スキップしてメイン コンテンツに移動

日記594


木の皮の写真です。

「まじめな話し合い」に遭遇してしまい、まいりました。夫婦でもカップルでも、こじれてこじれて気持ちがどうしようもないのなら暫定的に出口を決めてしまえば、とりあえずほっとできるのではないかと思う。お別れの目処をつける。気が変わってもいいから、いまは、いったん息をつくために目処をつけておく。

「苦しいけれど別れてはいけない」と思い詰めながら話し合うよりも、肩の力が抜けていいんじゃないの、どうせ別れるんだと思えたほうが。そうすれば相手に求めることも、つんけんすることも減ると思う。前提として、関係がなくなる者同士とする。いまからね。そのうえで話を進めよう。途中で気が変わったら御の字。

そんなことを話したら、周囲からは「無責任」などと指摘されたけれど、 当事者の返答はまんざらでもなかった。果たすべき責任なんてない。いちばんらくな方法を採用してほしい。別れるときは極悪非道がいい。すっきりします。悪人上等。らくをしよう。苦しむよりは。行動を起こすことが困難なら、せめて「考え方」だけでも。

「こうでなければいけない」必然はない。ぜんぶほっぽりだして、あしたからモンゴルの草原で遊牧生活を始めてもいいんだ。それくらい極端な考え方だって、ありうるんです。「責任」なんか知らんせん。せまいせまい。狭い場所は息が詰まる。貧乏でカツカツでも、あたまのなかは広くできればいい。逃げちまえよ。

幸福だの不幸だの、そんなこともいちいち決めなくていい。うるさいよ。真夏のぬるくて厚ぼったい夜気を身にまといながら、発泡酒片手に好きな音楽の一節をくちずさむ。そうやってひとりで歩くだけで最高ではないか。冷えた安いアルコールと、温度差で指にしたたる煩わしい水滴。ぬれた指先をジーパンで拭いながら陽の光から落魄した暗い道で昼間にはない虫の音にさらされる。放熱する黒いアスファルト、湿った空気、蒸された草木と土の匂い、なんもない空、すべてが確からしい。確からしさの世界を拾える。この実感だけで、もう生きていてよかったではないか。落としものと思わぬところで再会したような。これ以上にほしいものなんか、ありません。これ以上にいいものなどない。ここが最高到達点だ。これは冗談じゃなくて、まじめな話ね。

なんなんだろうか、どうなれば満足なんだろうか。どうもこうもなく、ここにいる実感だけでじゅうぶんではないか。呼吸ができて、身体がリズムに揺れるという感覚さえあればよいではないか。あとは時間がくれば、野垂れ死ぬだけだ。だれもがそうだ。ステップはふたつ。生まれた、死んだ。シンプル。あいだは余談。余生。余りの風。はい終わり終わり、撤収~と言いたくなる。怒らないで、泣かないで、もめごとはやめて、ふざけようよ。死ぬ間際まで、死んだってふざけていていいんだ。深刻なツラはよしこさん。あーあ。これだからいつも怒られる、わたしは。徹頭徹尾ふざけていて。要するにだめなひとなんです。深刻な空気はほんとうにつらい。むりです。比喩ではなく息が詰まるから。呼吸困難に陥ります。空気をください。エア!エア!とりあえず大喜利をしよう。




しかし、じぶんがこういう人間だと気がついたのは、ここ二年くらいです。すこしでも深刻になると体調を崩します、ほんとうに……。呪われている。こんなの「呪い」以外のなにものでもない。「呪い」というほかに説明がつかない。20年以上、体調が慢性的に悪かったのは、へんに深刻ぶっていたからだった。このごろは深刻ゾーンをkeep outにしたので健康です。ドアに黄色いテープを貼りました。




人生には一夜だけ、思い出に永遠に残るような夜があるにちがいない。誰にでもそういう一夜があるはずだ。そして、もしそういう夜が近づいていると感じ、今夜がその特別な夜になりそうだと気づいたなら、すかさず飛びつき、疑いをはさまず、以後決して他言してはならない。というのは、もし見逃せば、ふたたびそういう夜が来るとはかぎらないからだ。逃した人びとは多い。たくさんの人びとが逃し、二度とめぐりあっていない。なぜならそれは天気、光、月、時刻というすべての条件、夜の丘と暖かい草と列車と町と距離が、ふるえる指の上で絶妙のバランスをとった瞬間にあらわれる夜だからだ。


レイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』(新潮社)から「生涯に一度の夜」(訳 伊藤典夫)。ふるえる指の上にある夜を、逃した人びとは多い。痴話喧嘩なんてしていないで、こんな夜をさがしてほしいと願う。


 さまざまに人びとはブラッドベリを読むだろう。私の場合はこうだった……もし、本というものがある波長を出しているとしたら、私の波長とぴったり合ったのである。だから、時々に、そういう本なり、そういう作家なりに出会うと、私はなんだか自分のおとし物をついに見つけだしたような気分、生き別れていたもう一人の自分に出会ったような気分、あのとき言いたかったこと、あのとき解ってほしかったことを、ちゃんと聞いて理解してくれた誰かが、かえってきたような気分……になり、「ああ、あなたはここにいたの」と語りかけたくなる。それで、ブラッドベリはそういう感じだったのだ。


萩尾望都『一瞬と永遠と』(幻戯書房)。

たった一文を書くだけでも、背景にいろいろと思い出すものがあります。本のページだけではなく、経験や他人とのおしゃべりやメールのやりとりや。いろいろ。わたしでさえそうなのだから、ほかの方もきっと多くの背景があったうえでことばを吐いている。文章はどんなものもそうした前提で読みたい。でも、結局は表層しか見えないのでした。結局は。表層だけでいいとも思う。めんどう。表層だけの光の反射。表層だけの海が美しい。




これは未加工にちかい写真。樹皮がびろーんとなっているところ、リアス式海岸みたいな輪郭が複雑でおもしろくて撮りました。複雑さを好ましく思う。親戚の小学生に、カメラのメモリーを見られて「なんで壁を撮るの?」とか「虫の死骸ばっかりで気持ちが悪い」とか言われた。そのたびに「壁おもしろいじゃん」とか「虫かわいいじゃん」とかヘラヘラしながら話す。完全に親戚のへんなおじさんになってしまったようです。8月。いまは、お盆の期間。




コメント

anna さんのコメント…
中学生の頃、父が読んだブラッドベリの「華氏451度」が本棚にあって読みました。その時は、「よくわからない」が正直な感想でした。
高校生の時、本屋でなんか面白い本ないかなあとぼーっと探してて、ブラッドベリの「ウは宇宙船のウ」って本のタイトルを見て「??」って思った直後、横に「スは宇宙(スペース)のス」って本があって「???」ってなったのを思い出しました。結局、買いませんでしたけどね。
以上、ブラッドベリの思い出でしたー。
nagata_tetsurou さんの投稿…
ドはドーナツのドですね。『ウは宇宙船のウ』は、萩尾望都さんの漫画化もあります。素晴らしい組み合わせです。夏は『火星年代記』を思い出しますね。「寒い冬の朝、その力強い排気で夏をつくりだしながら、ロケットは立っていた。ロケットが気候を決定し、ほんの一瞬、夏がこの地上を覆った……」。こんなのもう、詩じゃないですか。一瞬の、ロケットの夏。