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日記584


Tシャツの柄になりそうな加工。

さいきん気がついたのは、加工が楽しいということです。この世界はすべて加工の素材だ。否応なく目や耳に入ってくるなにもかも、肌で感じるぜんぶ、脳味噌に踏み入る時点でコラージュされる。あらゆる事物が無意識の裡にごたまぜになっている。それを編集して吐き出す。ことばとして。写真として。音楽として。行動として。切り貼り。継ぎ接ぎ。よく言われる、ありきたりな話を肌で実感する。このごろ。


なにかを「言う」ことのなかには、どんなものでも弱さがふくまれている気がする。みたいな、だれかのつぶやきを、twitterで哲学者の永井均さんが引用しておられて、ああ、これはすごいと思う。その通りだとも思う。だから逆に、なにを言わないか、それがその人間の強みでもあるのだろう。言ってしまえるけれど、言わない。「言いたくても言えない」には、またべつの力学が働いている。

ひとの発言の裏にはきっと、守るものがある。どんなに攻撃的な物言いでも、解放的で自由な物言いでも、無自覚であれ、ひとは、ことばの裏でなにかを守っている。友人でも家族でも恋人でも、じぶんが継続的に関係している他人の、保守しているものに価値を見出すことができ、うつくしいと思い、わたしもあなたのそれを守りたいと感じている限り、良好な一対一の関係はつづくのだと思う。

弱さを盾に、自己の領分を守る。
それがひとのことば。

主語がおおき過ぎるか。書き直そう。
わたしのことば。すくなくとも。
ひとが、その表現によってなにを守っているのかを読みたい。

そのうえで、わたしもあなたのそれを守る。 
あるいは、壊す。

いずれにせよ肝要なのは、他者が守っている領分を、なるべく正確に見積もり、慎重に予測すること。そのうえで醜悪な領野だと感じれば、ガソリンを撒いて火でもつけてしまえばいい。じぶんの領分が飲みこまれそうなら、静かに逃げ出してもいい。火の海は穏やかじゃないね。いや、その炎がうつくしく輝く可能性もある。

他人の領分が美的に適えば、ともに守ればいい。
わたしの判断の基準は美醜。「正しさ」はわからない。
守るのは、感受性の領分。

世界がうつしてくれる、うつくしさのまぼろしに騙されていたいと思う。好きなものに騙されることは、気持ちのよいことです。「騙されたくない」と思っているうちは、「好き」も生まれない。騙される隙に、「好き」が根を張る。騙されないと、なにも好きになれない。


あゝ、けふまでのわしの一生が、そつくり欺されてゐたとしても
この夕映えのうつくしさ


欺されてゐたとしても、それだからきっと、この夕映えがうつくしい。「しかし」ではない、逆接ではないと勝手に思う。金子光晴のこの詩のように、夕映えにも欺かれていようとすること。そういえば、「ゆふぐれ」という平仮名も好きだった。


ゆふぐれ


ゆふぐれは そこにちかづいて
ことばを さしいれる、
きえてゆかうとする あをいことばを。

ゆふぐれは うすいろのきものをきて、
こころのおもてに
うまれない星を ちりばめる。

ゆふぐれは あのひとの こゑのないことばを
そよそよと そよがせ、
みづのやうに こころをふかくする。

ゆふぐれは はなればなれの思ひを
けむりのやうに つなぎあはせ、
かくれてゐる おどろきを そだててゆく。


(『大手拓次全集 第二巻 詩Ⅱ』白鳳社、1970年)





荻上チキさんの好きなところ。たとえばこの語尾。内容は措くとして「のだよね」、「と思うんだ」。これがあるのとないのとでは、印象が雲泥の差です。twitterの短い文字数のなかでも語尾だけに数文字をついやすこと。こういう態度を、非常に好ましく思います。

棘のあつかい方をコントロールできるひと。できるだけ、やわらかい語尾をつかう。でも、意地の悪いときは鋭利にとことん意地悪く皮肉る。ことばの切れ味を加減できる。「リテラシー」とは、こういうことではないか。語尾のあつかい方ひとつ。こうなってくるともうセンスでしかない。感覚。

わたしのtwitterアカウントは2009年5月からあるけれど、使い方がいまだによくわかりません。最初に開設したのは、たぶん2007年で、そのアカウントはどこかへいきました。文化系トークラジオlifeというラジオ番組でパーソナリティをつとめる社会学者の鈴木謙介さんが当時、いち早くtwitterのお話をされていて興味本位でつくったアカウント。どうでもいいな……。前も書いたかもですが、いちばん好きなSNSは、tumblrです。だからなんだ。




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