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日記605


なんでもいいからイカれた映画が観たいと思って、TSUTAYAで借りたのは『マッドボンバー』。バート・I・ゴードン監督、1973年の作品。マッド+ボンバーならまちがいなし、という確信のもと借りました。派手な「ボンバー」をすこし期待しましたが、カネのないイカれた映画でした。低予算。でも、いい役者がいい顔の気狂いを演じればお安くドープな映画になります。

この映画をひとことで要するに「男はみんなジャック・ニコルソン」ということだと思ったのですが、ジャック・ニコルソンは出演しておりません。しかも、この場合の代名詞となるジャック・ニコルソン怪演映画『シャイニング』は1980年の作品なので『マッドボンバー』より後発です。「男はみんなマッドボンバー」と言ったほうが正確か。でも『シャイニング』のほうがポピュラーでピンとくる。

岸本佐知子さんが訳して編んだ『変愛小説集』(講談社)に入っている短編「リアルドール」に「男はみんなジャック・ニコルソン」的なセリフがあり、映画を観ながら思い出したのでした。

主要な登場人物は、爆弾魔・レイプ魔・鬼刑事。女性のあつかいがとにかくひどい。なぜかフェミニストの集会を爆破しちゃう。なぜだかわからない。

と、ここまで書いて。

下書きに保存しておいたのが8月31日。現在は9月4日。ああ、日が経つのは早い。思わずしみじみとしてしまいます。もう『マッドボンバー』の内容も、うろおぼえ。たしか冒頭、こんな。路上にゴミを捨てたおっさんをチャック・コナーズ(爆弾魔)が背後から呼び止め「拾え」と胸ぐらをつかむ。「お前が世の中を悪くしている」と脅す。過剰な「正しさ」をふりかざす。社会秩序のためなら暴力も厭わない歪な男の感覚が即座にわかる。チャック・コナーズの大きな顔がいい。大きな体格もいい。大きなものはいいものだ。神経質そうな巨漢で「正しい行い」をする爆弾魔の役。いいチャック・コナーズを拝むことができます。これだけでも満足。

正しい男が、理性的に狂っていた。きっかけは過去の感情的な出来事だった。感情を理で固めようとするから気狂いになる。そんなに理性は偉くない。感情は感情で表現すればいい。「感情をコントロールする」とは抑圧することではない。じぶんの抱いている喜怒哀楽をなるべく正確に捉え、範囲を定めてつたえることだ。表現すること。

いや、それをすると理に落ちてしまうのか。「当たり散らす」をしないと気が済まないものが感情か。「つたえる」手段が爆破しかないときもあるのか。あるのかもしれない。理路の細道は息苦しい。感情もまた。怒りも哀しみも、理性も、なんにも関係のない場所であそんでいたい。浅瀬でばしゃばしゃ。

爆弾魔のチャック・コナーズは最後までピクリとも笑わなかった。笑うってことは、きっと手放すってことだと思う。わたしにとって、笑いは距離を測るためのもの。かなしいときも、怒れるときも、習い性で笑っている。これはこれで気狂いじみている。人類はみんなジャック・ニコルソンだと言いたい気もします。



9月1日(土)


お坊さん、司書さん、無職さんの3人で歓談。写真は井の頭公園。無職に「さん」はつけない。そんな常識があるように思いますが、フェアではありません。地球というおなじ土俵で生きてっかんな。その前に、みずからへの「さん付け」がナシか。無職として生きているわけでもない。生物として、いるだけです。いきものさん。「地球にいとけ」と言われた気がする。


遊びにおいでよ ちょっとだけ
終わりと始めのあいだに漂うこの星に
地球という名の美しい流刑地に


こんなふうに軽く誘われた。沼野充義先生の本にあったバグノポリスキーの詩。だから“ちょっとだけ”ここにいる。刑期を終えるまで、ここで生き物をする。ほかのひとはどうかわかりませんが、わたしはいちおう生き物みたいです。職業を放擲するとただの生き物になれますから、おすすめです。意味なんかないね。意味なんかない。いまにも僕は泣きそうだよ。

