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日記597


「写真の加工の仕方はそいつの内面を投影する」と友人に言われて、そうかーこれがわたしの内面かーと思いました。いいんじゃないでしょうか(なにが?)。自由にやると、たいてい色褪せて経年劣化した紙っぽく加工してしまう。どれも似たようなものになるから、つまらない。大友良英さんがどっかで「自分で音楽をつくるとノイズにしかならないから、頼まれ仕事で変化する自分が楽しい」みたいなことをおっしゃっていたのもうなずける。

飽きっぽいせいか、勝手に「頼まれ仕事」をつくりだしているときがあります。「これはあのひとの趣味に合いそうだなー」などと具体的な他人のことを想像しながら、あれこれする。頼まれた体で、ことばを選ぶ。モノを選ぶ。頼まれていないけれど。そんな想像が可能な他人が数多くいれば、つまらなくなることもなさそう。ひとりだけだと飽きちゃう。生きるのにも。じぶんを中心から外す。下がって下がって。リフレッシュ。

図書館に行って、個人的に食指が動く本とそれから祖母が好んで読みそうな本も借りてくる。頼まれたわけではない。でもよろこんでくれるから。「ひとに頼らない」を信条とする祖母なので「頼む」ができない。こういう頑迷固陋なご老人は多い気がする。依頼心は悪だと思いこんでいる。そんなことはないのに。きついことばで言えば、なんでもひとりでこなそうとするのは卑しいことです。わたしにもそういうところはあって、わかる。家族の中でじぶんは祖母にいちばん似ていると思う。老いたひとに似た。

祖母の関心に沿って医療に関する棚を眺める。いつも思うけれど、病気や死をあつかったちょうどいい塩梅の本が開架図書にない。「病」や「死」ということばを使うと、まるで義務であるかのようにトーンが過剰になる。ネガティブもポジティブも過剰。やさしさも慈しみも過剰。社会派も過剰。もっと平熱の相対し方があっても。日常の延長だと思う。一回きりの繰り返しが日常だとするのなら。ひとが死ぬことは一回。至極あたりまえに訪れる、ただの一回。わたしの身近にも病と共にある人間や亡くなった人間は多い。みずからの死も、とうぜんいつかくる。こういう発言をすると、アレルギー反応を起こしてしまうひとも経験上たくさんいます。忌避すべきという、その規範化がこわい。死をあらかじめ勘定に入れた発言は忌まわしいものとされる。村の掟がある。ずけずけ言うと村八分にされる。「死生観のアップデート」を落合陽一さんが語っていたっけ。

ことばの経済圏の内で、「死」は稀少に扱われ過ぎているような。フィクションみたいにして。そう思いたい欲望がいまの社会では強烈であるような。あした死ぬわけでも永遠に生きるわけでもない中間色の「死」を語りたい。いや、「死」を内包した純粋な「時間」の認識の問題ではないか。とにかくつり上がった「死」の価格を下げたい。ディスカウントしましょう。すぐには死なない程度に。しかしいつか絶対に死ぬ程度に。少なくとも、まぼろしではない。高級なもんでもない。端的に現実。漢 a.k.a.GAMIから受けた薫陶、「新宿スタイル」に則ってリアルなことばづかいをしたい。「死」を知ってしまったところから、人間の文化が生まれたのではないか。「いまここ」が生まれるのではないか。死の上ですべてが「ある」のではないか。

とはいえ、祖母の好きそうなものです。わたしのしちめんどくさい意見は置いておくとして……闘病記と、欽ちゃんの本と、小堺一機さんの本を借りる。わたしは赤祖父俊一さんの『オーロラの話をしましょう』(誠文堂新光社)を借りる。オーロラの話をしたいよ。人間からは遠く離れて。ロビン・ウォール・キマラーさんの『植物と叡智の守り人』(築地書館)も。翻訳は三木直子さん。おなじ著者おなじ出版社おなじ翻訳者の『コケの自然誌』が好きだった。植物の話をしたい。なんにだって漏れなく人間が貼り付いているし、なにを見ても人間を読んでしまうのだけれど。ワンクッションあると安らぐ。

『オーロラの話をしましょう』はタイトルが素敵に思う。「オーロラの話をしよう」ではなく、オーロラの話は「しましょう」でなければいけません。「しましょう」なのです。『これからの「正義」の話をしよう』とか『本当の戦争の話をしよう』とか「話をしよう」系の本のタイトルは枚挙にいとまがありません。でも「しましょう」は、それほど見かけない。品が良くて読者との距離が遠くなる。その遠い位置に「オーロラの話」があるのです。さあ、オーロラの話をしましょう。ゆっくりと読みましょう。光る遥けきオーロラへ目を走らせ、悠遠に耳を傾けましょう。そういう感じのタイトルであるように思います。きっといい本です。






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