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日記579


ふつうに通り過ぎたけれど、あとから写真をみるときれいなトンネルでした。その場ではよくわからないが、帰宅後にふりかえると、あんがいよいと思う。だいたい日々はこんなものかも。逆もあるかな。その場でアホみたいに盛り上がったが、冷静にふりかえると、なんだったんだあれは、みたいな。

大きなことを言ってみると、時代や場所によって、ひとやものごとの評価が変わってしまうことも、こういう日常の機微と変わらぬ気まぐれのようにも思える。そんな作用も大いにありうると思う。どうにもならない日々。移り気な人々の棲む世界。「愚かな人間というのは丸い円というのに等しい」と書いていたのは倉橋由美子。

ひとの認識には時差がある。なにか悩みを抱えているひとへ「時間が解決する」という、なにも言えていないに等しいアドバイスがよく使われるけれど、なにも言えていないからこそ、このアドバイスは正しい。「わかったようなことを言うな」と思って嫌っていたことばだった。でも、決してそれだけではない。

「いまはもう、ことばを探さなくていい」「いまはもう、なにかを見ようとしないでいい」と、そういうことなのだと思う。なんにも判断しなくたって、あなたはいなくならないから。そこにいれば、ただ時間だけが経つから。じっとしていても、地球は移動していて、また朝がくれば、次の夜がきて、空の色も雲も移動してくれる。あなた以外のひとも、移動する。あなたはどこにもいかなくたって。なにも探さなくたって。息をひそめていても。

それはしかし、「解決」とはちがう。まったくちがう。そんな前向きなだけのものではない。もっと残酷さも孕んでいる。客観的に「時間は移動する」とだけ言えれば、十分だろう。さらになにも言えていないけど。どうにもしようのない、あたりまえのこと。わたしの悩みは「解決」なんか、できっこない。求めてはいないのだ。

それにしても、その場では判断せず、いま語りえないことについては黙して語らず、時間的な差を織り込みながら、慎重にものごとを判じることのむずかしさよ。だれだって、生きるのは初めてなのだから、仕方がないことなのかもしれない。未来を織り込むなんて、だれにできよう。どんなにわかったようなことをおっしゃる方々でも、初めてでしょう。きょうも、あしたも。

「おばあちゃん、こんなに歳をとると思わなかった、あんたも歳をとったら初めてわかるわよ」と祖母がよく言う。ええ、そうでしょうとも。そうにちがいない。「年寄りやるの、2回めよ」と言われたらびっくりする。1回で成仏してほしい。

とにかく、細やかな時差があります。ひとりの中でも。どんな他人とのあいだにも。わたしとあなたのあいだにも。となりにいても、だよ。どうにもならない、生きている時間の差。視差もある。見えている目の位置の差。それにより、関係性が立体化する。

同じものをまなざした先にだって、数センチでも、数ミリでも、なくなりはしない差が必ずある。他にも、あらゆる差があるだろう。その差の「どうにもならなさ」まで、すべてをひっくるめて、べたーっと永遠の時間の上に在り、いずれどうにかなる日々ができあがる。それが「解決」なのかは、わからない。

写真のトンネル、鎌倉駅から大船駅まで歩いて向かう道のりにあります。この日は、終電を逃したのでした。24時間営業の大船のデニーズで朝を待とうとしたら、清掃中だとかなんとかでデニーズも開いていなかった。しょうがないから、一晩中カラオケ。


早朝、5時ごろの大船。
ぜんぶが終わったみたいな光景の朝が好きです。

これから始まるってのに。いや。
もしかして、終わってんのかな。

朝がきたら夜まで、夜がきたら朝まで。
終わったと思ったら始まっていた。
と、思ったら。
永遠ってのはつまりこういうことだ。

どっちでもいい。
ここにいるだけで。





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