吉祥寺の武蔵野珈琲店で一服して、小雨が降る中、井の頭公園。適当なベンチに座り、スマホで選曲をしあう。なにこの素敵な時間。いまふりかえって思う。固有名詞が説明なく通じると会話の自由度が高まる。共通の文化的なコンテクストがわかれば、理解力を信頼できます。少ないことばでわかり合える。

おふたり初対面でしたが、語彙を制限することもそれほどなく、とても話しやすかったです。「ミランダ・ジュライいいよね」と、このひとことだけであらゆるものをすっ飛ばして仲良くなれる気がするんだからふしぎ。

「チルい曲」。お題のように出たことば。わたしの選曲は、曽我部恵一とPSGの「サマーシンフォニーver.2」。ベタな曲がいい。晩夏っぽい。湿っぽいトラックが雨に馴染む。いくつも重なった紫外線がやがて地球のものすべて焼き尽くしてそんでビーチサンダルだけが残っても。それはそれで楽しい。





しかし、あたまの中でぐるぐるまわっていた曲はLibroの「雨降りの月曜」でした。


気分はさわやかな日曜日の吉祥寺おれが意思表示
白鳥かアヒルのボートに乗って
いつもおなじみのビールを飲んで
寒けりゃ寒いでコート着込んで
今日も意気込んでちょうどいい本でも読んで


雨降りなこともあり、土曜日なれど吉祥寺なこともあり、目の前でボートを漕ぐ人々もあり、本の話も。というか、前日に立ち寄った古着屋さんのBGMでテノーリオ・ジュニオルがずっと流れていたことが原因として大きい。





この曲のサンプリング元はブラジルのピアニストTenorio Jr.の「Nebulosa」。おふたりはNujabesと向井秀徳のCHE.R.RY(Yuiのカバー)をかけてくれる。

選曲が一周して、なんとなーく雨が強まってきたため公園をあとにし、本屋さんの百年へ。中古で吉田知子の『脳天壊了』(景文館書店)を購入する。大谷能生のCD『「河岸忘日抄」より』も中古であったんでほしいと思ったけれど財布と相談して戻す。大谷さんの声はドエロい。

それからハンモックカフェの麻よしやすへ。ふわふわしたソファに3人で座り、学生の部室トークみたいなだべり。司書さんはラッキーオールドサンが好きだと知って、趣味が合うとはこのことかという気がしている。まだ「気がしている」段階です。





おなじような系統のふたり組のデュオ、ハンバートハンバートもセットでもちろんお好き。青葉市子も聴きます?みたいな固有名詞の連鎖が起こる。女性ボーカルの声質つながり。青葉さんは「サーカスナイト」をカバーしていた。向井秀徳も。「サーカスナイト」のラインで七尾旅人までは、あたまがまわらず。ポール・マッカートニーのライブを観たいという話からスイングして、オフスプリングのライブを過去に観た話をする。Zepp福岡。言えばオフスプリングもとうぜんのごとく口遊めるんだからうれしい。大メジャーだと思うけれど、わたしの身近で知るひとは過去からきょうまで少ない。パンクロックが好きだと言えば、その話もなんとなくしてくれる。知らない本も教えてくれる。

国やジャンルや名前を限らず広い好奇心で音楽をたのしんでいるひとと出会えることは、なかなかない。映画や読書についても。何でも見てやろう、な精神性はいまどきめずらしい気もする。小田実かよ。世界主義というか。コスモポリタンな感受性は、依拠するところのない孤独から始まる。つながるためではなく、ひとりであるところから静謐に熾る探究の燈火が消えずにいる。その一部がたまたま重なるひと同士と出会えることもある。


夜、わたしが予約していたライティング講座の無料体験会みたいなやつにもつきあっていただけて、とてもありがたい。宣伝会議の一室。講師は米光一成さん。ひとりで予約して、じつはちょっと不安でした。表参道のポルシェ屋さんの上という、ふだんは寄り付かない場所。米光さんは、ゲームのぷよぷよをつくったひと。

