スキップしてメイン コンテンツに移動

日記577



6月~7月にかけて、遅刻の言い訳として幾人かの友に送信したメール数通。


すみません!
うんこもらしたので20分ほど遅れます。
あっ、またもれる……。
モリッ。


むろん、もらしてなどいません。
こういう嘘をつく罰か、年に一回は、ほんとうにもらします。
人生はちゃんとそのようにできているようです。
いい加減な嘘をついてはいけません。




2通目。


ほんのり遅れます。先についた場合は、わたしの淡くほんのりした不在を堪能しながら、ほんのりお待ちください。ほんのりすみません。


***


すみません、12時35分に到着します。
約30分間、わたしの不在という至福をご堪能ください。恍惚の30分!


「この言い訳がひどい2018」大賞です。
いまのところ。

ひどいけれど、これは発想の転換になります(言い訳の言い訳)。ひとの不在に「遅刻」という学校教育的な責任を問う名前をつけ、わざわざ待ちながらイラつくのではなく、そいつの不在に酔いしれるのです。

人間は、たいてい「わざわざ」イラついています。狭く考えて、思考が学校で習った了見の狭いルールに従順すぎるのです。考え方ひとつで冷静になれるのに。たぶん、ね。ルールなんか、てめえでいくらでもつくり変えてよいのです。イラつくと、健康によくありません。わたしは友の健康を最大限、気遣っているのです。「遅刻」ではありません。そんなレッテル貼りはもういい!戦争は終わった!学校は卒業した!

雑念を払い、もっとシンプルに考えましょう。
「不在」です。いない。
ここにはいないだけ。
どっかにいる。来るかもわからない。

青空をぼんやりと眺めながら、「あいついまごろ、どこでなにやってるんだろうなー」みたく、いなくなった人間を偲ぶように、感慨にふけってもらいたくて。もういない。もう二度と会えないんだ。そうやって、切なさとノスタルジーに浸りきり、じんわりと涙で目尻を濡らしたところで、颯爽とワシがルンルン気分のスキップで登場!

あなたは目を疑うだろう。あ……あれ?うそだろ!?生きてたのか!ほんとうに?夢じゃないよね!よかった。いまちょうど、お前のことを考えていたところ。なんて日だ!こんなにうれしい日は、長い人生でまたとない!お前の不在を想って、はじめて、ようやく、気がついたんだ。ずっと言えなかったけど……。愛してる!結婚しよう!

と、熱い抱擁を交わすわけです。
うまくいけば。

逆転の発想!
めでたしめでたし。




3通目。


ごめん、なんか宇宙人にさらわれて謎の金属片を体内に……や、やめろ!ふぐぅっ!ピギャー!ひゅ~どろろろろ、ちゅどーん。ばたっ。


これもひどい。

いや、どれもひどいけれど、これはもはや、なんの連絡だかもわかりません。とりあえずただならぬ事態に襲われていることだけは理解してもらおうと思って、送った言い訳です。「ただならぬ事態」ですが、メールを打つ余裕はあります。つねに余裕を忘れてはいけません。どんな危険に直面したときにでも、つらいときにでも、笑えるように。歌えるように。ひとを愛せるように。

しかし、たいてい火に油です。




4通目(何回遅刻してんだ)。


すみません、30分ほど遅れます。。。
さっきまで精神と時の部屋に強制連行されていて、時差ボケで……
でも釈放されてよかった〜(にっこり)。


***


鎌倉て遠いね、アメリカのほうが近いよね。アメリカで待ち合わせたかったよ〜。
それかボリビア。


***


いまニューヨークにつきました。これからインドのチェンナイ空港を経由して、タイのスワンナプーム空港から南米らへんに飛び、アンデス山脈を登頂してから火星と金星の周回軌道に入ったら鎌倉の大仏はもうそこですね〜。
カミングスーン!


なにが「カミングスーン!」だ。
なんだか自由すぎると思う。

なんでじぶん、こんな人間になっちゃったのかわかりませんが、平謝りしまくってギスギスするよりも、このくらいのどでかい「言い訳」をぶっかますほうがいいと思う性質なので、たのしんでもらえるとありがたく思います。あんまり許容範囲のせまい方とは、友人関係なんて築けないし……。

「遅刻は殺人」とライムスターの宇多丸さんがおっしゃっていて、要するに、遅刻とは他人の限りある人生の時間を簒奪して殺す行為である、との論理は、わかるといえばわかる、ごもっともなところもあると思いますが、「他人から奪われる時間」という発想がわたしにはありません。でも「そういう論理もありうる」くらいの理解はできます。

どんな時間でも、なにを強制されていても、時間は、わたしの時間です。そして、あなたの時間です。自他の時間を越境することは、できない。人間は、ひとりきりの時間を生きている。取り替えようのない時間の上に、それぞれの人間がぽつんと佇んでいる。ひとり。ともに、隣で過ごしていようとも、冷厳なまでにひとりだ。わたしの時間は、わたしの時間でしかない。

他人に明け渡せるなんて、思ったことはありません。
どんなけ待たされても、奪われた感覚はない。
わたしの時間だ。
どこまでいっても。通い合わない。
わたしの時間。

わたしだってじつは、わたしを待っている。
いつまでもこない、ゴドーを待つように。

それは、すこし寂しくて、こわい。
でも一方で、大きな自由もある。
希望さえ、ほの見えるかもしれない。

なにを待つ時も、わたしの時間にしてみせる。
わたしがわたしと出会う前に。
鬼の居ぬ間に、なんでもしてやれ。
なにをやらされようが、わたしのもんだ。
たのしいよ。

奪い合うのではない。
「限りある時間」なんてうそだ。
人間は永遠のなかに浮かんでいると西脇順三郎は書いていた。


生物のどんなに短い生命の時間でも、永遠の時間の一部分であり、またどんなに小さいものでも、永遠の空間の一部分であると思う。ローレンスは「死の舟」という詩を書いて、忘却への国、永遠の国へ船出のことを書いたが、死の船も生の船も初めから永遠のなかに浮かんでいる。


わたしも永遠の一部。

時間の総量があらかじめ決まっていて、
それを他人と奪い合うことが人生なのだとしたら、
くそつまらないうえに、だるくてとっくに投げ出している。

増えることはあっても、減ることはない。
だれの時間もなくならない。
どんな瞬間もなくならない。
減らず口、それも然り。

いつだって、ひとり。
永遠の只中に浮かんでいる。
あなたと。



もうすぐわたしが来そうかな。
遅れる。いつも遅いな。
あれ、まだあんなに遠くにいる。

遅れてごめんなさい。






コメント