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日記578


きのうは遅刻の言い訳メールをネタとして転載しましたが、あの、遅刻して開き直っているわけではありません。心境としては「まじごめん、ほんとなんで遅刻するんやろ、遅刻半端ないって、大迫より半端ないってもう、どうやったら遅刻止められるんやろ、時間ってなに、こわい、もう人生だるい、消えたい、時空を超越したい、3次元的な時空間から離脱したい」と思いながら、でもこのようなことをそのまま書いて送信すると重たい空気になりそうなので、ポップなことばに変換し「宇宙人にさらわれて謎の金属片を……ふぐぅっ!」などと打っているのです。

切羽詰まったときほど、軽口を叩く。
おもしろくなってきたぜ……。
腹には重い一物を、そして誠実さも携えつつ。

傲慢な自己正当化を図っているわけではない。わたしなりの、お許しの乞い方です。もちろん相手との関係も見つつ。友人でなければ、事実を述べて謝るだけ。でもそんなのほんとうは、つまらなくて息苦しい。それでは、じぶんが許せない。

おかしなメールを書くのは、じぶんからじぶんを許すためでもあります。「宇宙人にさらわれたんなら仕方がない」と、わたしはわたしを許せるから。いや、許すなよ!と思われるのかもしれない。反省しろよ、と。それはいつもする。

でも「遅刻くらいするさ」って、それでもときにはよいのではないかと、半ば、思ってしまいます。されてもいい。わたしとの約束なら。3年くらいなら遅刻したって。4年目に突入したら、さすがにつっこみをいれます。いまも遅れているのか、どこへ行ったのか、二度と現れそうにないひとまで、待っている。

おおらか、鷹揚、といえば聞こえがいい。
時間にルーズ、だらしがないといえば、悪くなる。
あるいは、社会不適合?

なんでもかまわない。
ただ、仁義に悖ることだけはしない。


2018年の夏。

すでに、この季節らしいことをいくつかしている。もう夏が終わってもいい。十分だと思う。これ以上、夏になにを望んだらいいのかもわからない。この先の未来になにを望めばいいのだろう。

降りたことのない駅。ふらりと歩いて知らない神社まで行く。蝉の鳴き声が初めて聞こえた。鳴いていたとしてもいままで、わたしの耳には聞こえてこなかった気がする。

閑散とした石畳の脇にしゃがんで、写真を撮っていたら、緑色のシャツを着た年配の女性がひとり、お参りにきた。目が合い、なぜか会釈をする。地元のひとみたい。わたしもふらふらと歩いて、1円を投げる。鈴緒をつかんでそっと振ると、錆びついた鈴から鈍くて鼓膜にやさしい音が鳴る。

わたしはいつも、うるさい鈴の音にびっくりしてしまうから、おそるおそる鈴緒を振る。ここでは拍子抜けするような、古びて枯れた音がころころと、低く響いた。乾いた鈴緒の麻縄を握りなおして、つぎは大きく振ってみる。中身のない抜け殻みたいな軽い音。心地いい。


裏にまわると、錆びついた看板があった。
「願」。読み取れたのは、これくらい。
なにかの注意書きかな。

手首を蚊に刺されて、ふくれているけれどさほどかゆくない。蚊に刺された箇所って、ひとに見せたくなってしまう。どうしてだろう。「あ、刺されてる。ほら」って。見せられても、「うん……」としか言いようがないのに。

柵の内側に、歴史のありそうな大木が生えている。御神木だろうか。植物は、死んだ部分をまといながら生きている。うちの台所の多肉植物も、器用に枯れながらまた生える。古い盆栽はその生と死の混在が「美」とされる。


午後7時ごろ。

夏空っぽい。こういうホームの写真って、鉄道が好きなひとから見ればどこのホームだかすぐにわかるのだろうか。地元のひとはわかるかな。写真にうつる電柱やマンホールで住んでいる場所が割り出されてしまうこともあるそう。この駅のホームは、わたしの居住区域ではありません。


冬支度するもひとりや石蕗の花


網野菊が詠んだ一句。

暑い夏の日に、初めて歩いた街の、足の踏み場もなく本が積まれた狭くて暑い暑い、しかしどうにも愛おしくなるような汚れをまとう古本屋さんで汗だくになりながら買った、広津桃子の『石蕗の花 網野菊さんと私』(講談社文芸文庫)を読みながら帰る。

値段の書いていないこの本を店主のおやじさんに渡すと、裏表紙を開き、表紙を眺めてから、数秒間、天井をあおいで「じゃあ150円です」と言う。あきらかに、いまつけた感じの値段でしたが、思っていたより安かったのでありがたい。良心的。


派手とはいえない言葉の好み、多いともいえない筆数で、縁ある人々が何と鮮かに立たされていることか。逝ける人々への挽歌は、ただかなしい、なつかしい、恋しい、さびしいとうたう歌ではない。故人はこのように在った。事実の選び方とその示し方に、作者の悼みのほどがはかられる。 pp.213-214


竹西寛子の解説「手向けの言葉」から。

きのうはこのように在った。先週はこのように在った。いまはもうない日々への態度としても、できうる限りその日を立たせること。広津桃子のようには書けないまでも。大ぶりに結論付けることはできない。臆病だから。それで満心はできない。わたしなりの臆した構えをもって、仔細に過去を立たせたい。

学校で書かされた作文はぜんぶ「たのしかったです」みたいなもんだったけれど。それも嫌いじゃないか。臆病な細心さと、面倒くさがりで大味な側面が仲良く同居している。大胆な飛躍もたまにはいいだろう。


行ったことのない街 まだ通ったことのない道
曲がったことのない交差点 ずっと入ったことのない店
渡ったことのない橋 まだ降りたことのないあの駅
聴いたことのないビート そして会ったことない人々


スチャダラパーの「5cups」。

知らない場所があんがい好きかもしれない。旅行や観光には興味がない。近所の知らない路地でも、十分に知らない場所としてたのしめる。とはいえ日本ならどこでも、「まったくの未知」ってことはない。ほとんど既知だけれど、既知の中にときおり顔を覗かせる未知を見出すことがたのしい。



約一時間、電車に揺られて帰宅。
シャワーを浴びて、眠る。













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