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日記601


蜂。後姿。背中で語る。いいお尻。
むしろお尻で語る。ケツ話術だ。
まるっこくて産毛が生えて、しましま。
いいお尻です。
顔出しNG。ケツ出しOK。

フル主夫の生活が終わりを迎えました。母の帰還。家庭内で家事労働をつとめる人間がひとり減るだけでもたいへんです。家事をいっさいしない父にイライラすることもありました。わたしを家に置いてくれていることには感謝しかありませんが、なぜそこまでなにもしないのか……。お菓子のゴミぐらい片付けてよ(生々しい愚痴)。こういう感情も含めた生活の機微を身をもって知っておくと、のちのちよいのではないかと思います。

「三十路手前で実家ぐらし」というと甘えてるとか、すねかじりとか、甲斐性なしとか、そういう印象をもたれがちですが、ひとり暮らしよりも気は重いです確実に。円満にやるためにはそれなりに身も削る。自己肯定感を下げない胆力も必要。「親と子」である前に人間と人間。お金の部分でらく、くらいなもので。あちらを立てればこちらが立たず、なところは何にでもあります。一長一短としか言えない。どちらがラクで良いのかは個人の適性による。人間と暮らしていれば、ひとと共にあらねばならぬことをいかんともしがたく突きつけられる。そこから思考が始まる。

両親と祖母の老いを日々まのあたりにすることも少し切ない。祖母は日付を忘れないようにと、毎朝カレンダーにバツ印をつけている。バツの並ぶそのカレンダーがおもしろくて、なんだか切ない。「ありがとう」ときみに言われると、なんだか切ない。過去にバツでケリをつける日々、サバイバーって感じだ。伊達に戦前から生きちゃねえ。

生活の内情は一般化できない。大味な認識で「甘え」だとかひとくちに言えてしまう方は幸福です。うらやましい。なんにもみないのね。その調子でお幸せに、と返すほかない。あなたはあなたの生活を守って。がんばれよ!

外食をしてもじぶんの食器は、ある程度まとめてから席を立つ癖がいつからかつきました。テーブルと、ついでに夏はコップの側面につく水滴もよく拭く。外食時くらいなにもしたくない派の人間からは嫌がられるかもしれない。そこは柔軟に対応します。場の雰囲気に水をさしてまですることでもない。

店員さんも機械ではないのでふつうに接する。いや機械も進化がいちじるしい。ペッパーくんは無性にジャーマン・スープレックスで仕留めたくなるが、アイボはかわいい。いずれ機械差別はよくないと言われる時代がくるのかもしれない。なんでもいいけど、わたしは「身内びいき」があまり好きではない。めんどくさいから基準をいくつも設けたくない。家庭内のふつう、日常生活のふつうを一本槍でつらぬく。器用にはいきません。でもいつでもひとつの「ふつう」をつらぬいていると、特別な関係が構築しづらいような……そんなことはないか。まいにちがスペシャルですから!かつ、ふつうですから!矛盾しません。じぶんの中では。特別あつかいがふつう。なんにだって特別な意味がある。

すべての関係は大なり小なり排他性を帯びます。いまここにしかない。その自然的な関係性の力学の上にまで「ふつう」という鈍重なロードローラーを走らせて平らに均そうとは思いません。排他的なところに、じぶんだけの価値が宿るのだと思う。あるいはふたりだけ。ふたり以上はない。オープン過ぎてもつまらない。


ミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』を読んでいます。新潮クレスト・ブックス。翻訳、岸本佐知子さん。オーロラの話と平行して読む。「本物の人間」は頭の中でこしらえた人間よりもっと奇妙で、面白く、ときにグロテスクでぜんぜんちがう時間を生きている。あるいは、思いがけず重なる部分も多分にふくまれており、ちがうと思いきやおなじで、おなじと思いきやちがっていて。ばちっと思い通りにハマることのない、ゴツゴツしたことばをお互いに持ち寄る。はじめましてなら、なおさら。わたしは知らない人間とことばを交わすことがわりと好き。ゴツゴツした会話をしたい。あるいは知り合いでも友人でも、会うたびに距離や感触を描いた想像の輪郭線がアップデートされる。一人ひとりと顔を合わせ頭の中にある想像との差分が補正されるときの感覚が、ひとの生きた実存だろうか。おもてたんとちがう。もっと生きてた。静止した脳内の記憶と生きた人間とのあいだには差がある。会って話せば記憶が上滑りする。壊れて、再構成される。変化の差分が楽しみなひとには魅力がある。また会いたいと思える。人びとは動いている。刻一刻。再会して、わたしの中にある記憶を書き換えてほしい。かたちも色も書き換わる。次に会うとき、あなたは哺乳類をやめているかも。触覚が生えていたり、うなぎみたいにぬるぬるしていたり。ポメラニアンみたいに愛らしかったり。ちょっと思ってたよりも、思ってたよりも。





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