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日記600


「知らないひとについていかない」とよく学校で教育されました。お盆に福岡へ行ったとき、小学1年生の甥の机の上にもそんなプリントがあった。こどもの安全のためには必要な呼びかけなのかもしれない。こどもは、油断するとすぐにいなくなるから。七つまでは神のうち。

成人のわたしは「知らないひと」がよくわかりません。親でも友人でも、みんな知らないといえば知らない。いつなにをしでかすかわからない。自由の余白を織り込んで接する。いまひとつにそもそも「そこにいる」という状態がすんなり理解できていない。じぶんも含めてなんでいるの?存在論的な疑念が抜けない。安心して他者に身を預ける時間もあまりない。正確には「知っている部分もある」ぐらいの関係です。だれのすべても知らない。土台から不明。地球ごと宇宙に浮かんでいる。足元を掘り下げればなにもない。仮の地面に立っている。

「知らない音楽は聴かない」とおっしゃる方がいて、なんじゃそりゃとも思う。「知らない」を遠ざけてしまったら、わたしは死にたくなるほど退屈です。というかそれって、あたらしいものに触れるための認識の枠組みがすでに死んでいる。時間配分の処世として、いらないところは見限りシンプルに決め打ちしておくのだろう。でもそれをし過ぎると、どんどん「話の通じないひと」になってしまうと思う。頑固ね。それでいい場合もあるか。

「知っている/知らない」の配分をできるだけ正確に見積もっておきたい。ひとりの人間に対しても、知っているところ、知らないところ、両方ある。どんな関係でも。目に見える部分がすべてなわけがない。そのうえで「知っている」という思い込みに依存せず「知らない」を楽しみたい。このひとにはこんな側面もあるのか!と。良きにつけ悪しきにつけ。

きのう、ひとに「もしじぶんが浮気されたらどうする?」と聞かれて「してくれた浮気の相手とも仲良くなって、みんなで楽しく食事をしたい」とアンサーしました。ままごとかよ。わたしの世界観は、どこまでも平和です。これこそが真の平和ボケである。むせかえるほどの博愛……。冗談じゃなく、本気なんだから我ながらあきれかえる。「お前は天使なのか悪魔なのか」と言われる。

仲良くし合える人間ばかりでもないから、それもわきまえていたく思う。絵に描いたような理想を言っているだけでした。ただ、じぶんの目の前にいるひとがかなしんでいたり不機嫌であったり、それが耐え難い。そんだけ。考え方はシンプル。


つくったつくね。

左のアゴ関節に違和感があって、歯医者さんで歯科衛生士の方に「アゴはアゴ科に行くのですか?」と相談したら笑われてしまいました。アゴ科はないそうです。ざんねんです。じゃあ、わたしのアゴはどうすればいいんですか!!と憤慨していたら、歯医者さんで診てくれるそうです。「咬合異常」らしいです。

アゴを外してメンテナンスしたい。身体のパーツというパーツをばらばらに取り出して、ひとつひとつきれいに洗ったり組み直したりできたらいいのに。機械みたいに。





コメント

anna さんのコメント…
私も歯医者で「咬合異常かな?アゴが痛いでしょ?」って言われました。
原因は歯を食いしばっているせいだろうとのことです。
そいで、できるだけ「ぽわ~っ」と口を開けて生活しないといけないそうです。
あほみたいで、いやだなあ。

nagata_tetsurou さんの投稿…
annaさんも歯を食いしばって生きているのですね。おつかれさまです。わたしも似たようなことを言われましたが、それでは顔が締まりません。じぶんの場合、首にもちからが入っているみたいでこれもよくないそうです。「ちからを入れる」は無意識にやっていて、ちからを抜くほうがむずかしい。むやみにあほみたいになれると気が楽ですね。いや「あほみたい」ではまだちからが入っています。あほになるのです。