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日記581



7月21日(土)


永山のベルブホールで映画『パターソン』を観ました。ジム・ジャームッシュ監督作品。TAMA映画フォーラム主催。その後、翻訳家の柴田元幸さんと詩人のマーサ・ナカムラさん、おふたりのトークと詩の朗読まで拝聴。個人的に、とても豪華だったと思う。前売り券1,000円は破格といってもいいくらいの。

帰りながら、「パターソンは、すべてを手に入れた男ですよ」と友人に話した。冗談まじりに大袈裟な表現をしてみる。だけど冗談ではなくパターソンのような日常が、わたしの理想だと思う。高望みをしているかもしれない。

わたしの望みは、とりあえず室内で眠ることができて、日々の中ですこしだけ本を読む時間と、なにかを書く時間がもらえれば、それでいい。もっと切り詰めると、最低限、死の恐怖におびえることなく日々をやり過ごせれば、なんでもいい。

いまは「死の恐怖」のない生活ができています。それで十分、贅沢。望みは少ない。でも、わたし以外のひとの望みもある。あたりまえだけれど。わたし以外のひとが、わたしに望むこと。わたしが望まなくとも、わたしについてなにかを望んでくださる他人がいることも、それだけで贅沢だと思う。すごいことです。

前日にどうも眠りが浅かったせいか、映画の途中でうとうとしてしまいました。静かな映画だったから、なおさら。描かれるのはパターソンという地に、パターソンという名前をもって生きるひとりの男性を中心とした7日間。詩の断片とともに、日々の出来事がていねいに描出される。パターソンはバスの運転手、そして詩を書くひと。

おもしろかったのは、パターソンの生活リズムに合わせて、わたしにも眠気が襲いくるところです。たまたまかもわからない。昼間、仕事の場面が終わり、夜になって犬の散歩の途中いつも立ち寄るバーのシークエンスあたりで、だんだん気持ちよく眠たくなってくる……。

そうして目を覚ますと、となりには愛する女性が眠っていて、時計を確認し、キスをして、ミルクに浸したシリアルを食べ、詩作にふけりながら、1日が始まる……。いま思うと「映画を観ながら眠たくなった」のではなくて、眠たくなるほどパターソンの生活に知らず知らず没入しちゃっていたのかもしれない。 

映画を観ている「こちら側の事情」と、スクリーンの中にある「あちら側の事情」が同期しまくって、これはもう4DXデジタルシアターどころではない、意識のレベルから揺さぶられる、いままでにない映画体験でした。完全にあとづけでいいように解釈しているけれど、そうにちがいない。

細部を愛でたくなる映画だと思う。
もういっかい8時間くらい眠ったあとに細かく観たい。
忘れてしまった瞬間も多い。

いまは、気がついたところをひとつだけ。

パターソンは、詩人を自称しない。詩を好んで読み、みずからも詩を書くひとだけれど、じぶんのことは「バスの運転手だ」と言う。書いた詩を、わざわざ他人に見せるようなこともしない。だけど彼の書いたそれは、どうしようもなく詩であり、彼のことを映画の鑑賞者もみなためらいなく“詩人”と呼ぶのでした。

柴田元幸さんとマーサ・ナカムラさんのトークの中でも、なんらひっかかりなく“詩人”とパターソンは呼ばれていて、「あ、そうなんだ」とわたしは意外に思ったくらい。“詩人”の肩書を潔しとしないタイプの詩人が、この世にはいると思う。パターソンは、じぶんが“詩人”と呼ばれることについて、どう思うのだろう。他人から“詩人”の肩書をもらうとして、それをすなおに肯うことのできる人物だろうか。

マーサ・ナカムラさんが選んで、朗読をしてくださった、尾形亀之助はおそらく、パターソンと同じような、しかしパターソンを遥かにしのぐ気後れっぷりの“詩人”だったと思う。もはや攻撃的なまでに気後れしている。本を出版しても、こんなことを書いてしまうくらいなのだから。

青空文庫の「机の前の裸は語る」より引用です。


   本を読むといふことは、勉強だとか趣味だとかいふすべてをふくんで、料理されたものを食ふといふことよりもはるかに馬鹿げてゐる。――といふことに私は少しばかり気がついた。
   例をあげれば、五十銭出して本を買ふといふことは、多くの場合銭を出したばかりでなく、その上その内容を読まされるといふことになる。だが、かうした取引の九分九厘――大部分の読者にはその全部の場合発行者又はその筆者の方から銭を出して、さあこれを上げるから読んで呉れとなるべきではなからうか。それなのに、うかつにも銭を出したり読まされたりしてゐることは全く馬鹿げてゐる。それよりも五十銭で何か食ふ方が利口だ――と。殊に「勉強」のためとあつてはなほのことさうした場合が多さうではないか、と。


「こんなこと言つてわるいんですけれども――。」と書きつつ。筆者の方から読者に銭を出すべき、と。おもしろい。尾形亀之助がおずおずと主張することも、一理ある。そしてこういう“詩人”がいるからこそ、わたしは「詩」なるものを世に提出しちゃう人間に惹かれるのだろうとも思う。

