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日記589


暑いから気遣ってくださるのか、徒歩で移動をしているとドライバーさんがよく道をゆずってくださいます。一律にきつい思いをすると、ひとはひとにやさしくなれるのでしょうか。天気の話だけが通じる社会。

テレビのニュース番組は天気予報のコーナーがいちばん好きです。安心する。やっと天気予報だ、やった、ありがてえありがてえと思う。ほかのニュースは、しんどくて。ひとりなら見ない。家族といると食事中などにさらされる。われながらナイーブかもですが、まいにちニュースとして起こった出来事をなんとなくでもチェックしていて精神的に落ち込まないほうがどうかしていると思います……。

じぶんはすべてを現実的にとらえがち。現実なのだけど。だからつらくなる。どんな犯罪者もその被害者も、汚職事件も、イカれた政治家によるむき出しの差別意識も、すべてがわたしの写し鏡であり、反面教師である。そうなってくると、ニュースは針のむしろだ。じぶんにとって、あらゆる報道がアクチュアルな意味を帯びながら迫ってくる。

よくないことには怒りや嫌悪感もおぼえるが、口汚い声高な批判もみたくない。おそらく、無意識のどこかでじぶんが批判されているように感じてしまうのだろう。これは、うっかりすると見過ごしてしまうような類の伏流する痛みです。

感覚として「社会問題」という切り口によるフレーム化にピンときていない。人間という生き物の度し難いかなしさ、みたいなところに思いが及ぶ。おかしなひとだ。おかしい。社会派にはなれない。一個の人間から離れることができない。「ヒューマニズム」なんて尊大なもんじゃない。人間は最低だ。この最低さがお似合い。もれなくわたしも最低だ。じぶんなりの倫理的な態度があるとすれば、そこからしか始まらないのではないか。「最低さ」を忘れた人間は、あまりにも、あまりにも人間的で、直視できない。自己正当化なんかできるはずがない。生まれた時点から正当化し得ない借財を背負う。どうも、わたしの考え方の根底には「原罪」という概念があるみたい。キリスト者ではない。そういう家庭に生まれてもいなければ、そういう系列の学校にも通ったことはない。しかし思うところを詰めれば、たどりつかざるを得ないところ。ごく自然に。手前勝手なもの思いに過ぎないからたぶん、キリスト教の「原罪」とは定義がちがう。ことばを拝借しているだけ。


アダムとイブが林檎を食べてから
フニフニフニフニ 跡をたたない
アア 哀しいね 哀しいね


愛のもつれだよ。男女間だけではない。
さまざまな愛がもつれっぱなしでいて手の施しようもない。
愛というものは暴力もふくむ。
要するに、フニフニフニフニということです。
かなしいね。





樹木希林さん。ちょっと複雑な性格をしている印象のひとが、こんな感じで楽しそうに歌って踊る映像は、みているとうれしくなる。単純で好き。どこか難しいようなひとが、シンプルにふっと素直になるとき。ああよかった、と思う。特有の呪いが解けたみたいにひとが笑うとき。むやみに楽しめるとき。




あんこと小豆の入ったホットケーキ。かかっている緑と黒の組み合わせ、青のりとソースみたい。抹茶パウダーと黒蜜です。わりあい、さくっとふんわりできたか。「さく」が強くて、ちと固めだったかもしれない。




これは小豆を煮ながらiPhoneで撮った動画です。おとしぶたがかわいかったから。撮ったところで使う予定はありませんでしたが、ふと音を削って、上からファービーの声をかぶせてみました。おとしぶた×ファービー。はじめてつくった動画がこれ。

むかし伊集院光さんがラジオの企画で立ち上げた変死隊というユニットのアルバムに入っているファービーの声です。かぶせる音を探しているとき、たまたま目に入って。意味はありません。ひとりでおもしろくなるだけです。これがわたしの笑いのツボです。おそらく共有できるひとはそれほどいないのでしょう。音つきで20回くらい連続してみると笑けてきます。

いつも他人を置いてけぼりにして、ひとりで笑っている気がする。そういうときは、つながりようがないものをあたまの中で組み合わせて可笑しがっている。きちがい沙汰すれすれである。すれすれ、ということにしておく。「なんで笑ってるの?」と聞かれることもあるけれど「言ってもわからないのだろうな……」と思ってしまう。説明するとしらける。

感覚をゆるくほどいてくれる、意味がなくて心底くだらないもの。笑いの世界は無辺の広がりをもっていると思う。ポジティブであれネガティブであれ、強い感情に支配されてしまうときには狭く閉鎖的なところにいる。かなしさだけではなく、よろこびも強いと狭苦しい。おもしろがる余地を求めてしまう。どんなことにも。「おもしろがる余地」は限りない。限りのないふまじめな領域。

ニュースをみてしんどくなるときは、考え方に縛りがあって人間を中心としている。時間は現代が中心になっている。ふだんは現代の人間(わたし)が中心だけれど、そこばかりに関心をおかなくともよい。現実は、地球が中心ですらない。太陽が中心ですらない。世界の中心なんてもんはない。愛を叫ぶ場所もない。中心があるとすれば、空白です。そもそもが「余地」として生まれたのだ。

大きなことを考えてみると気持ちがいい。
歴史の芥子粒としてここにあるじぶん。
でもまずは、一日という手に取れる余地から。
手渡された朝の余地、そこから手繰り寄せて。





コメント

anna さんのコメント…
私が最初に本屋で買った詩集は高見順の「死の淵にて」でした。ここのブログ読んでいると、文体というか文章の雰囲気というか、高見順の詩や散文に通じるものがあるように感じます。勝手な感想ですいません。
nagata_tetsurou さんの投稿…
このブログはまさに日々の「勝手な感想」をつづってあるのみなので、annaさんのコメントは勝手な感想の勝手な感想ということになります。さらに、この返信コメントは勝手な感想の勝手な感想の勝手な感想というわけで「勝手な感想」が三つそろいました。スリーセブンよりめったにないフィーバー状態です。あやまることはひとつもありません。期せずしてフィーバーしちゃってますから。

高見順も日記が有名な作家なので、日記主義者として恐れ多くもうれしく思います。意想外な感想をいただきました。詩集のタイトル、わたしの記憶では『死の淵より』です。それか『FROM☆SHI☆NO☆FUCHI ~お前にくらわすデスバレーボム~』だったと思います!!

ちなみに、いまのブログタイトルは武者小路実篤の画文集『人生は楽ではない。そこが面白いとしておく。』からとりました。前のタイトルは、中島らも『永遠も半ばを過ぎて』をもじったもの。舌の根の乾かぬうちに変更してしまいました。

このコメントを書きながら、また新タイトルを思いつきました。
「期せずしてフィーバーしちゃってますから」。

わりといいかも(笑)。
anna さんのコメント…
あー、「死の淵より」でしたー。まぁた、やっちゃった。高見順も高見純だっけとか、あやしかったぐらいですから、こっちは正解で50点です。
nagata_tetsurou さんの投稿…
そっちが正解でしたか。わたしも『FROM☆SHI☆NO☆FUCHI ~お前にくらわすデスバレーボム~』だったかなーと思っていたので50点です。いつも2択までは絞れるのですが、さいごの選択で考え過ぎてまちがうタイプです。