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日記587



7月30日(月)


忘れることが始まって久しい、親戚のおばさんっていうのかな、もうおばあちゃんなのだけれど、お会いしたらずっと笑っていたから、よかった。血縁があるのは、おじさん(夫)のほう。家にお邪魔をする。わたしのことは、「わかんない」って。たとえば、じぶんの母親の記憶がなくなり「あなた、だあれ?」と言われるとして、かなしくなるのかなーなんて、ときおり想像してみることもあって、この日の経験から、その想像が以前より具体化できるようになった気がする。

だれの顔も、なにもかも忘れられたって、そのひとが笑顔でいるのならそれはそれで救われるのかな、と。ずいぶん安心すると思う。すくなくとも、わたし個人の気持ちはその表情だけでとても安らぐ。内心がどうあれ(「内心」なるものがあると仮定して)、表情だけでも苦しくなければ。

ことし仕事を完全にリタイアしたおじさんの介護を受けながら、穏やかそうなひととき。バームクーヘンのかけらを、1時間ちかくかけてすこしずつ食べていた。わたしのおみやげも「おいしい」と、ささやくような声でつたえてくれる。なんとなく、いたずらっぽく馴れ初めを聞いてみると、夫婦ふたりで顔を見合わせて笑う。この瞬間がよかった。ふたり同時に照れたような、面映ゆい。

こどものいない夫婦だから、お父さんお母さんの馴れ初めは?みたいな質問を受けたことがなかったのかもしれない。こども、できなかったのか、つくらなかったのか、それはわからない。いないだけ。それでもいい。理由は知る必要もない。理由自体の必要もない。ふたりにとっては、あたりまえのこと。

この日はちょうど朝、生まれたひとがいて、うけとったその写真を見せる。また夫婦で笑ってくださる。おばさんは、ことばを掴み出して口を動かし表現するところまで、なかなか、いかないみたい。しかしことばがあつかえなくとも、それ以外は十全に息づいていると思った。おばさんに「いまもいい女だなあ」とおっしゃるおじさん。なにも言わない笑顔のおばさん。耳に届いていたのか、それも定かではない。「いい女」ってセピア色の響きがする。もはやレトロ。

夫婦の歴史を聞く。おじさんの明晰な語り口のせいもあってか、過去のふたりの時間がすべて、いま晩年を過ごしている一室につまっていたように思う。物語とはこういうことだとなんとなく思う。たったひとつの帰結としていまがある。それを愛さずしてなにが夫婦だ。そんな感じの矜持を湛えた、しかし波のない口調で淡々と話してくださる。日本酒をかたむけながら。

おじさんの仕事の話も聞いた。一個の人間に価値を置きたいのに、そうではなく、まずは金銭と集団に価値を置く組織との葛藤のうえでどうするか、それが“仕事”だったという。でも稼ぐのは悪いことじゃない、とも。わたしのさいきんの考えも似ていると話をすると「それは純粋でいいことだけど、厳しい生き方になる」と言われる。わたしは純粋なつもりも、理想を語っているつもりも、さらさらない。だけどよく言われる。言われるなあ。ことしに入って、就職活動などのあいだに10回は言われたかもしれない。なんでだ。

わたしは「ふつうだ」と最大限の毒をもって言い放ちたい。じぶんの考えが「あたりまえのこと」と。「多数派だ」と言いたいのではない。おそらく少数派なのだろう。しかし、わたしがことさら「純粋」なわけがない。わたしを「純粋」と形容する、そちらが不純なのだ。致し方のなさ、それはわかる。でも不純物が混ざると合法的には飛べないよ。胸に手をあてて、まずはご自身の良心を疑ってください。合法的な飛び方を心得てください。俺がミスター・スタンダード。自前の血液が水準器になる。循環する血で準えて贖う、この基準を。業を。“仕事”とは、そういうことらしい。のかな。知らんけど。

出血は痛いからしないように。
出ちゃったら水準器にならないし。
なるべく循環。循環。

いまだにあらゆる俗事を身にまといながら見苦しくも生きながらえている以上、「純粋」なんてありえない。なにかを一途に希求するような純粋さもわたしにはない。ただ「無視はできない」。目に入って認識できるもの、ほとんど、すべて。無視できません。だからさいきんは、入る情報を意識的に限るようにしている。つかれる。

ブックオフに行くと、「いらっしゃいませ~」とえんえん言われまくる。すると「はい、いらっしゃいましたよ~」と頭の中でそのたびに返事をしないといけない。「無視できない」とは、たとえばこういうことです。つかれるわ!こんな性格。病気かもしれない。

「目にうつる全てのことはメッセージ」とユーミンは歌いました。やさしさに包まれたなら。もしかして、やさしさに包まれているのか……?その可能性も否めない。だとしたら、静かな木漏れ日の……?くちなしの香りの……?どちらだろう。どっちでもいいか。やさしさに包まれ過ぎて、すべてのことに返事をしたくなってしまう奇病にかかっている。着信拒否もできない。なぜなら、やさしさに包まれているから。でもtwitterのブロックはよくつかう。やさしさに穴があくから。ふさぐ。穴だらけだよ、もう。


ひとつ確信したのは、ひとが笑うと安心すること。なにがあっても。ひとがそれ以外の顔でいるとき、絶えず不安です。でも「それ以外の顔」がないと笑顔も成り立たない。

笑顔はその運動性が重要だと思う。筋肉の収縮。静止画にすると、どうにも気持ちが悪い。違和感があります。集団で笑顔の写真など。ひどく居心地が悪くなる。いつも「全力笑顔」のやつがなにを言うか!と、つきあいのあるひとからは怒られるかもしれない。

写真にするのなら、表情のゆらぐ変化の境目がうまく撮れたらいい。「全力」までいかない7分目くらいの笑顔で。自然に。「全力笑顔」は気味が悪い。人工的。不気味の谷現象。写真のじぶんをみると、ほんとうに奇妙な顔をしていると思う。世にも奇妙な笑顔です。ミスター・不自然。なぜ「つくる」のか。不純だ。この笑顔、必死の形相につき。




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