尾形亀之助はこんな詩も書いている。
障子のある家』から「詩人の骨」、抜き書き。


 だが、私が曾て地球上にゐたといふことは、幾万年かの後にその頃の学者などにうつかり発掘されないものでもないし、大変珍らしがられて、骨の重さを測られたり料金を払らはなければ見られないことになつたりするかも知れないのだ。そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ様子で言ふだろう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。


洒落た短い小話のよう。綺麗なオチ。
尾形亀之助にとって“詩人”とは、こういうものだった。
地球にいた証拠として、珍しい骨を残すような。
そして、うっかり見つかる。幾万年後の未来。

「“詩人”という肩書」について考えていると、ホドロフスキー監督の『エンドレス・ポエトリー』を思い出しました。おそらく『パターソン』とは真逆に位置する“詩人”たちについての映画。この映画での“詩人”たちは、胸を張って、大手を振って“詩人”を誇っています。詩的な飛躍の自由を、実際的な生きた行動で示そうとする人間たちの映画です。詩人として行為する詩人たち。

詩とは、ひとの生きた事実であり、幻影でもあり。
あいまいさの中にぽかんと浮かぶ。
どうやって成立しているのかさえよくわからない。 
そんな表現だと思う。

『パターソン』における日常も、どうやって成立しているのか。変わらぬようでいて、移ろいやすい。急転直下の出来事はないけれど、穏やかで緩慢な淋しさと、いつだって隣り合わせでもある。なにか暗い雰囲気の音楽が絶えず使用されていたのも、印象的。さいきん読んでいた本のエピグラフに、こんなことばが引かれていたのを思い出します。


歴史のもつ詩は次のような半ば奇跡的な事実の中に存する。かつてこの地上に、この見慣れた地点に、われわれとは別人である男女が、今日のわれわれと同じように現実に歩んでいた。彼らは自らの思いに耽り、自らの情熱に動かされていた。しかし今やすべては過ぎ去り、次々と世代は消え失せ、やがて完全に跡形もなく消え去ってしまった……。死者はかつて存在したが、今はない。死者がいた場所はもはや死者を知らず、今ではわれわれの場所になっている。しかし死者はかつてはわれわれと同じように現実に存在した。明日には、われわれも死者と同じように幻影になるであろう。

G・M・トレヴェリアン『イギリス史1』大野真弓監訳、みすず書房


この引用がエピグラフとして置かれているのは、サラ・ワイズの『塗りつぶされた町  ヴィクトリア期英国のスラムに生きる』(紀伊國屋書店)という本です。図書館で借りました。途中まで読んで返却。分厚いのでひとまず。また読める日をたのしみに。

そうです。あしたには、われわれも幻影となる。「“詩人”という肩書」に話を戻すと、肩書は、居場所なのだと思います。ひとの肩書は、ひとの居場所。わたし自身の肩書はいま「日記を書くひと」です。それが肩書。ここだけが居場所。「無職」はわたしの居場所ではない。

では、パターソンの居場所とはなんだろう。おそらく、彼のいるところは「詩」そのものではないか。「詩人」ではなく、詩のように生きていたい人物。詩人として、ではない。人ならぬ、詩として生きる。

瞬間瞬間、煙みたいに立ち消えてしまう日々の時間を尻目に、その事実の残滓が見せるゆらめき、光る幻影を、ことばとして書きつらねる。マッチ箱ひとつから、詩行のラインが熾る。そうやって感受性の骨格を組み上げる。幾万年後まで届く、珍しい骨になればいいと。いまはまだ、煙のように立ち消えてしまうものだとしても。

書いた詩が失われたとて、白紙のページは尽きない。

さいごに、山崎佳代子さんの『ベオグラード日誌』(書肆山田)にある、わたしの好きな部分を載せて、映画の感想はおわります。日々の記録の断片。『パターソン』を観た帰り道になんとなく、思い出す。夏が彼方に溶けていた。


一月二日(金)
 
正月の電車はがらんとしていた。カレメグダンで降りる。動物園の煉瓦塀に沿って坂を下り、陸橋をくぐると、ドナウは霧に眠っている。岸の居酒屋は閉まっていた。暗い雨の支笏湖に行きバスの運転手に自殺者ではと疑われた、十九歳の秋が重なる。ゆきかう人もなく……。波止場には、空っぽの遊覧船が揺れていた。もう還るはずのない夏が、彼方に溶けている。初老の男女が、真剣に言葉を交わしながら足早に去っていく。線路に出た。貨物列車が通りすぎていく。鉄の音は遠ざかり、薄紅の石をふたつ拾った。何かにきっぱりと別れを告げるように、水を振り返る。詩とは、静かな光に身を捧げること。そうでしょう




トークの感想も書きたいけれど、もう長くなっている。

はじめ、柴田元幸さんが脇から現れたときの、お辞儀の深さと速さ・早さ、そして背中の丸みが印象的でした。ただの挨拶でも、あんまりゆっくりしちゃうと重々しくなりますから、軽やかさを求めるのならスピード感がたいせつなのだなーとなんとなく教わった気がします。

ことばも、ゆっくりと話せば重みを帯びる。
話すだけではない、書くことも、読むことも同じ。

たぶんまた、小出しに書きます。
書かなかったらすみません(保険)。






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