少し時間に遅れてしまうも、まだ導入部分な感じだったのでセーフ(ということにしておこう)。発想法のトレーニング2時間。ワークショップみたくわいわい手と口を動かす。はじめは「勉強しよう」という心構えから緊張してあたまが固かった。とちゅうから、就活アウトローで個人的に学んだ「自由に楽しむ姿勢(≒ぜんぶどうでもいい姿勢)」へと転換。米光さんもそれを求めていたと思う。

「生徒でいよう」と小さく収まる意識は悪でしかない。もう大人だろ。てめえのあたまで考えて、やりたいようにやる。「講師と生徒」という立場にこだわってはいけない。対等な感覚で、かきたいように恥をかく。帰り道で思ったことだけれど、ぜんぶ大喜利のお題としてうけとればよかった。まちがえることなら、得意中の得意なのだから。大喜利はまちがいを楽しむ文化。正解はない。なるべく楽しくまちがえたい。

いくつか発想のお題を出された中に「残酷なもので5・3」と、俳句のように字数の型へことばを流し込むものがあって、わたしは映画の残酷なシーンがぱっと浮かび「顔面が・破裂」などとおもしろみのないことを書いていました。

『スキャナーズ』のシーン。Head Explosion。
観直すと、顔面というより頭部がパーンでした。
記憶より爽やかで、そんなに残酷ではなかった。
パーン。





このお題に司書さんが味わい深いアンサーを出してくれて、すばらしかったです。チームで発表するかたちだったから、すぐ採用。米光さんもほめていた。残酷なもので5・3。


思い出が ひとつ


なんてことのないフレーズだけれど、「残酷なもの」という枠組みにハメ込むと格段に引き立つ。噛めば噛むほど味が出る。良すぎます。このワンフレーズの外に浮かぶ物語がある。言外に滲む湿り気を、指でやさしくなぞるように刻んだひとこと。思い出がひとつ。あった。握りしめた。はずだった。じっと手を見る。もうぜんぶあやふやな夢だ。

助詞の「が」、これが効いている。過去向きの「が」だと思う。いまはもうない。未来にもない。ほんとうはどこにもなかったのかもしれない。思い出がひとつ。「思い出は」だと、現在時のすこし鮮明な響きがする。「思い出を」は未来への希望がほの見える。「思い出が」は零れ落ちた永遠に手の届かない過去へと話しかける助詞だ。

すごく文学的。最高。天才(ほめ過ぎ)。

さいごに「自分マトリクス」という名目で、大谷翔平くんもやっていた「目標達成シート」みたいなものを書く。これを書くのは就活アウトロー以来2回目でした。だいたい前回とおなじようなことを書いてしまう。じぶんを表す単語。「無」とか。真っ先に思いつくことが「無」です。なんにもないなんにもないまったくなんにもない。

固有名詞を書こうにも、優先順位がつけられない。
短時間のアウトプットがとても苦手。時間がほしい。

じぶんにとって米光さんはラジオや活字のメディアで触れる有名人だったので、こんかい間近でお話を拝聴できたり、マイクを向けていただけたり、とてもミーハーな感想だけれど興奮と緊張でドキがムネムネでした。無料講座ながら感謝。

だけど東京は、ちょいと行動すれば画面越しのひとにも紙面越しのひとにも、イベント等を介して会えてしまう土地。わたしが行動しないだけでした。うごかなきゃね。初対面なのに夜まで長いこと付き合ってくれた、おふたりにも感謝です。


帰りの電車でぼんやりと「紋切り型を突き崩す」というお話を思い出して、ちょっとした意地の悪さがないと「突き崩す」はできないなと思う。暴力を孕んだ表現。突いて、崩す。既存のイメージを塗り替えるようなべつの仕方を探すこと。素朴なものも好きだけれど。



これで9月最初の土曜日はおしまい。





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