしまう。疑うことも、信じることも、たぶん、引き際が肝心です。これ以上は、問わない。これ以上は、信じない。この引き際。かなしくならないように。

でもそればかりでは、つまんないのかも。

問いまくって問いまくって、信じまくって信じまくったほうが、ものを見る眼はやしなわれる。人生はもしかしたら、そちらのほうが、たのしいのかな。わかんない。わたしは極端なところがあって、だからこそ、アウトプットはみずからに釘を刺すように中庸をこころがけています。いつも逆を考えて矛盾させる。正反対のものも、つなげて丸く描きたい。疑念も信仰も、いっしょくたに丸め、球体としてつなぐことができるはず。

たまに一方へ振り切れるけれど。あえて振り切ることもある。丸いばかりでは、退屈だから。極端さがおもしろい。尖って切れる。ゆれる。じぶんが最初の読者として、いちばん楽しめるように書く。じぶんを使ってじぶんすら楽しませることができない人間に、魅力はない。ああ生きるって、たのしいなあ。ははは。

思考の念頭に、球体のイメージがある。どんな対立構図も丸くする理路はあると思う。じっさいに現実として丸くつながるかはべつとして、理路くらいはあるのではないか。などと言うのは、どうしようもない理想主義だなあ。こういうことか、理想主義って。現実は、いびつ。

ことばでも、行動でも、ぐるぐるすることって、重要です。まわりつづける。考えを気が済むまでぐるぐるさせる。疲れ果てるまで、ぐるぐると歩き回る。「もういいや」って飽き始めたら、しめたもの。また次のぐるぐるへと行ける。果てない“?”がアンテナ。ひとりで突っ立っていても、頭の中は、ぐるぐるしている。 


ただ飽きることだけが、能力だった……。
あきた瞬間ひょっくり思いがけないものになり替る。


高橋悠治が著書で引用していた、折口信夫のことばです。

世界は飽きても飽きても飽き果てないから、きっとだいじょうぶ。また飽きることができたら、あたらしいところへ行ける。あたらしいものがつくれる。あたらしい風景を見ることができる。人間の飽きる能力を祝福しよう。わたしもたいがい、飽きっぽい。繰り返すから飽きて、飽きるから繰り返して。日々が移動する。ぐるぐる。




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